第23話 見たくない絵 1枚目

 一枚目の絵には、卒業した高校の教室が描かれています。

 もちろん、卒業した高校のことなんて忘れようと思っていました。その絵に描かれているのは忘れようとしたきっかけの場面です。何度も何度も忘れようとしたために、逆にすり込まれてしまい、教室の細部に至るまで、すぐに思い出せます。ところが、それが正しいという確信はありません。教室の真ん中辺りで、四人分の机を向かい合わせにしてあります。教室の後ろ側に自分と父親、前側に担任が座っているという配置です。子どもが書いたような担任の横顔が大写しになっていて、私に向かって指を指して笑っています。子どもが書いたような絵の私は目と口を大きく開けて驚いています。目は非常に白目が多く、口は単に赤で塗りつぶしてあります。父親は足を組んで、そっぽを向いています。

 ユミ自身、生き方を決定する場面で失敗を続けています。美術館の学芸員になりたい、と考えたのはいつのことでしょうか。はっきりは覚えていません。小さな頃から、美術館に行くのが好きだったのは事実です。父親はあまり美術に興味のある人間とは言えません。しかし、時間を割いて地方から上京し、ユミを上野の美術館に連れて行ってくれました。

 きっと、あの上野の広大な土地が好きだったのだと思います。もちろん、広大さなら、ユミの出身地も負けていません。ただ、だだっ広いのと、計画的に開けた土地とはやはり違うのです。

 絵を見て思い出します。

 「将来、どんな大人になりたいの」

 見上げるように大きな父親に問われ、

 「美術館で働きたい」

 真っ赤なダッフルコートに身を包んだまだ小学校に上がっていないユミは、そう答えました。

 「そうか」

 父親はにっこり笑いました。

 『私は父親にかわいがられている』

 ユミにはそんな自信がこのころにはありました。

 どうにも、小学校、中学校と、ぼんやり過ごしていたように思います。なぜか、美術館が好きでも、創作には興味が向きませんでした。本を読むのも好きです。画集をはじめ、絵を見るのも好きです。しかし、それがどうして創作に向かっていかなかったのかはわかりません。文芸や美術の批評家が必ずしも、創作を志していたわけではないでしょうから、それは矛盾しているとはユミは思っていませんでした。それは今でも一緒です。

 中学になって、職場体験に参加しました。美術館が体験先にあり、もちろんユミは美術館を志望しました。地元の画家の記念館にお邪魔しました。そこは丘の上にあります。コミュニティバスも運行されていましたが、中学の近くなので歩いていきました。白い洋風の建物で、建物の前に風見鶏が立っていました。風見鶏は鶏ではなくて馬でした。

 建物に入ると、右手に喫茶店とグッズ販売所、二階が展示室でした。スタッフの方に仕事の概要を指導されました。雑務、展示の仕方、喫茶店のお手伝い、そして、展示物の監視を受け持ちました。平日の午前中ということもあり、来館者はほとんどなく、画家の展示物を独り占めで見られる状態でした。草原にたたずむ白い馬が青緑色を基調として書かれた幻想的な絵がいくつも並んでいます。外国生活を元に書いた街の絵も書かれています。すぐ右横の壁に、大写しになった人物の顔がありました。

 その絵に見入っているのに、学芸員の方が気づきました。

 「その絵気に入ったの」

 「はい。いつ書いた絵なんですか」

 「確か自画像で、高校のときだね」

 細身で長身の紺色のネクタイをしたその男性はやさしく答えてくれました。

 「ああ、やっぱり天才なんですね」

 というと、学芸員の方は驚いて、

 「どうしてそう思うんだい」

 と聞きました。

 「だって、こんなに自分の絵を上手く、情熱的に書く人、いないですから。背景の配色がなんだか写真を見ているようで。空間の奥行きがわかるんです。透明度が高いというか。それに中学校の帽子の上の部分の折れたところとか、細部もきちんと書いてある。明暗の表現とか、素晴らしいと思います。それに、この自画像を描いた人が、将来あの馬の絵を描いたわけでしょ。そう考えると納得させられるんですよ。確かにこれだけの絵を若い頃に描けるなら、あの絵を描けるだろうなって。」

 「ほほう」と学芸員の方は感心しました。

 「自分の言葉できちんと説明できるのはいいね。本当に興味を持っているんだね」

 と褒めて下さいました。

 この体験がますますユミを学芸員に方向へ進ませたと言ってもいいです。

 高校になって進路を決定せねばなりません。もちろん、学芸員の志望です。

 でも、三者面談で父親がメンツにこだわって変なゴネ方をしてから、担任の態度が明らかに変わりました。腫れ物に触るようになったのです。

 その後二者面談が改めて行われました。父親が提示した短大に進みたいと再度言うと、賛成も反対もされませんでした。「一応、学芸員の資格取得につながる」と言ってもらいました。最後は自分で決めるように、と当たり前のことを言っていました。他の生徒は自分で決めないのだろうかということと、「一応」、「つながる」という言葉に非常に引っかかりました。最後には自分で決めろ、と言われても、第一志望は経済的事情で取り上げられた以上、選択肢がないというのがユミの気分でした。

 なんだか、自分のなかの熱が一、二度下がった気がしました。大人が自分を裏切るのをはじめて経験しました。父親のあんな暴力性を見たのもはじめてでした。

 所詮、私がいなくても先生たちは一年我慢すれば新しい生徒が供給される、自分に真剣に関わる必要はないのか、と冷めてしまったのです。もうなんだか、高校を退学した気分です。

 帰ってから、父親に二者面談の様子を聞かれました。

 生返事を繰り返したらば、父親は怒り出しました。仕方なしに、「大丈夫だよ。短大で良いって」と言うと、父親は苦々しい顔をしていました。

 イヤな予感がしたのですが、父親、母親が言い出したことでこうなったのだから、二人が短大のことは調べてくれているはずだと思っていました。信じすぎたのです。実際には、何も調べていない状態でした。ホームページすら、ろくに確認していない状態でした。いまどき、パンフレットは飾りで、情報はホームページで調べるのが当たり前なのに、そんなことも知らなかったのです。担任は匙を投げてしまったので、そういう情報も得られません。そんな体たらくなので、ネットで事前に調べ尽くすなどということもなかったのです。

 気が小さいユミは言い出せませんでした。「経済」を持ち出されたのは生まれて初めてでした。無力な自分がどう対処して良いのか分からなかったのです。

 いや、関係者の誰もが、この件について、それ以上の関わりを持ちたくなかったのかもしれません。

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