クラッチ

やすんでこ

プロローグ

 まだ八月に入っていないのに、気温は四十度に達していた。汗ばむ額をハンカチで拭い、響子は牙を剥き出した太陽を見上げる。幼い頃から日焼けなど意に介さないタイプだったが、父の皮膚がんの宣告を受け、最近ではようやく日焼け止めを塗るようになった。

 彼女は自宅から目と鼻の先にあるコンビニに向かっていた。買うものはすでに決まっている。最新刊のスポーツ漫画だ。

 学校のテストで満点を取ったら好きな漫画を一冊買ってやる、というのは小学三年になる息子との約束だった。夫はエサをぶら下げる教育方針には反対していたが、テレビでそれを推奨する番組が流れるや否や、「今の時代、そういうやり方もありかな」と弱気に漏らしていた。響子もそれでいいと思っている。

 入店すると、季節が急に逆転したように涼しくなった。レジにいるのが不愛想な店員であっても許せてしまう。雑誌コーナーの前で立ち止まり、『庭球の風』というタイトルがないか左から順に確認していった。

 お目当ての漫画はすぐに見つかった。どの家も息子をもつ母親は、これを買い求めるため近所の書店やコンビニをいくつか回っているらしい。しかしその苦労を負ってでも、面倒臭がらず実行すべきと自分にいい聞かせている。漫画を与えなければ、次の遊び相手がスマホやタブレットになることは目に見えているからだ。

 響子がレジに向かいかけた、そのときだった。

 バリン、とガラスの砕ける痛烈な、凄まじい破壊音。反射的に振り向き、愕然とした。一瞬にして背骨が凍りつく。

 コンビニに入店、いや突進してきたのはグレーの軽自動車だった。運転席でハンドルを握っている男は呆然と前を見つめ、まるで状況を呑み込めていないようすだった。

 さらにその手前、青年が右腕を押さえ床でもがき苦しんでいる姿が響子の目に入った。車に体当たりを食らったのだろう。

 あっという間に店内は喧騒に包まれ、中にはスマホを取り出し撮影する客もいた。だが響子は脇目もふらず、青年のもとへ駆け寄りしゃがみ込んだ。彼は高校の制服を着ていた。

「大丈夫?」仰向けになって倒れている青年の肩に手をまわし、屈強な体を少し起こしてやる。幸いにも出血箇所はなく、命に別状はなさそうだ。

「腕が……、痛い……」男子生徒は必死に歯を食いしばっている。折れているのか。

 響子は迷うことなく救急車を呼んだ。

「待っててね、すぐに病院で診てもらえるから」

 響子がレジのほうに視線をやると、店員が真っ青な顔でスマホを耳に当てていた。まずは警察に事情を話しているのだろう。周囲の客はじろじろと響子と店員を交互に見るだけで、何の力も貸してくれない。それがどうしようもなく腹立たしかった。

 バンパーが激しく損傷しているにもかかわらず、車のエンジンは依然として振動を続けている。だが運転手の姿勢は変わっていた。深くうなだれ、両手で頭部を覆って小刻みに体を震わせている。事の重大さに気付き、恐怖のどん底に突き落とされたのだろう。

 アクセルとブレーキの踏み間違えだろうな、と響子は予想した。そしてそこまで考えが及ぶ自分がいかに冷静であるかを思い知り、誇らしい気分にもなる。

 それから数分して、救急車のサイレンが聞こえてきた。

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