第3話
長谷川は大股で埠頭に向かいつつ、どこか釈然としないものを感じていた。といっても、久松啓斗らの供述に矛盾があったわけではない。ひとまず筋は通っている。
強いていうなら違和感だろうか。彼らの表情にはどことなく警戒感が滲んでいたように思う。それは何かを隠しているようであり、何かに恐怖しているようでもあった。
そしてその正体を突き止めることで、今回の件はあっさり解決に向かうのではないかという気さえしていた。
「やっぱり、あれは事故ですよ」雪国生まれの塚岡が、半分溶けたような声でいった。
「まあ、ふつうはそう考えるだろうな」
「ふつうは、って……長谷川さんは違うんですか」
「結論を出すには早すぎると思っただけだ。それに、気になる点もあるし」
住宅地を抜けると海まで真っ直ぐな下り坂が出現し、遥か先には地平線が伸びている。埠頭で赤色灯が回っていることを除けば、じつにいい景色なのに、と長谷川は思った。
「気になる点っていいました?」改めて塚岡が訊いた。
「まず、クーラーボックスとチェアが両方とも海に落ちていたことだ。鑑識のいうように尾上さんが眩暈を起こして海に落ちたのだとすると、チェアやクーラーボックスを巻き込んで落水したことになる。釣り竿なら直前まで手にしていてもおかしくないが、クーラーボックスはふつう地面に置きっぱなしだろ。尾上さんが海に落ちてもそのまま地面に残っている可能性が高い」
尾上哲司、というのが溺死した男の名前だった。年齢は六十六歳で、つい最近会社をクビになっている。
「なるほど。じゃあ、尾上さんは何者かに突き落とされたってことですか」
「いや、仮にそうだとしても疑問は残る。犯人がいるのなら、なぜそいつは尾上さんだけを突き落とさなかったんだ。クーラーボックスが浮いてたら、事件性がありますよって宣言してるようなものだろ」
近くを見上げると、化学工場の煙突がもくもくと煙を吐き出していた。いざ排煙を目にすると、環境は本当によくなっているのかと心配になってしまう。周囲の魚も安全なのだろうか。
埠頭のすぐ近くまで来ると、ただでさえ馬鹿でかい蒸留塔が、まるで発射前のミサイルのようにそびえたっていた。
「本当に彼らしかいなかったのかな」長谷川はぽつりと呟いた。
「もし怪しい人物がいれば、係長が連絡を寄こしてくれると思いますが」塚岡は規制線の内側にいる、福山係長のほうを見つめていった。
自販機で買ったのか、福山は伊藤園の冷えたお茶を額に押しつけている。夏は水のほうが細菌が繁殖しやすいんです、と長谷川がいってやると、福山は見事に緑茶を飲むようになった。
二人はその福山に、久松家でのいきさつを簡潔に語った。収穫なしと聞いても特に残念がらず、一刻も早くこの場から解放されたいと願う気持ちばかりが伝わってくる。
「こっちも同じく、だ。あれから近くの防犯カメラを当たってみたが、やはり例のマニュアル車以外、誰もここには立ち入っていない。工場関係者は、埠頭を封鎖されてえらい迷惑だって怒ってたな」
聞き込みをしに行ったはずが、散々愚痴を聞かされる羽目になったのだろう。福山の機嫌が悪いのは、おそらく猛暑のせいだけではない。
「夕方には鑑識、終わりそうですか」長谷川は訊いた。
太い眉を掻きながら、「終わらせるんだよ」と係長は苛立ったように応えた。
次に下された指示は、鑑識が手を引くまで付近の聞き込みを続けてくれ、というものだった。事故と処理するのにそう時間はかからないだろうが、と福山は付け足した。
福山がどこかに去っていくと、長谷川はそれとは逆の方向に向かって歩き出した。
本当に事故で片づけてしまっていいのだろうか、という葛藤が胸のなかでぐるぐると渦を巻いている。久松家から感じられた異様な空気は、ただの思い過ごしだったのか。
長谷川は真顔のまま、ふーっと太い息を吐いた。
「最後は直感で動け──」不意に塚岡がいった。
えっ、と思わず訊き返す長谷川。
「自分では気づいてないかもしれませんが、長谷川さんの口癖です。上に捜査を断念しろって迫られたとき、いつも大体こういってますよ。その結果、暴かれた罪が多くあったのも事実です」
「だから今回も動けというわけか」
「無駄にはならないと思います」真剣な眼差しで見つめてくる後輩の目に、偽りの色は感じられなかった。と同時に、こいつは自分に似ている、とも思った。
「わかった。じゃあ今から俺のいう通りに動いてくれ。俺はここに第三者がいたという痕跡を探す。お前は被害者の遺体に不自然な点がないかどうか、改めて調べてほしい。とにかくどんな些細なことでもいいから」
塚岡が承諾すると、長谷川はひとり、埠頭の奥のほうへと進んでいった。久松啓斗のいうとおり、この埠頭は広い。工業用地はどこもこんな感じなのだろうか。
しばらく進むと、今は使われているのか知らないが、かなり古びた資材置き場が点在していた。管理は無造作で、いたるところに赤さびが浮き出ている。さすがの鑑識もここまでは手を付けていないようだ。来る気もないのだろう。
カモメの鳴き声が耳に届く。人がいないため、波の音が規則的に反響する。
そんな中、長谷川はふとある物に気を留めた。茶色く錆びついたトタン屋根が張られている、小さな倉庫だ。鉄製の資材がほとんどで、隅には段ボール箱が整然と積み上げられている。
長谷川が違和感を覚えたのは、最奥部にある段ボール箱だった。それは防御壁のように不自然に積まれ、他の場所と比べると少し妙な気がした。
なかに足を踏み入れると、カビ臭くはないが埃っぽくて薄暗い。そして肝心の場所まできた長谷川は、おや、と思った。
そこにはゲーム関連の雑誌、スナック菓子の空き袋、小型の扇風機などが置かれていた。長谷川は手袋を嵌め、まずは雑誌を手に取ってみた。表紙には、数週間前に発売されたばかりのゲームタイトル『鎧の牙』が刻まれている。するとこれは攻略本か。
来月で十才になる息子の祐介が、誕生日にこのゲームを買ってくれと無心している。妻は反対しているが、長谷川は俄然、買う気でいた。思えば息子に父親らしいことを何もしてやれていない。せめて小さな願いぐらいは叶えてやりたいのだ。
ゲームの知識が浅い長谷川は、若者に人気のシューティングゲームということぐらいしか知らなかった。
だが──。
ひとつはっきり覚えていることがある。それは、このゲームは複数人でプレイしたほうが断然楽しい、ということである。
長谷川は確信した。ここを秘密基地にしている地元の小学生たちがいる、と。その子たちは、昨日もここにいたのだろうか。
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