第25話 見たくない絵 四枚目

 厚い壁にある絵を食い入るように見ながら、歩いていきます。だんだん寒くなってきました。

 四枚目の絵は、自分の部屋です。

 絵にモノトーンで描かれた絵のなかで、ユミは膝を抱えて、自分の膝に突っ伏しています。天井にある丸い電灯の白い光がスポットライトのように、ユミと小さな机を照らしています。

 卒業するときに、バイトしながら学芸員を目指す生活になると言ったら、両親はこぞって反対しました。

「あと、ユウ、大学に行くから」

「はあ?」

 クソオヤジが同時にとんでもないことを発表しました。ユウとはユミの弟で高校三年生でした。

「なんでユウは大学に行くの」

「いや、タイミングだよ。そのあと、仕事が軌道に乗ったんだよ」

「ちょっと、おかあさんに代わって」

 うさんくさい言い訳だったので、おかあさんから話を聞こうと思いました。

 父はブツクサ言いながら代わりました。

「なに・・・・・・」母は話したくないという声を出していました。

「どうしてユウは大学に行くの。大学って四大でしょ」

「そうなのよ。ユウは男だから、きちんと大学でなきゃいけないって」

 今どきそんな時代錯誤な人間がこの世に存在すること自体が意外でした。

「だって、ユウは勉強キライでしょ」

 ユミの弟は大のサッカー狂いで、ろくすっぽ勉強していないはず。

「そう。サッカー、サッカーっていう割に、試合で勝ってるわけでもないでしょ。推薦でも使えないの。なのに、お父さんが大学行けって急に言いだしたの。今、予備校行くって大変よ」

「あの、うちお金なかったんじゃなかったの」

「ううん・・・・・・」

 なんだか母は言い出しにくそうでした。

「あれね、嘘なの」

 家で例のテーブルに置いた電話で書けていたのですが、目の前にあるキッチンが、ずっと向こうに遠のいていく感じがしました。

 血の気が引くのを感じました。

「おかあさん、何言ってんの」

 振り絞るようにそう言いました。

「お父さんに聞いてよ、もう知らない」

「切りやがった」と大きな声で叫んでしまいました。

 その日の夜、何度か携帯に電話がかかってきました。履歴を見ると、父親だったり、弟だったりしました。

 それを無視して、泣き続けました。

 もう誰も信じられません。

 ユミ以外の全員が、ユミよりは幸福に生きているに違いありません。

 正義もキライです。みんな自分の利益だけを考えている。私は誰にもだまされない。そうユミは思い続けました。誰にも関わらなければだまされないんだ。ざまあみろ、私は透明になってやる。そう決めました。


 厚い壁に貼られた絵を見ていくと、次の絵は「マーク・ロスコ」のようなデザインの絵でした。

「いや違う」

 よく見ると、ユミよりもずっと巨大なキャンバスが真っ黒に塗られているだけでした。ですが、その黒い絵の具が、グネグネとうねっていて、光の反射で少しだけ白く見えたり、黒がより黒く見えたりしているのです。見ていると、吸い込まれそうで、魅惑されてしまいます。ユミは右手でうねりを触ろうとしました。指先に触れたうねりは何も感覚がなく、ユミの指は絵の具を透過しました。そのまま肩までぐっと差し入れました。誰が掴んでいるわけでもないのに、ユミの身体はうねりの向こうに進んでしまいます。それにしたがって、吸い込まれた部分を中心に絵の具は全体的に回転し始めます。

『いけない、また堂々巡りになる』

 顔を上げると、いつもの部屋でした。

 膝を抱えて、つっぷしたまま、古いノートパソコンをアップデートする間に、眠ってしまったようです。

「どうしよう、汗でびちゃびちゃだ。風呂代も節約しようと決めたのに」

 ユミの部屋には風呂がありません。近くの銭湯は閉店してしまいました。

 スーパー銭湯は高いのです。

 風邪を引いたら、逆にお金がかかります。それに今大風邪を引いたら、病院に行くはめにあいます。お金だけでなく、体調が悪い人が集まる場所に行くのは大変なリスクです。

 仕方がないので、ぬれタオルで身体を拭こうと決めました。初夏で、お湯を沸かさずとも、水でいけそうでした。

 ノートパソコンを見ると「再起動をしてください」という指示のまま、止まっていました。

 壁の絵は四枚で終わっておらず、延々と続いていました。「Bosqueボスケ」での日々が貼られていないのが意外でした。しかし、それは時間の問題で、いずれイヤな思い出として、絵の一枚として貼られることは確実です。楽しい経験もこうしてイヤな思い出として記憶される。そんなうんざりする人生がこの後も続くと思うと憂鬱になりました。

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