第22話 人生のグラフィティ

 翌日から、ユミは職探しをせねばなりませんでした。

 スマホばかりで使っていなかったノートパソコンに久しぶりに電源を入れました。

 少しだけ古いパソコンが立ち上がると、途端にウィンドウズのアップデートが始まってしまいました。セキュリティソフトの期限も切れていて、「継続するなら、プロダクトキーを購入するように」というポップアップが右下に表示されました。今のタイミングで購入するのはリスクがありすぎます。

 なぜか孤独なランボーのような心境になっています。

 とりあえず、同僚たちの訴訟に、過剰に期待するのは止めました。

 ユミはひと月分の給料分のお金をもらうと決めていました。

 しかし、向こうだってプロの経営者です。様々な手を打っているのは当たり前で、不当解雇スレスレの状況、言い訳できるだけの材料は持っているはずです。我々が騒ぎ立てることも重々承知のはずです。鎮守の森の神社で店長が話したときに、最後逃げるように立ち去ったのがその証拠です。「同情して余計なことはするな」と釘を刺されていたのです。

 きっと、はした金を渡されて終わりです。

 そう思うようにしました。それもいつになるか分かりません。

 持っているお金は、保って二月分。

 月末に家賃分の仕送りはくるはずだから、寝る場所だけは確保されます。

 服も買わないし、なんなら外にほぼ出ないから、お金は減りません。

 電気代節約のために、親以外の電話には出ません。みんなスマホにかけてくるからです。いや、もともと誰からもかかってきません。情けない生活を送っているために遭っていない旧友からは、たまにLINEが来るくらいです。それも、こちらの境遇に気を遣ってくれるうちに疎遠になりました。誰も訳ありな人間と親しくする気はないのです。

 アップデートに占領されて、動きが悪いノートパソコンのディスプレイを見つめながら、ぼうっと嫌な過去を思い出していました。ノートパソコンはビギナー用の安物だったので、アップデートが始まっただけで、もうなにもできないほど動きが悪くなってしまうのです。キッチンの方から妙な熱気を感じて見てみると、インスタントコーヒーを飲もうと、薬罐やかんで湯を沸かしていたことをすっかり忘れていました。プラスチックの時計を見ると、三十分くらい過ぎていました。

 「ヤバ」と小さく叫んで、コンロを止めに行きました。ガスコンロの火を止め、銀色のアルミのやかんの蓋を開けて覗き込むと、お湯はほとんど蒸発していました。節約のために、沸かす水の量をケチったのがいけなかったのです。いや、欲望に負けてコーヒーを飲もうと思ったこと自体が間違いでした。コーヒーは諦めました。

 小さなテーブルとベッドの間に挟まって、再びディスプレイを待っていると嫌な過去が再び頭をめぐってきました。

 「どうしてこんな目に遭うのだろう」

 誰に聞かすでもない言葉が口をついてあふれてきました。

 膝を抱えて座って、膝の上に額を付けました。涙があふれてきました。

 きっと日当たりの悪いアパートなのに、節約のために電気を付けない薄暗いなかで生活していることも、この世界的な状況も、失業も、そしてそもそも自分のふがいない来し方も、すべてが気分を滅入らせる原因であるというのは分かっています。嫌な想像でも、良い想像でも、想像というのは情報の欠如から発生します。目に入る情報が少なくなると、脳は思考を始めるとユミは思っています。だから、人は何かを思い出すときに目を瞑るのだと。今は目を開けているのに、嫌な想像を打ち消すことがどうしてもできません。

 ならば、とことん付き合ってやる、ユミはやってはいけない決断をしました。

 目を瞑り、両手で顔をおおい、何も見ないように、誰にも見られないように、駆け抜けてきたのが自分の生き方でした。そんな自分の姿が現れます。暗闇を懸命に走っています。ふいに目の前に現れた熱いコンクリートの壁にぶち当たって、「見ないように」という消極的な態度では歩けないようになってしまいました。手探りで壁の高さを確かめても、まるで壁の上に手は届かないのです。数歩下がって、恐る恐る目を開けました。壁はとても高く、左右を見ても、果てが分からないくらい長大に続いています。空は、紫を基調としたマーブル色をしています。禍々しい色です。しかも壁にはどこかのろくでなしが描いたグラフィティで、ユミの人生を嘲笑する絵が描かれています。それは見ずにはいられません。恐ろしく美しく、蠱惑こわく的な絵だったのです。ユミはいやなのに、これまで見ようとしてこなかったのに、グラフィティを一枚一枚覗いて行きます。

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