第24話 見たくない絵 二枚目・三枚目 嫌な奴ら
壁に並ぶ、二枚目の絵は短大の大教室でした。絵を見ていると、イヤな思い出があふれ出てきます。
短大は担任制度を取っていました。「面倒見が良い」と学生に評判らしいのですが、実際に入るとユミには窮屈でした。人間と人間の距離が近いのです。そういう意味では、今現在のソーシャルディスタンスくらいの距離の方がユミにはあっています。
絵の真ん中にポスターカラーで塗られたような陰影のあまりないユミが立っています。背景は色鉛筆で描かれていて、階段状の席が幾重にも並んでいます。学生は一人もいません。ユミの前には教卓があり、男が立っています。男は担任で、確かどこかの大学を退官したおじいさんでした。ユミに相対している担任の横顔が描かれていますが、白い歯がむき出しになっています。
就職のことで相談に行ったときの絵でした。
相談に行くと、
「事情は分かったよ、若いうちはね、どんどん挑戦すべきだよ」
と言って、白い歯を剥いて、猿のようにこちらを威嚇してきました。そのまま固まっています。それが笑顔だと気づくまでに一瞬の間がありました。ユミは、「ははは・・・・・・」とお世辞笑いをしました。バリバリのホワイトニングをした真っ白な歯は、年齢と不釣り合いだったし、なにしろ目が笑っていませんでした。彼はオールバックにした少しウェーブした白髪とあいまって、学生から「ホワイト・デューク」と呼ばれていました。ユミには、「ドラキュラ伯爵」にしか見えませんでした。
なんだか、恐怖の笑顔で自分のことを拒否されている気がして、それ以上何かを聞くことを諦めてしまいました。
「それにしてもどこが面倒見が良いんだ」
と悲憤慷慨しながら、就職課に相談に向かいました。
三枚目の絵は、就職課のカウンターです。
背景はパステルで描かれています。大きな白い漆喰の厚い壁に受付の窓がくりぬかれています。ユミのちょうどみぞおちの高さから、けっこう高い位置まである空間がカウンターの上にあります。人物は油絵の具で描かれています。ユミの背中が、長いカウンターの真ん中にあって、男性の就職課の人と話しています。男はやはり白い歯を剥いてユミの方を見ています。
短大に入ってからなんだか自分の志望が叶いそうな気がしないので、ユミはネットでひととおり調べました。
短大卒の人間が学芸員になるには、学芸員に必要な単位取得に加えて、二年間の実務経験が必要です。どうして同じ事を学ぶのに、四大卒だとそのまま資格が取得できるのかは、理解できませんでした。「きっと社会の歪みがどうちゃらこうちゃらなのだろう」と怒りを飲み込みました。ユミはもう高邁な理屈はお腹いっぱい食べた気分でした。正義や怒りの声をあげても、何も変わらないまま、もう何年も、何十年も、下手をすれば何百年も経っているのだろうし、そんなものは食べられもしません。そんなものをずっと聞かされてきた気がします。現代文や現代社会、歴史でも、誰かが考えた正義を元に作られた文章を扱い、それで試験されます。正義で試験されるのです。短大でもそうです。女性問題を扱う人々もいます。ところが、正義で講義をする人も、正義で成績を付ける人も、世の中で今現在、正義が不履行でもまったく困らない人たちです。そして正義でテストをして学生を選別します。たとえ、講義をしている人間が過去、不正義の犠牲になっても、今は立つ位置があり、飢えないだけの収入があります。正義の言葉で糧を得ているのです。もっと意地悪を言えば、正義が不履行だからこそ、彼らは存在意義があります。正義が全うされれば、彼らの存在意義は無くなります。きっと今までと同じやり方では、彼らが利益を得るだけで何も変わらないのだろうとユミは思っています。
高校の担任を醒めた目で見るようになってから、どうにもそういう人間が正義を語ると意識が遠のく気がするのです。醒めてしまうのです。彼らはベルトコンベアに取り付けられた、選別のアーム・ロボットに過ぎないのです。なぜなら、教育は現状を変えるだけの力を持っているはずだからです。その情熱を失った人間はロボットに過ぎません。
カウンターのなかは就職課の事務室です。そこには三人の人間がいますが、三人とも男でした。
恐ろしくこぎれいにしている男性が目の前に座っています。おそらく五十代です。整髪料でピシリと固めた髪型は七三に分けられていて、一本の乱れ毛もありません。ユミは見ていて、学生の頃から変えていないんだろうな、という感じの横分けの髪型で、フレームを見たら高級ブランド名のロゴがありそうな眼鏡をしていました。痩せぎすでもなく太ってもいない体型でした。座っていたので正確には分かりませんが、身長も高くもなく低くもないように見えました。体臭はもちろん、整髪料や香水の匂いも一切しません。清潔で、攻撃性もないが、魅力も知性もない、最近のニュース番組のコメンテーターみたいな顔をしているとユミは思いました。ひと言で表せば「健康的」ですが、「健康的」以外に特徴はないのです。女性が多い短大に適任ではあります。清潔感が逆に鼻につくのです。おそらく、女性が多く、物腰が柔らかく、見た目もそれに相応しい男性を雇用したのだと思うのですが、それが逆に鼻につきます。
なんだか相談したくありませんが仕方ありません。見せるように言われたので成績表を差し出すと、担当の男は真面目な顔で見ていました。
「君の成績ならば・・・・・・」
神妙な面持ちで言いました。
椅子を回転させて、後ろのおそらく自分の事務机に立ててある物をつかんで、再びユミに向き直りました。
「ここの会社なんてどうだろう」
今どきめずらしい紙のバインダーに挟まった、求職票のコピーをユミに向けて差し出しました。ユミはそれを覗き込みます。
そこには大手化粧品メーカーの名が書かれていました。美容部員の仕事でした。
「あの、私、美術館で働きたいんです。学芸員の資格が取りたくて。それには実務経験をつまなくちゃいけないので、そういうところがあったら紹介して欲しいと思って」
ユミは少々イライラしながら言いました。声に険があったかもしれません。
「いやあ、あなたはなかなか優秀だから、この企業が良いと思ったんだけどなぁ」
と言って、真っ白な歯をむき出した笑顔のまま、男性の胸の前でファイルをパンと閉じた。
「うちの短大だと人気があるんだよぉ」
再び後ろを向いて、バインダーを戻した。
「美術館なんて求人ほとんど無いんだよ。もし狙うなら、自力で募集を探すしかなくなっちゃうなあ」
恐ろしくマイルドな声で、喧嘩を売らないようにそう言いました。ユミには馬鹿にされたとしか思えませんでした。それは「本当にウチの短大の人なの」、と疑わしくなってしまうほどフランクな口調で担当の男は言いました。
「一応、おうちでご両親と話しておいて。でも早い者勝ちだからね」
でも、無理しないで、やりたい夢があるなら追いかけた方がいいよ、と言って、鉄壁の営業スマイルで固まりました。まるで、「もう話すことは無いよ」と言っているようでした。笑顔にもいろいろあるものだ、と感心しました。
「自分の将来くらい、自分で考えます」
と言って、木製のカウンターに置かれた成績表をひったくるように持って、就職課のスペースから出ました。言い放った直後に後悔しました。ふとふり返ると、先の男性が営業スマイルから鉄面皮に戻り、立ち上がるところが見えました。
きっとああいう感じで機械的に学生の相談を処理しているのだな、と感じました。明らかに目の前の学生に興味を持っていない。ユミは失望しました。
そのとき以来、就職課に近づかないようになりました。最低限の用事を済ますために行きます。行こうとすると、気が重くなってしまって、足が竦むのです。怖いのです。別に怒鳴られたわけでもないのです。しかし、この短大全体がそうですが、拒絶されている気がするのです。どこにも味方がいない感覚です。
時間が経った今になって思ったのは、きっとユミは追い込まれたのでしょう。
就職課の求人をあまり確認せず、次々と美術館や博物館とコンタクトを取りました。短期でアルバイトやボランティアなどはありました。人脈を作れるのではないかと思い、どんどん参加しました。卒業後はそれに加えて、バイトを始めました。
もう学芸員になるということに、なかばすがっていたところはあります。
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