第2話

 それに対する答えはすでに用意してある。ここからは啓斗の出番だ。

「ええ、確かに昨日、僕と妹と祖母の三人で埠頭に行きました。車を真ん中に停めて、のんびり海風にでも当たろうと。おっしゃるとおり、そのとき男性が一人いて、どうやら釣りをしているようでした」

「我々もそう睨んでいます。被害者のものと思われるチェアとクーラーボックスが水面に浮いていましたからね。この状況を踏まえると、被害者が溺れる直前まで釣りをしていたのは明らかだと思います。あとは、それが自殺なのか偶然起きた事故なのか、はたまた何者かに突き落とされた事件なのかを調べるだけです」

 啓斗は心の底で少し安堵した。まだ警察はこれといった証拠を握っていない。というより、このまま出てこずに幕を閉じる可能性だってある。

 啓斗は気を引き締め直し、姿勢を正した。迂闊にも唇を舐められない。

「ところで」と塚岡はいった。「埠頭に行こうといい出したのは?」

「私です。育ちが海の近くだったもので」そういったのは喜美代だ。「だから孫に運転してもらって連れて行ってもらったんです。年のせいで足もとがおぼつかないので、船着き場には近づくなと孫二人から釘を刺されましたけど」

「なるほど」と納得したように塚岡は頷いた。彼が手帳に書き込むようすを、隣で長谷川が静かに見守っている。

 あのう、と小さく啓斗が訊いた。すると、今まで手帳に気を取られていた長谷川は顔を上げ、啓斗のほうを向いた。

「刑事さんの話を聞いてると、どうもただの事故じゃないかなって感じがするんですけど」

「もちろんその可能性は高いです。急に眩暈を起こして落水した、あるいは掛かった魚に強く引っ張られた、あらゆるパターンが考えられるでしょう。こういう事故はやはり多いですからね。ただ、少しでも他殺の疑いがあるならきちんと聞き込みをする、そういう泥臭い仕事なんですよ」彼は計算高そうな笑みを浮かべた。

 この刑事は何かを感じ取っている、そう啓斗は直感した。もしかすると自分たちは、彼らの用意した水槽で泳がされているに過ぎないのではないか。

 疑いの言葉などひとつも掛けられていないのに、脇にはびっしりと汗をかいている。

「あと最後にひとつだけいいですか」長谷川は人差し指を伸ばした。「あの埠頭、工業製品や原料を輸送するための場所ですよね。そこでどうも気になったことがあるんです。どうしてあの辺り一帯に大量のタイヤ痕が付いているのか、ご存知ですか」

「それなら知ってますよ。あそこは敷地が広くて一般人でも入れますし、よく車やバイクのドリフトをしに来る連中が多いんです。もちろん僕はやったことないですけどね。地元の車好きにはたまらないスポットらしいですよ」

「昨日はそういう人はいませんでしたか」

「はい、たぶん一人も」

「そうですか」あながち当てが外れたというふうでもなく、長谷川は表情を変えずに立ち上がった。それを見て残りの三人も腰を浮かせた。

「どうも長々と失礼しました。またお話を伺うこともあるかと思いますが、そのときはぜひ協力していただけると助かります」改めて長谷川は頭を下げた。塚岡もそれに続く。

「あまり参考にはならないと思いますが、僕たちでよければ」

「ご協力、感謝します。あっ、そうだ」長谷川はふと何かを思いついたように、喜美代と目を合わせた。「やっぱり、孫娘さんにも一応話を聞かせてもらってよろしいですか。急に気変わりして申し訳ないのですが、お二人が現場の状況を覚えておられたように、ヒントが得られるかもしれないので」

 啓斗は思わず祖母のほうを向きかけたが、寸前のところで堪えた。

「別に構いませんよ、案内します」

 啓斗は喜美代を和室に残し、二人の刑事を連れて二階へ上がった。そのすぐ右手が愛梨の部屋で、広さは十畳ほどである。

 ノックをしてからドアノブを捻ると、愛梨が電子ピアノで演奏している姿が目に入った。かたかたと鍵盤をたたく振動だけが伝わってくる。彼女はヘッドホンをしておりノックの音に気付かなかったのだろう、少し驚いたようすでこちらを見つめた。

 長谷川が事情を説明すると、愛梨は首を傾げて考え込んだが、やがて力なくその首を横に振った。

「他には誰もいなかったと思います」

「じゃあ、釣りをしていた男性に、どこか変わったようすは? ちょっと具合が悪いのかなあ、とか」

「さあ、よく見てなかったから何とも」

「まあ、無理もない話ですよね」長谷川は手帳にそのことを書き足すと、部屋全体を一瞥し、やがてその焦点を愛梨の学習机に合わせた。彼女が中学生のときから使っているものだ。

 一体、刑事は何に反応したのだろう、と啓斗はドアのすぐそばに立ちながら思った。あの長谷川という男は厄介な相手かもしれない、そんな不安の雲が広がりつつあった。

「琴宮高校なんですね。たしか野球がめちゃくちゃ強いんじゃなかったかな」不意に長谷川がいった。彼はデスクに飾られた写真立てを覗き込んでいる。二年生の春休み、吹奏楽部で集合写真を撮ったときのものだと愛梨から聞いている。

「世間では野球の名門っていわれてるけど、文化部も結構活躍してるんです」

「へえ、それは知らなかったなあ」どうやら本当に初耳だったらしく、口調にわざとらしさはなかった。「ピアノは昔から?」

「四才のときからです。来週末に教室の発表会があって、あたしはそれで引退なんです。いつの間にか、教室で最年長になっちゃって。ちょっと寂しいですけど、あとは音大に行って学ぶつもりです」

「そうですか。そういう特技は大切にしたほうがいい。こんなおじさんになると、できることも限られてくるからね」やや自嘲気味にいうと、長谷川はくるりと身を翻し、啓斗のほうを改めて見つめた。若い塚岡もそれに倣う。

 構えていなかったので、啓斗は思わず口元に力を入れてしまった。

「すみませんね。長々とお訊きしてしまって。我々は本当にこれで失礼しますから」

「早く解決するといいですね、その事故」ちらりと愛梨のほうを窺うと、彼女は沈痛な面持ちで楽譜を眺めていた。

 いや、その奥で奏でられる、不協和音に怯えているのかもしれなかった。

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