まずい

永瀬文人

第1話

 もう待てない、これ以上は。旺太は腹筋に力を込め、腹の虫の鳴き声を押しとどめる。こちらの窮状と現状を、決して妻に悟られたくないのだ。

 ドア一枚を隔てた向こう側で、スリッパを引きずる重々しい足音がする。妻がダイニングからキッチンへと移動し、流しの上の吊戸棚を開けては中のカゴを引き出し、物色している。そんな音がする。

 だが、誠に残念ながら、妻は肩を落としていることだろう。カゴに入っていたはずの蕎麦の最後の一束は、今、旺太の目の前にある丼の中で、温蕎麦となっているのだから。

 妻の手は、横の吊戸棚の扉に伸びたようだ。開けては閉め、また隣の扉を開けては閉め。

 丼から立ち上る湯気に、勢いがなくなってきている。しかし、蕎麦をすすれば、その音はたちまち妻の耳へ届くに違いない。

 スリッパの足音が、キッチンからダイニングへと再び移った。

 丼の中で、麺がふくれあがり、汁が減ってきている。もう湯気も立たない。

 食べたい。食べられない。食べずにいられない。でも、もう、食べたくない。

 部屋のドアの前で、重量感のあるスリッパの足音が止まった。旺太の喉の奥がおかしな音を立て、腹の虫が慎重に、かつ盛大に鳴った。

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まずい 永瀬文人 @amiffy

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