第14話「星降る朝」
凛が意識を取り戻すと、そこは針が一本落ちてもその音が鳴り響くような静寂に包まれていた。空にはいまだ暗雲が垂れ込めていたが、土埃はおさまっており、周囲がはっきり見渡せた。
リブドが上手く空間を作ってくれたため、凛とディルは、新王軍と激突した時の衝撃を受けずに済んだのであった。
「リブド…」
凛は、自分に覆いかぶさっていたリブドの体に触れた。そのとたん、リブドはゴロンと地面に転がった。その背中には、無数の矢が刺さっていた。それを見た瞬間、凛の目に涙がたまった。
「ごめんね、本当にごめんね…」
凛は、すっかり硬くなったリブドの手を握り締め、しばらくそこに顔をうずめた。そして、顔を上げ、周囲を見渡した。
エルマドワ軍も、新王軍も、地面に倒れたまま誰一人として動いていなかった。まるで、時が止まったかのようであった。
「ディル…」
視線を下に落とすと、隣にはディルが横たわっていた。だが、その顔は蒼白で、体は微動だにしなかった。
凛はその姿を見るなり、震える手でディルの頬に触れた。その瞬間、凛の心臓は激しく波打った。全身から血の気が引き、体が震えた。凛は反射的にディルの頬から手を離し、恐る恐る、もう一度ディルの頬に触れた。しかし、何度触っても同じだった。ディルの体は冷たかった。凛は、体をゆすった。だが、その目は閉じたままであった。
「ディル…お願い、目を開けて」
凛は再び体を揺さぶったが、ディルはぐったりとしたまま動かなかった。
とたんに凛の瞳から、ぼろぼろ涙が零れ落ちた。それが、ディルの顔に落ちた。凛は、落ちた涙を指で拭き取るようにして、ディルの顔を包み込んだ。そして、ディルを抱き起こし、力いっぱい抱き締めた。これまでは抱き締めると感じていた心臓の鼓動が今は感じられず、ただ冷たくて硬いだけだった。
凛はディルを抱き締めながら、呼吸ができなくなるほどしゃくりあげて、大声で泣き叫んだ。いつまでも、止まることなく凛は泣き続けた。静寂の世界の中で、凛の泣き声だけがただ虚しく響き渡っていた。
しばらくして、凛が再び目を閉じたディルの顔を見つめたそのときであった。ディルの顔に、自分の涙とは違う、米粒ほどの大きさのキラキラと光るものがゆっくりと落ちてきた。凛がそれを手に取ると、それは星のように輝く石であった。みるみるその数は増えていき、まるで粉雪のように二人の周りに降り始めた。
凛は思わず顔を上げ、周囲を見渡した。それは、世界を覆う全ての空から降り注いでいた。粉雪よりも鮮やかに輝き、空から降る星のようであった。両軍の中からも、起き上がってこの空から降る星を見上げる人が現れ始めた。それに伴い、周囲は次第にざわつき始めた。
ふと、凛は自分の胸が温かくなっていくのを感じた。驚いて自分の胸元に視線をやると、凛に抱かれていたディルに体温が戻り、わずかに動いたのであった。
「ディル?」
凛はじっとディルの顔を見つめた。すると、その目がゆっくりと開いた。
「ディル!」
凛は叫び、思い切りディルを抱き締めた。
「リン、苦しい…」
ディルが呻くと、凛は慌ててディルの体を離し、その顔を見つめた。そこには、紛れもなくディルがいた。青く澄んだ瞳で、凛をまっすぐ見つめていた。その瞳を見るなり、凛は全身を震わせしゃくりあげた。
「私を守るためにディルが死んでしまって、どう償ったらいいかずっと考えてたの…本当にごめんな…」
凛が最後まで言い終わらないうちに、ディルは凛に口づけをし、強く抱き締めた。
「リン、聞いてくれ。リンは俺の命を救ってくれたんだ。俺に生きる意味を教えてくれた。だから、リンのためなら何度死んでもいい。これが俺の気持ちだ」
凛は強く首を振った。
「いや!もう二度と死なないで!」
ディルは笑って凛の額に自分の額をくっつけた。
「じゃあ、リンが死ぬまで俺は死ねないな」
ディルは凛の首筋に顔をうずめ、二人はそのまま強く抱き締めあった。
少ししてから、ディルは顔を上げ、初めて周囲を見渡した。ディルの視線は、空から舞い降りる、輝く石に釘付けになった。
「リュウリン…」
ディルの口から漏れた言葉を聞いて、凛もディルと一緒に、空から降り注ぐリュウリンを見上げた。
リュウリンは、暗闇に呑み込まれていた世界を徐々に照らしていった。世界を包むものは、暗雲と静寂から、光へと変わっていった。その光は、言葉を発することさえ忘れ、じっと空を見入っている人々の瞳に、少しずつ輝きを与え始めた。
ふいに、空一面を覆っていた暗雲が切れ間を見せた。切れ間は次第に広がっていき、そこから黄金色の光が差し込んだ。空からの光は、地上を優しく抱き締めるように包み始めた。
ついに暗雲は消え去り、東の空から強い光が顔をのぞかせた。それは、朝日であった。星のようなリュウリンに朝日が反射し、虹色の光を放った。この世界は、虹色の空気に包まれた。
虹色の空気は、ただ息を呑んで空を見上げるこの世界の人々の心を奪った。戦争にかり出され、エルマドワ軍の中で地面に座り込んでいるスターターと弱者の村の人々も、言葉を失い空を見上げていた。
救護テントで待機していたトールは、独り言のように呟いたのだった。
「やはりわしの勘は正しかった。どんな現実でも、立ち向かえば変えられるんじゃ、必ず」
砂漠を越えた遥か彼方の地にも、リュウリンは降り注いでいた。リブドの手当てをいったん止め、砂漠の国の王は空を見上げ、その美しい金髪を風になびかせた。
どこからともなく、風が砂漠の砂を運んできた。それが王の頬に触れ、掌に落ちた。ただの砂となったそれを、王はじっと見つめた。
「ディルの声が聞こえたね。あの二人は、本当に呪いを解いたんだね」
隣にいたジュンタも一緒に空を見上げた。
「あれがリンの恋人か…僕が振られるわけだ。やってくれたじゃないか、リン」
シャイカルは、笑みを浮かべた。
そこは遥か雲の上であったが、リュウリンはそこにも舞い落ちていた。棒のような体をしたリブドたちが、地上よりも遥かに近い空を、風に吹かれながら見上げていた。
「まさかリュウリンまで降らせてしまうとは」
ぼさぼさ頭のリブドは、縁に立って虹色に包まれた地上を見下ろした。
「私たちは傲慢でした。人間の力を計ることなどできない。その力は無限でした。伝説を現実へと変えてしまうほどに…」
リブドは羽織っていたマントを外し、それを空に向かって思い切り投げた。マントは遥か遠くに飛ばされた。リブドは再び地上を見つめた。
「言葉を話せなくなってしまう前に言っておきたい。リンさん、ディアロス王子、本当にありがとう」
城の中で戦いの指示を下していたエルマドワ国王は、世界を包む虹色の空気に目を奪われていた。そしてゆっくりと、両軍の間でリブドに囲まれ、少女と共に空を見上げているディルに視線を移した。国王は、静かに城の出口へと向かっていった。
「リュウリンが、俺に命を与えてくれた。そして、命を与えられたのは俺だけじゃない」
しばらくして、ディルが口を開いた。そして、倒れているリブドに視線を向けた。
全身に無数の矢が刺さったままのリブドが、次々と起き上がったのである。そして、体に刺さった矢を、まるで何事もなかったかのように抜き始めた。抜き終えると、砂漠に向かって歩き始めた。凛は、その背中をじっと見つめた。
「リブドもきっと、私たちと同じことを望んでいた。ただそれだけだったんだ…」
突然、凛の首にかかっている石が強烈な光を放った。そして、それは真っ二つに割れた。すると、どこからともなく美しい女性の声が聞こえてきた。
「心の力は、私の言った力に勝ったようですね」
「モデア!」
その声を聞き、凛は思わず声を上げた。
「私は、以前あなたたちとお会いしたモデアではありません。ずっとこの石に封印されていた、この世から争いをなくし、武力を葬り去ることだけを望んでいたモデアの心です。
呪いをかけたものの、モデアは心のどこかで、武力ではなく、人間の慈悲の心にこそ、争いを止める力があることに気付いていたのでしょう。モデア自身が、呪いをかけた後も弱者であり続けたことがその最大の証です」
凛とディルは、顔を見合わせた。
「そしてこの世界も、争いのない世界を望んでいるのだと、あなたたちは教えてくれました。あなたたちの姿を見て、リブドや弱者をはじめ、世界があなたたちを守ろうとしました。リュウリンは、その世界の意志に応えたのです」
ほのかに輝いていた石の光が、大きく揺らめいた。
「あなたたちが世界を動かしたことが、モデアの心を動かしました。モデアは、ようやく私を受け入れてくれました。本当にありがとう…」
石から光が消え失せ、ただの水色の石となってしまった。ディルは、二つに割れたその石を手にした。
「モデアは死んだ。そして、全てが終わった」
ディルはすぐに首を振った。
「いや、ここから全てが始まるんだ」
二人は、じっと見つめあった。凛が何かを言いかけたとき、周囲が騒然とし始めた。二人が辺りを見回すと、ドマルフ・エルマドワが、大勢の家臣を引き連れ、二人の元へやってきたのである。
彼は、ディルの前に立つとその歩みを止めた。国王の目は、ディルと同じ様に青く澄んだ光を放っていた。
ディルは立ち上がり、国王と向かい合った。国王は口を開いた。
「今さら私を許してくれなどと言わない。言えるはずもない。ただ、最期に一つ言いたいことは、もしこの国の民がまだ我が国の存続を許してくれるのであれば、国王はお前しかいない。どうか、お前の望む、理想の国を築いて欲しい」
国王は腰に携えた刀を引き抜き、刃先を自らの腹に向けた。ディルは、とっさに国王の手首をつかんだ。
「貴様を死ぬまで許すつもりはない。だが、自ら命を絶って逃げることも許さない。それは卑怯だ。死ぬほど生きて、生きて苦しみ抜け。苦しみながら少しはこの国に貢献しろ。そうやって死ぬまで償い続けろ」
国王は唖然としてディルを見つめた。その表情はみるみる崩れ、ついに両手で顔を覆い、ディルの名前を呼びながら嗚咽を漏らし、肩を震わせ、その場に膝をついて崩れ落ちた。
この光景を見ていたエルマドワ国の強者だった者も、弱者だった者も、もう何も言えなかった。元々強者だったとか、弱者だったとか、そのような感情はこれからも消えないかもしれない。だが、この新しい国王がそうしたように、そんなことで争うことなどせず、全てを許し、生き抜くのだ。この国王が築く新しい国に貢献するのだ。この国王に、どこまでもついていくのだ。エルマドワ国の人々は深く心に誓ったのだった。
凛はディルの隣で、じっとこの光景を見つめていた。間違いなく、エルマドワ国は素晴らしい国になる…。
「リン!」
突然後ろから男の声がしたので、凛は驚いて振り返った。するとそこには、笑顔を浮かべたスターターとジュンタが立っていた。
「スターター!ジュンタ!」
三人は抱き合った。凜は嬉し涙を拭った。
「二人とも、ここまで来てくれたのね」
「シャイカルさんが、リンに会いに行っておいでって。自分は国を離れられないから、代わりにまだ愛してるよって伝えてくれって」
「そんなことをジュンタに…」
凜は頭を抱えた。
「ジュンタがリブドに乗ってこっちに向かっているのを偶然見つけたんだ。俺のバークの方が早いから、一緒に連れて来た。」
凜はスターターの声に目を丸くした。
「スターター、その姿で、男に戻ったの?」
確かにスターターの声は男の声になっていたが、スターターは何も変わっていなかった。相変わらず華奢で、目がくりっとして女の子のように可愛らしい顔をしていた。スターターを凝視する凛に不審な表情を浮かべながらも、スターターはぎゅっと凛の手を握った。
「お前はすごい奴だ。本当に呪いを解いちまったもんなぁ!」
スターターはもう一度凛を抱き締めた。男に戻っても何も変わらないスターターが懐かしく、嬉しくて、凛は顔をほころばせた。
しかし、スターターはすぐに凛を離し、急に真顔になった。
「それが、ババアの方も呪いが解けちまって大変なことになってるんだ。ババアが、死ぬ前にどうしてもお前に伝えなきゃいけないことがあるって言うから、呼びに来た。今すぐババアのところに来れるか」
凛は息を呑んだ。トールは今、二百歳なんだ…一瞬にして顔から笑顔が消え失せた。
「うん、今すぐ行こう」
凛はあえてディルの方を振り返らずに、近くで凜を待っていたペペに飛び乗った。
「ディルはいいの?」
スターターと一緒にバークにまたがりながら、ジュンタはディルの方を振り返った。凜は悲しそうに微笑んだ。
「いいの。さ、早く行こう」
そこは、救護テントの横であった。ぐったり横たわるトールを、懐かしい顔が囲んでいた。
「ババア、リンを連れてきた」
スターターの声で、トールを囲む人々は一斉にこちらを振り向いた。そして、口々に凛の名前を呼び笑顔を見せた。
「リンちゃん」
その中から、一人の男が一歩前に出て凛に近寄った。日焼けした肌が印象的なその男は、村の長であった。凛は長に駆け寄った。凛の頭を優しく撫でながら、長は微笑んだ。
「リンちゃん、本当によく戦ってくれたね。ありがとう」
長は凛の肩を抱いて、トールの傍に連れていった。トールの変わり果てた姿に、凛は思わず手で顔を覆いたくなった。
体はやせ細り一回り縮んでいた。ひゅーっという音を立て、苦しげに息を吸っているその顔は皺だらけで、凛の知っているトールの面影はなかった。手は黒ずんでおり、髪の毛は全て抜け落ち、目は黄色く濁っていた。苦しそうに呼吸をする中で、時折「リン、リン」と声を発していた。
凛はしゃがみ込み、その手をぎゅっと握り、トールの耳元でゆっくり話しかけた。
「おばあちゃん、私はここにいるよ」
トールはその目を凛に向け、喉の奥から声を絞り出した。
「にしの、そ…うげ…んへ、もど…れ。いそ…げ…」
凛は深く頷いた。
「分かった。私、ちゃんと自分の世界に帰るから」
凛の声は震えていた。弱者の村で過ごした時間が胸に去来した。
「おばあちゃんが私を信じてくれたから、私は今日まで生きてこれた。本当にありがとう…」
凛の瞳からぽとぽとと涙が零れ落ち、トールの顔に当たった。トールは微かに笑った。そして、微笑みながら静かに目を閉じた。
嗚咽があちこちから聞こえてきた。ことにスターターは、なりふり構わず大声を上げて泣いていた。
凛は涙を拭うと、勢いよく立ち上がった。
「私は、自分の世界に帰ります。今度こそ本当にお別れです。私を救ってくれて、優しくしてくれて、本当にありがとう」
凛は村の人たちに向かって、深々と頭を下げた。
「いや、礼を言わなきゃならないのはこっちの方だ。リンちゃんがこの世界を救ってくれたこと、俺たちは絶対に忘れない。本当にありがとう。元気でな」
長は凛の手をとり、強く握った。その顔は笑っていたが、目には光るものがあった。それを見て、凛の涙が再び顔をのぞかせた。
「リン、俺が最初にお前を見つけた場所でいいんだな。連れてってやる」
スターターは手の甲で涙を拭い、その手で指笛を鳴らした。すると、バークがこちらに向かって走ってきた。「僕も行く!」ジュンタも一緒にバークに飛び乗った。凜は、再びペペにまたがった。
村の人たちは凛に大きく手を振った。凛は、ペペにしがみつきながら後ろを振り返った。
「みんな、ありがとう!」
その姿が見えなくなるまで、凛はずっと手を振り叫び続けた。
「おい、そろそろスピード上げるぞ」
スターターに言われ、凛はようやく手を振るのをやめ、前を向いてペペを走らせた。
周囲の景色はどんどん流れていった。途中でいくつかの森を通り抜け、廃墟も通った。
清々しく突き抜けた青空には、綿雲が泳いでいた。遠くの方には、いくつもの層を成した巨大な雲が浮かんでいた。そんな空を眺めていると、ふと凛の耳に心地よい草の囁き声が聞こえてきた。ひどく懐かしいこの音に、思わず鳥肌が立った。
目の前には、見たことのある光景が広がっていた。辺りは一面草原で、遥か遠くに死の森の頭が見えた。そう、ここは紛れもなく、凛がこの世界で最初に見た景色であった。唯一あのときと違っていたのは、目の前にも森があることだった。その森の中には、一本の道が通っていた。道の入口には、見覚えのある「封印の石」が立っていた。ただ、そこに彫られていたはずのバツのような印はなくなっていた。
スターターはバークを止めた。凜もそれに続き、三人は草原に降り立った。
「ここでいいのか」
凛は頷いた。
「きっと、あの森の道が私の世界に通じてる」
凛は森を指差したが、スターターは悲しげな笑みを浮かべて首をすくめた。
「俺にはその森は見えないや」
スターターの言葉に、凛は泣きそうな顔をした。スターターはそんな凛に、とびきりの笑顔で笑いかけた。
「さ、もう行け。俺たちは新しい国で、きっと元気にやってるからさ。リンも元気にやれよ」
すると突然、ペペが勝手に走り出し、森の中の道の奥に消えていった。「ペペが消えた!」ジュンタが叫んだ。ペペにはあの道が見えて、あの中に消えていった。ということは、やっぱりペペはペペだったんだ…私に後に続けと言っている。
「ジュンタ、大丈夫。ペペはあっちの世界でも私の家族なの」
凜はジュンタの頭を撫でた。ジュンタは泣きそうな顔で凜を見上げた。
「リン、本当にもう会えないの?」
「もう会うのは難しいかもしれない。だけど、私はずっと二人のことが大好きだし、忘れない」
「僕も、リンのこと大好き。絶対忘れないから」
「俺もリンが大好きだ」
スターターは顔を真っ赤にしていた。それを見て凜は笑った。
「どうか、元気でね。本当にありがとう」
そして、凜は名残惜しそうに二人に背を向け、足早に歩き出した。
「リン、元気でな!」
凛の背中に向かって、スターターとジュンタはいつまでも手を振り続けた。二人の目からは、涙が零れていた。
凛は、前を見て歩き続けた。この世界に残してきた思いを断ち切るかのように、一歩一歩、地面を踏みしめた。
獣が地面を蹴る音が聞こえてきたのは、もう少しで森に入ろうとしたときであった。凛の心臓は、ビクンと跳び上がった。目には涙が溜まり、目の前の景色が滲んだ。凛は、懸命に首を振った。
「リン!」
自分の名前を呼ぶその声は、涙が込み上げてくるほどの愛おしさで凛をいっぱいにしたが、同時に、胸にどうしようもない苦しみがまとわりついた。凛はとうとう立ち止まった。その直後、声の主が後ろから駆け寄ってきた。
「リン、振り向くな」
凛がまさに振り返ろうとしたとき、ディルが鋭く言い放った。そして、後ろからそっと凛の手を握った。凛の手には、石のようなものが握らされた。
「どうしてもこれをリンに渡したかった。半分は俺が持っている。もう半分は、リンに持っていてほしい」
凛は後ろを振り返ろうとした。しかし、ディルが腕を押さえつけ、凛の動きを止めた。
「リン、もういい。顔を見てしまったら、別れが辛くなるだけだ。リンは、リンの世界で生きるんだ」
ディルはそっと凛の背中を押した。凛は、ディルから渡された石を握り締め、震える体で前に進み始めた。
森の中に入ろうとしたときだった。凛は突然立ち止まった。石をさらに強く握り締め、森の奥に続いている道の先を見つめてから、うつむいてじっと地面を見つめた。それから、ぎゅっと目を閉じ、思い切り顔を上げると同時に後ろを振り返り、走り始めた。
「リン、駄目だ、帰るんだ!」
凛がディルに抱きつこうとしたのを、ディルは凛の両肩をつかんで止めた。凛は、体を押さえるディルの手首を握り締め、何度も首を振った。
「いや…ディル、私決めたの。私、死ぬまでディルの傍にいる。あと少ししか生きられなくてもいい。それでもディルと一緒にいる。お願い、ディルの傍で死なせて」
ディルは涙の溢れる凛の瞳をじっと見つめ、静かに首を振った。そして、凛の肩をつかみながらうつむいた。
「俺は、自分の命に代えてもリンに生きていて欲しいんだ。だから帰るんだ。元の世界に帰って、少しでも永く生きるんだ」
凛は首を振った。
「いいの、私が最期までディルといることを選んだの。ねぇディル、お願い。もうこれ以上人を好きになれないくらい、ディルを愛してるの…」
ディルはうつむいたまま再び首を振った。しばらく沈黙が続いたが、ようやくディルが静かに口を開いた。
「これから先、リンが傍からいなくなると考えることさえ怖い。気が狂いそうになる。できるなら、どっちかが死ぬまでずっと、ずっとリンを抱き締めていたい」
凛の嗚咽が少しだけおさまった。気が付くと、凛の肩をつかむディルの手は震えていた。
「だけど、リンが俺の傍にいることを選んだことによって、リンの命が削られるのはもっと怖い。リンがここで死ぬことによって、リンの世界にいる、リンのことを大切に思う人たちを悲しませるのは耐えられない。そんなことになるんだったら、俺もリンの後を追って死ぬ」
凛は激しく首を振った。
「だめ、ディルは絶対に死んじゃだめ」
「そういうことなんだ、リン。俺が一番望むのは、リンが俺のために死ぬことなんかじゃない。生き続けることなんだ。俺の傍でなくていい、どこかでリンが元気に生きていれば、俺はそれ以外に何も望まない。だから、もし本当に俺を愛してくれているなら、生き続けて欲しい。頼む…」
ディルはしばらくうつむいていたが、ようやく顔を上げ、まっすぐ凛を見つめた。
「愛してるんだ…」
かすれた声だった。そのディルの顔を見た瞬間、凛の息が止まった。
ディルは泣いていた。その瞳から、幾筋もの涙が頬を伝って流れていた。凛はしばらく動くことができなかった。私はなんて幼くて弱いのだろう…凛は口をぎゅっと結び、ディルに近付いた。
「ディル、ごめんなさい…」
二人はそれぞれの首筋に顔をうずめ、強く抱き締めあった。
「リン…俺たちは、ずっと一緒だ」
しばらく抱き締めあってから、ディルは顔を上げ凛の顔をじっと見つめた。
「次生まれ変わったら、必ず同じ世界に生まれて、今度は死ぬまで、ずっと一緒にいよう」
「生まれ変わったら…」
ディルは笑って頷き、自分と凛のおでこをくっつけた。
「そうだ。同じ屋根の下に住んで、同じ布団で寝て、ずっと一緒にいよう。その次に生まれ変わっても、ずっとだ」
再びディルは凛の目を見つめた。
「それまで、少し会えなくなるだけだ。その間、それぞれの世界で強く生きるんだ。どんなに絶望的なことがあっても、前に進み続ければ必ず光は見える」
凛は頷いた。その指が、ディルの頬に優しく触れた。
「次会うときまでに、私、もっと強くなるから」
二人の黒髪が風になびいた。凛の指は、頬からそのままディルの唇に触れた。
「出会えて良かった…」
二人はそっと顔を近付け、長い口づけを交わした。だが、ゆっくりとその唇を離し、そのまま二人の体もゆっくり離れていった。
「私、もう行かなきゃ」
凛のかすれるような声に、ディルは笑って頷いた。その笑顔を見て、凛の顔からもようやく笑みがこぼれた。そして二人そろって、互いの目をじっと見つめ合いながら、ゆっくりと頷いた。
ついに、最後まで二人の体を繋いでいた手が離れた。それと同時に、凛はディルに背を向け、森に向かって走り始めた。今度は決して後ろを振り向くことなく、前だけを見て走り続けた。
凛は、森の中の道に足を踏み入れた。進んでいくと、次第に目の前の景色が白んできた。そしてとうとう目の前は真っ白になり、そこで凛は意識を失ってしまった。
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