第37話 早足
「では失礼します」
ユミは恩師に対するように、恭しく頭を下げて、そのまま立ち去りました。
気が急いてしまうのを覚られないように慎重に歩んでいきます。逆にそれが不自然な歩き方になり、姿の見えない警察から怪しく見えはしないか、とも思いました。とにかくこの場を去ろうという焦りをコントロールしてゆっくりと歩くことしかできませんでした。
上ってきた階段を下りる途中、ふり返ると、赤い壁の前で、白と黒のゴスロリ服を着たホワイト・デュークが手をヒラヒラと振っていました。ユミはもう一度頭を下げます。そのまま階段を下りるのですが、心の中では自分に「ゆっくり、ゆっくり」と命じていました。妙なオブジェのある広場に着きました。初夏の夕日がゆっくりと落ちようとしています。赤と黒の三角形でできたオブジェの陰影が濃くなってきています。広場を抜けると、左手に屋内型のテニスコートがあります。右手には中華料理店の白い建物が見えます。そのテニスコートを脇に眺めながら歩きます。ふとふり返ってしまいました。
遠くに見える階段の上はだいぶ暗くなっていて、はっきりとは見えませんが、ゴスロリ服を着た人が数人の男たちと話していました。男たちはみなスーツを着ています。男たちは律儀にマスクをしています。
本当に警察が見張っていたのだと知り、また鳥肌が立ちました。
テニスコートを抜けると、二車線の道路があり、それを渡ると鎮守の森があります。
ユミは足早に、かなり暗くなった森に入りました。
後ろを窺っても、誰も追ってくる気配はありません。森に入るとすぐ、右手に解雇を言い渡された小さな社があります。木製の小さな社は闇に沈んでいます。目を凝らすと社の屋根の上や小さな回廊などに、何かが乗っています。大きさからするとカラスのようでした。
今のユミには参拝する暇はないし、カラスに襲われそうなので、一礼だけをして通り過ぎました。
位置関係を考えれば、自宅とは逆の方向へ進んでいます。逆にショッピングセンターの方に進んだ方が近道なのです。ものすごく遠回りになりますが、二度とショッピングセンターに近づかないように、遠回りで帰ることに決めました。疑心暗鬼になっている今のユミには、自分が警察に尾行られている気がしてならないのです。焦って変な行動をしているところを誰かに見られるのはマズい気もしました。
しかし、もう暗くなってしまった森を抜けるころには恐怖で小走りになっていました。誰かに追われている気がしてふり返ることができませんでした。それが錯覚だろうとは思うのですが。涙が頬を伝い流れてくるのを、手の平で必死に拭いました。誰にも泣いていることはバレず、暗闇がそれを隠してくれるのですが。
鎮守の森を抜けたところには住宅街がありました。そろそろ夕飯の準備が始まっている時間帯です。平時ならば帰宅する人も多く見られるのですが、住宅街を歩く人は見受けられません。緊急事態宣言のおかげで、みな家に閉じこもっているのです。
ユミは泣いているのを隠す必要がなくなったと少し安心しました。ひっそりとした住宅地を泣きながら早歩きで、自宅のアパートに向かって歩きました。
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