第1話
『──あとを絶たないペダルの踏み間違え。高齢者の交通手段の確立こそが今後の課題であり、政府には迅速な対応が求められています。』
爽やかな男性キャスターがそう締めくくると、次の話題は動物園にやってきたパンダに移った。
──やはりまだ発見されていないのか。
久松啓斗は今にも破裂しそうな心臓を抱えつつ、チャンネルを適当に変えてみた。各局で昼のニュース番組を放送しているが、一向に『昨日のこと』が取り沙汰される気配はない。スマホアプリの速報欄にもまったく挙がってこなかった。
だが必ず刑事はやって来る。そのときに自分は平静を保ち、悠然と嘘を突き通せるだろうか。演技には自信があるが、果たしてそれはプロに通用するものだろうか。
「心配しなくていい」和室のほうから祖母の喜美代の声がした。啓斗のいるリビングとは襖一枚を隔てているだけで、今はその襖が半分ほど開いている。
「本当にうまくいくのかな? もしもボロが出たりしたら、そのときは……」
「おばあちゃんがすべての罪を被る。最初からそういう約束だったでしょ」凛とした姿勢で、それでいて諭すように喜美代はいった。
「でも、それじゃおばあちゃんが……」
「啓斗、しっかりしなさい。あなたももう大人でしょ、二十歳でしょ。だったら覚悟を決めなさい。この先何十年も生きていく、若者の未来が奪われてはならないの。たかがあんなことで」
「……わかったよ。いう通りにするから」後ろめたさで胸が一杯になりつつ、啓斗は立ち上がった。家にいたら緊張と恐怖で押しつぶされそうになる。少しでも気を紛らわすため、洗車でもするかと立ち上がったときだった。
ちょうど二階から、妹の愛梨が下りてくるのが目に入った。彼女は防音性の高いイヤホンを付けている。啓斗が話しかけると、愛梨は目の前におぞましい物でも立っているかのように眉をひそめ、素早くイヤホンを外した。
「どうしたの? 作戦の変更でもあった?」
「いや、計画どおり進める。愛梨も覚悟はできてるな。いつ警察が来てもおかしくないから、しっかり心の準備をしておけ」
「もうできてる。お兄ちゃんこそ、動揺しないでよね」
「当たり前だ」
啓斗がちらりと和室に目をやると、喜美代は趣味の書道をしている最中だった。もっとも、今は心を落ち着かせるためにしているのだろう。祖父が死んだとき、一滴も涙を見せなかった喜美代がこんなにも頬を引きつらせ、身構えている。
啓斗が玄関のドアをゆっくり押すと、湿気を帯びた熱風が肌にまとわりついた。
庭からホースを引っ張ってきて、それを近くの蛇口に繋いだ。水圧を微妙に調整しながら青い車体の汚れを落としていく。普段なら本格的な薬剤を使うところだが、今はとてもそんな気分にはなれない。
あのう、と背後で低い声がしたのは、車の左側面を洗い終えたときだった。
振り向いてみて、啓斗の脊髄に電流が走った。それは身の危険を知らせる信号だった。ついに隙を見せてはならない相手が現れたのだ。片方は若く、もう片方は中年といったところか。
「久松さんですね。お忙しいところ申し訳ないのですが、少しお時間をいただけませんか。お訊きしたいことがあるんです」中年の男はそういい、啓斗の目の前で警察手帳を開いてみせた。長谷川という名前らしい。
「はあ、警察の方ですか」できるだけ自然にいったつもりだが、長谷川は啓斗の脳内を透視するような目で睨んでくる。人相の悪い顔立ちだ。
「ここではあれなんで、中でお話しましょう。構いませんか?」
「わかりました」啓斗が了承すると、二人の刑事は軽く頷き合った。
啓斗は二人を和室に案内した。喜美代はまだ筆をとっていたが、啓斗の背後に立っている人物を認めると、静かに筆を置き、「どちら様ですか」と尋ねた。
長谷川は二度目の自己紹介を終えると、若いほうと並んで座った。その若いほうはさりげなく室内を見渡している。どんな小さなことも見逃すまい、という確固たる意志が感じられた。
啓斗が喜美代の隣につくと、長谷川は口を開いた。
「なかなか風情のある和室ですね。それに庭もちゃんと手入れしてある」ガラス越しの雀を和やかに見つめ、彼はいった。
「刑事さん、話があるなら早くいってくださいませんか」
「おっと、失礼しました。では早速本題に入りましょう。ちなみに、今日は娘さんとお孫さんは?」
「娘のほうはパートに出ていて、孫は二階でピアノを弾いています。最後の発表会が近いもので、必死に練習しているんですよ」
「そうですか。いや、別に呼んでいただかなくても結構ですけどね。単なる確認に伺っただけですので、お二人で充分です」長谷川は若手の塚岡に目配せし、あとはお前が説明してくれという顔をした。
塚岡は組んでいた指をほどき、自分の手帳に目を落とした。
「今朝、双葉港付近で男性の溺死体が発見されました。ここからだと近い距離にあるのでご存じでしょうが、工場が林立している一帯にある埠頭です。死亡推定時刻は昨日の午後二時から午後三時の間と見られていて、我々は事件性も視野に入れて捜査しています。近くで聞き込みを行った結果、ボンネットにステッカーを貼っている車が埠頭に入っていくのを見た、という人がいたんですよ。あと、ギアを入れ替える音もしたそうですから、おそらくマニュアル車だったのでしょう──それはもしかすると、お宅の車ではありませんか」塚岡はやや挑戦的な口調でそう告げた。
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