第13話「世界戦争」
空の色は、水色からオレンジ色に変わろうとしていた。その頃、二人はようやく地に足をつけた。
そこはエルマドワ国の城下町から外れた草むらだった。これからモデアの墓場に入ることに備え、リブドからもらった食糧を食べておくことにしたのだ。
ディルは、遠くに見える城下町をじっと見つめた。
「町が静かすぎる。こんなに静かだったことは、俺の知る限りいまだかつてない」
確かに、あれほどの大都会にもかかわらず、そこから人々の活気のようなものは全く伝わってこなかった。むしろ、不気味なまでの静寂に支配されており、廃墟のようであった。
「戦争に一般の人々がかり出されているのかもしれない。戦争が始まるのは時間の問題だ。リン、急ごう」
急いで食糧を食べ、二人が立ち上がったとき、突然凛が悲鳴を上げ、倒れるようにして膝をついた。ディルは慌てて凛を抱きとめた。ディルの胸の中で、凛は頭を抱え込み、肩を震わせながら呼吸を荒げた。
「ごめんね、久々に昨日言った発作が出…」
最後まで言い切らないうちに、凛はさらに大きな悲鳴を上げ、全身を大きく震わせてうずくまった。凛は過呼吸になっていた。頭が割れるように痛く、顔色は一気に蒼白になった。ディルは凛の背中をさすりながら、凛の頭に自分の額を当てた。
「リン…無理させて本当に悪かった」
ディルのこの言葉に、凛は激しく首を振った。そして腕を震わせながら、ぎゅっとディルに抱きついた。ディルは優しく凛を抱き締め、背中をさすり続けた。
しばらくして、ようやく凛の呼吸が落ち着き、体の震えもおさまった。
「ありがとう、ディル。もう大丈夫」
ディルは凛を抱き締めた後、静かに凛と向き合い、その顔をじっと見つめた。
「リン、やっぱりお前は…」
ディルが言い終わらないうちに、凛は首を振った。
「私、結局時が来れば死ぬんだよ。無理してもしなくても変わらない。私、本当にもう死ぬこと怖くないの。だからお願い、ディルも怖がらないで」
ディルは少しの間、じっと凛を見つめていたが、ふっと表情を緩めた。
「どうすれば怖くないだなんて言える」
ディルは突然凛を抱きかかえ、そのまま空に浮かんだ。
「少しだが、墓場に着くまで寝ていろ」
「何言ってるの。こんな状況で寝れるわけないじゃん。ディルのばか」
言いながらも、凜はディルの首に腕を回し、ぎゅっと抱き締めた。ディルの温もりを感じながら、凛は小声で囁いた。
「ディル、私やっぱり、ずっとディルと一緒に生きていたい…」
ひっそりとした岩場の陰にそれはあった。ドーム型をした墓は、入口の左右に掲げられた松明で照らされていなければ、周囲の岩に紛れて気付かずに通り過ぎてしまうほど目立たないものであった。入口には、一人の鎧を着た強者が、腰にモダニアを携え、槍を片手に仁王立ちしていた。
二人は入口のすぐ傍の岩陰に隠れた。ディルはポケットに手を突っ込み、そこから小瓶を二つ取り出して、そのうち一つを凛に手渡し、凛の手を握った。
「俺が石を投げたら、一気に飲むぞ」
ディルはそこらに転がっていた小石を、見張りの前方めがけて投げた。石は、音を立てて地面に落ちた。見張りは体をビクンと震わせ、槍を握り締めながら前方へ駆け寄った。
これを見て、凛は薬を一気に飲み干した。横を見ると、すでにディルの姿はどこにも見えなかった。しかし、すぐに手を引っ張られ、凛は少し安心した。
自分の足が見えないため、今どこを歩いているのかも分からず何度もつまずきそうになったが、何とか見張りの後ろを堂々と通り抜け、二人は薄暗くて湿った空気の墓の中へと足を踏み入れた。
少し奥に進んだところで、各々用意していた解毒剤を飲んだ。ようやく凛の横にディルの姿が現れた。二人は立ち止まり、互いの顔を見て少し笑い合った。そして、周囲を見回した。
墓は、わずかの隙間もなく石を積み上げて造られていた。しばらく狭い通路が奥へと続いており、それ以外に何もなかった。奥からは、何かが腐ったような嫌な臭いがし、それが鼻を突いた。凛は手で鼻を覆いながら、ディルの手を握り奥へと進んでいった。通路を進むにつれて、奥にぼうっとした赤黒い光が見えてきた。
通路を抜けると、広いホールに出た。そして、目の前の光景に思わず二人は息を呑んだ。
そこには、強者の瞳よりも赤黒く濁った巨大な光に包まれた女性が、石の棺の中に横たわっていた。周囲には、たくさんの白骨が散乱していた。本物の白骨に凛は悲鳴を上げそうになったが、ぐっとこらえて隣のディルの手を握りしめた。
「ディル、この人本当に死んでるの?」
散乱した白骨につまずきながら、凛は光に包まれたモデアに近寄り、恐る恐るのぞきこんだ。それは、何百年も前の遺体とはおよそいえない状態であった。まだ生きた若く美しい女性が、そこに眠っているようにしか見えなかった。
「もしかすると、モデアは今でもこの中で生きているのかもしれない」
「そうだとしたら、この人すごく可哀相。とっても苦しそうな顔をしている」
ふと凜は、胸元の石を首から外した。それは何の反応も示さなかった。それをモデアの遺体に近付けようとすると、石から火花が飛び散り、それ以上近付けることができなかった。
「その石はモデアに拒絶されているようだな」
ディルがそう言った直後であった。モデアを包む光が突然大きく歪んだ。それと同時に、背後から足音が聞こえてきた。
「誰だ」
ディルはとっさに後ろを振り向き、刀を抜いて構えた。通路から、甲高い笑い声が聞こえてきた。そして、一人の男が暗闇から姿を現した。
「そんなに殺気づかないで下さいよ。せっかく再会できたんですから」
聞き覚えのある声に、凛の心臓は激しく高鳴った。男はまた一歩、二人に歩み寄った。モデアを包む赤黒い光が、男の顔を照らした。その男は、顔に張り付けたような柔和な笑みを浮かべていた。凜は記憶の糸を手繰り寄せた。
「あなたは確か、クロムニク総督…」
「おや、私のことを覚えていてくれたんですね。嬉しい限りです。私もね、あれからあなたのことが気になって、あるルートからあなたの残像を手に入れたんですよ。そこで感じたあなたの気配を覚えておいたんです。これまでどこにいるのか全く分からなかったのですが、突然モデア女王の墓場にあなたの気配を感じましてね、慌てて来たわけです」
クロムニクは視線をディルに移した。
「ですが、今ちょっと立て込んでましてね、あなたの体を調べるのはまた今度にして、私は今むしろ、あなたと一緒にいるディアロス王子に用がありましてね。王子、お久しぶりです。といっても、王子は私のことなど覚えていないでしょう。私が城にいたとき、あなたはまだ赤ん坊でしたから」
クロムニクはごく自然に腰の刀を鞘から引き抜いた。ディルは刀を構えながらも、瞬時に考えた。俺のことを知る家臣の中に、クロムニクなどという男はいなかったはずだが…。
「そうそう、あなたの弟ですがね、私を嗅ぎ回っていたようで、邪魔だったので殺しましたよ。口ほどにもない奴でした」
「カルディスを殺したのか」ディルは息を呑んだ。
「ええ。案の定エルマドワ国は大騒ぎです。なので、それをきっかけにして、新王軍はエルマドワ国に宣戦布告することにしました。新王軍の主張が正しいことを証明するために、私はディアロス王子を今ここで捕え、新王軍に引き渡す必要があるのです」
「まさか貴様…」
ディルは目を見開いた。ディルとクロムニクの視線がぶつかった。クロムニクは、不敵な笑みを浮かべた。
「そうだ、新王軍の頭はこの俺だ」
クロムニクは、とたんにその口調を一変させた。
「もうやめだ。クロムニクを演じるのは疲れた。ディアロス、貴様のお陰でエルマドワ家を滅ぼし、ついに俺がこの世界を支配することができる。そのお礼だ。特別に今まで誰にも明かしたことのない、俺の真の正体を教えてやろう。俺の本当の名前は…ディアロス、クロムニクを逆から読んでみろ」
「クニムロク…クニ・イムロクか!」
ディルは叫んだ。
「その通りだ。俺は今から四百年前、モデアに直接手を下したイムロク国の王、クニ・イムロクだ」
「なぜ今も生きている。モデアを殺した直後、貴様も死んだのではなかったのか」
「死んじゃいないさ。そこで眠っている女がまだ死んでいないようにな。その女がかけた呪いは、皮肉にも自分の命を奪った俺を強者にした。力尽きようとしていた俺は、授かったばかりの魔力を使って、ちょうど動物が冬眠するように、自ら長い眠りについた。その間に力を蓄え、必ずエルマドワ国をこの手で滅ぼすと心に決めながら。
そうして四百年の月日が流れ、ついに俺は目覚めた。体中に満ち溢れる魔力を感じながら。そして、クロムニクという架空の人間になりすまし、まんまと貴様ら の城で仕えることに成功した。
俺が城で仕え始めた頃、ちょうど貴様が母親の腹の中にいた。しかし、貴様が産まれてから、国王は何かと理由をつけて貴様を隠した。他の家臣と違って俺は国王を信用していなかったから、そこに何か訳があるとにらんだ。そこで密かに貴様の部屋をのぞいてみると、そこには弱者の赤ん坊がいたわけだ。
そのとき俺は、新王軍を立ち上げエルマドワ家を滅ぼすことを思い付いた。そこで俺はまず、自ら望んで総督になり下がり、自由に動ける体制を確保した。それからは、貴様の正体さえ知っていれば簡単なことさ。周囲の強者にこう囁いてやるんだ。『城に仕えているときに見てしまったんです。ディアロス王子は弱者だった。その証拠に、国王は王子のお披露目をしたでしょうか。神の血を引く王家といっても、エルマドワの血には穢れた血が混じっているんです。それならばいっそ、純粋な強者を王とする新たな国をつくろうではありませんか』とな。
中には、王家を冒涜するなと、俺を殺そうとした馬鹿な強者もいた。だが、俺の魔力の強さに屈服し、俺の言葉を信じた強者もいた。そうやって俺を信じた強者で新王軍を結成した。そうだ、この世界戦争が実現したのはディアロス、貴様のお陰だ」
クロムニクは大声で笑い始めた。ディルの顔は青ざめ、呼吸は荒く、体は震えていた。そんなディルを見て、凛はぐっと奥歯を噛みしめ、ぎゅっと拳を握った。
「あなたって、本当に最低!」
突然凛が大声を上げた。クロムニクは笑うのを止めた。
「誰よりも苦しんだのに、それに負けずに弱者を救おうとしているディルが、誰よりも強くて偉いんだよ!あなたなんか、たくさんの人を殺して、傷付けてばかりで、誰一人救ってないじゃない!そんな最低なあなたがこれ以上ディルのこと馬鹿にしたら、絶対に許さない!」
凛が叫び終わったとき、突然その首にかかっている石が鮮烈な光を放った。それと同時に、モデアの体を包む光が大きく揺れた。
しかし、それは一瞬の出来事で、すぐに石もモデアを包む光も元に戻ってしまった。だが、クロムニクはひどく動揺している様子であった。その額には汗が光っていた。クロムニクは凛を睨みつけた。
「やはり貴様の体を調べるのはやめだ。今すぐここで殺す。貴様の持つ力は読めない。呪いを解かれたら困るんだ」
クロムニクはついに刀を振り上げた。耳を劈くような金属音が墓場に響いた。ディルがクロムニクと刀を交えた。
「魔力の源があるこの場所では、魔力が使えないから困る。だが、俺の刀の腕前もなかなかのもんだろう」
クロムニクは狂ったように笑い声を上げた。しばらくの間、ディルとクロムニクの激しい刀の打ち合いが続いた。
その様子を見て、凛はそこらに転がっていた骨をクロムニクの顔に投げつけた。それは予想以上に上手く当たり、クロムニクは小さな叫び声をあげた。その隙を狙って、ディルはクロムニクの心臓めがけて斬りにかかったが、クロムニクは間一髪でそれをかわすと、ディルではなく凛に襲い掛かった。ディルは、急いで凛の元へ駆け寄り、クロムニクの刀を受け、そのままクロムニクの刀をなぎ払った。
「リンには指一本触れるな」
クロムニクはニヤニヤと笑った。
「貴様、女の命と自分の命と、どっちが大事なんだ」
「リンの命だ」
ディルは即答した。クロムニクは鼻で笑った。
「分からないな、その感覚」
「当然だ。分かる奴は戦争などしない。自分のことしか考えられなくなった愚かな人間がすることが戦争だ。だが、それが結局自分の首を絞めていることになぜ気付かない。戦争で世界が滅びれば、貴様も死ぬんだ」
クロムニクは歯をむき出して叫んだ。
「くだらん!世界は滅びぬ。俺は死なん!」
クロムニクは刀を振り上げた。そして、再び打ち合いが始まった。
しばらく打ち合いが続いていたが、不意にクロムニクの視線が凛の方へ移った。ディルがそれに気を奪われた一瞬の隙に、クロムニクは地面に転がっていた骨を拾い、ディルの顔に思い切り投げつけた。それはディルの目に当たり、ディルの左目からは血が流れた。ディルがよろめくと、クロムニクはディルを通り越して、墓場の端にいた凛めがけ襲い掛かった。ディルが急いで振り返り、刀を振り上げたそのときであった。凛は襲い掛かるクロムニクに、自ら突進していったのだ。そして、その足にしがみついた。足を取られたクロムニクは、仰向けにひっくり返った。
「リン、そこをどけ!」
ディルはクロムニクの心臓めがけて刀を振り上げ、そこを一突きした。一瞬、墓場は静寂に包まれた。
「死んだのか…」
ディルが刀を引き抜こうとしたそのときであった。突然、クロムニクが刀でディルの腕を振り払いながら起き上がり、そのまま立ち上がった。
ディルの両腕からは、血が流れていた。しかし、ディルはそのことにも気付かない様子で、唖然とクロムニクを見つめていた。それは、凛も同じであった。
そんな二人の様子を見て、クロムニクは真っ赤な口を顔いっぱいに広げて、狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「だから俺は死なないと言っただろう。四百年間眠って力を蓄えたおかげで、俺の体はかなり頑丈にできている。心臓を刺したくらいじゃ死なないぜ、ほら」
クロムニクはディルに刺された箇所に手をかざした。すると、みるみるうちに傷口は閉じていき、何事もなかったかのように元通りになっていた。
「そういうことか」
ディルは静かに呟き、クロムニクを見据えた。そして、無言で刀を鞘にしまい、それを通路近くの、手が届かないところに投げ捨てた。
「どうした、俺を殺せないと知って降参するか」
「リンと話をさせろ。少しでいい」
クロムニクはニヤリと笑い、一歩後ろに退いた。ディルは、静かに凛に歩み寄った。
「ディル…」
凛も不安げにディルに歩み寄った。ディルは凛の手首をつかみ、そのまま抱き寄せた。凛を強く抱き締めながら、ディルは耳元で囁いた。
「リン、よく聞け。これから俺が合図をしたら、俺の刀を持って城に向かえ。そして、俺とクロムニクがモデアの墓場にいて、俺が呪いを解こうとしていると言って、国王に会わせてもらうんだ。リンには魔力が効かないから、いずれにしても国王には会わせてくれるだろう。国王に会ったら、俺の刀を差し出すんだ。奴は魔力で物から残像を見ることができる。それで俺が本当にモデアの墓場にいることが分かる。そして、戦争を止めなければ、俺はこのまま呪いを解くと国王に言うんだ。そうすれば、戦争を思い止まる可能性がある」
凛は思わずディルの顔を見た。
「ディルはどうするの?それに、クロムニクは…」
ディルは優しく微笑んだ。
「安心しろ、クロムニクは俺がけりをつける。そうしたら、すぐに後を追う」
ディルは再び凛をぎゅっと抱き締めた。
「リン…今まで、ありがとう」
凛がその言葉の意味を聞き返す間もなく、ディルは突然凛を突き飛ばした。凛はしりもちをつき、石の壁に背中をぶつけた。
凛とクロムニクがディルの行動にあっけにとられていると、ディルはモデアの棺の近くの壁に左手を押しつけた。ディルが押し続けると、その部分の石のタイルが、低くて大きな音を立てながらゆっくりと凹んでいった。
すると突然、天井からものすごい勢いで鉄格子が落ちてきた。それは、巨大な音を立てて地面に深く突き刺さった。鉄格子は、ちょうど通路付近にいた凛と、棺の傍にいたディルとクロムニクとを隔てた。
「リン、行け!」
砂埃が三人の足元を覆う中、ディルは鉄格子越しに叫んだ。
「嫌だよ!ディルはどうなるの?」
凛は鉄格子にしがみついた。
「貴様、一体何をしでかした」
クロムニクは思い切り鉄格子を叩いて揺らしたが、びくともしなかった。クロムニクは顔を真っ赤にして、刀をディルの喉元に突きつけた。
「俺をここに閉じ込めようというのか。馬鹿め、自分も一緒に閉じ込められていることが分からないのか。とっとと俺をここから出せ!」
「クロムニク、ここがどんな場所か知ってるか」
クロムニクは怪訝な顔をしてディルを睨みつけた。
「王族以外の人間には知られていないが、ここはモデアの墓であるのと同時に、代々の王の墓でもある。王は死期を悟ると、こうして自らの手で鉄格子を降ろし、じっとここで死を待つ。強い魔力を持った王が、魔力の根源であるモデアと生死を共有することで、より呪いの力を強めるらしい。本当かどうか知らないが」
ディルは、そこらに散らばっている白骨を見渡した。
「この鉄格子は、降ろしてから三年経たないと上がらない仕組みになっている」
ディルは声を上げた。
「そういうことだ、リン。どんなに俺を待っていても無駄だ。早く城に行け!」
「嫌だよ…ディルを放って行けないよ!」
凛は鉄格子にしがみつきながら、激しく首を振った。しかし、ディルはそれを無視して、再び凛をせかした。
クロムニクの、ディルに刀を突きつけるその体は、次第に激しく震え始めた。
「貴様…俺から小娘たった一匹守るために、命を捨てるのか」
ディルは何も言わずに、ただクロムニクを睨みつけていた。
「そんなに死にたいなら、殺してやる!」
狂ったように叫ぶと、クロムニクはディルを刀で斬りつけた。地面は、一瞬にして真っ赤に染まった。そして今度は、ディルの腹に刀を突き刺した。刀の先が、ディルの背中から突き出た。クロムニクが刀を引き抜くと同時に、ディルはその場に倒れた。
それを鉄格子越しに見ていた凛の顔は、一瞬にして蒼白になった。クロムニクは、倒れたディルにまだなお刀を振りかざしていた。
「もうやめて!」
凛は、いまだかつて出したことのない大声で、声と体を激しく震わせながら、思い切り泣き叫んだ。すると次の瞬間、凛の胸元の石が再び光を放った。しかし、その光の強さは先程とは比べ物にならないほど強烈で、凛はあまりの眩しさに思わずぎゅっと目をつむり手で目を覆った。クロムニクも動きを止め、思わず腕で目を覆った。
しばらくすると石から光が消え、凛がようやく目を開けたそのときであった。モデアを包む光が激しく揺れ始め、まるで巨大風船が破裂するように、巨大な音を立て四方八方に消し飛んだ。それと同時に、そこから爆風が放たれた。凛の体は吹き飛ばされ、壁に強く背中をぶつけた。爆風は、今までびくともしなかった鉄格子をも破壊した。鉄格子の中央の部分が折れ、そこに大きな穴が開いた。
爆風がおさまると、墓場は文字通り、嵐が通り過ぎた後のような静けさに包まれた。しかし、それも束の間のことであった。棺からモデアの体が、ゆっくりと起き上がったのである。
「誰だ、私の眠りを覚ました者は…」
墓場中に、どこか悲しげな女性の声が響き渡った。
モデアは、漆黒の流れるような長い髪、サファイヤのように深く青い瞳の持ち主で、切れ長の目に美しい鼻筋、きゅっと締まった口元に色白で美しい肌をしており、絶世の美女という言葉を現実のものにしたような美人だった。その姿を見て、凛は思わず息を呑んだ。モデアは、ディルに限りなく似ていた。顔だけでなく、毅然とした姿勢や、美しさのなかに深い傷を抱えているような雰囲気すらも似ていた。
凛はすぐに立ち上がり、鉄格子の穴をくぐり抜け、ディルの元へ駆け寄った。ディルを抱き起こすと、ディルはうつろな目を開いた。
「リン…」
その声はかろうじて凛の耳に届いた。
「ディル、ごめんね…」
凛の瞳から涙が零れ落ち、ディルの頬に一粒、二粒と落ちた。凛はすぐに涙を拭うと、ずっと懐に忍ばせていた、昔ディルが弱者の村に置いていった傷薬の一部を取り出した。それをディルの傷口に塗りこみ、リブドからもらったマントの裾を破いてそこに巻き付け、応急措置を施した。
この様子をじっと見ていたモデアは、黙って立ち上がった。そして、口元に意味深な笑みを浮かべた。
「なるほど、ここには私を蘇らせる全ての要素が揃っている」
凛とディルは、同時にモデアを見上げた。
「まずそこの少女。お前の首にかかっている石に封じ込めた私の心が、お前の強い心の起伏に反応し、私に蘇る力を与えた」
モデアは、凛たちの横でぐったりと倒れているクロムニクを鋭い視線で睨みつけた。
「次に、私がこの世で最も憎んでいる男の存在だ。この男への強い憎しみが、私を長い眠りから目覚めさせた。しかしこの男は、今度こそ命尽きたようだな」
凛は思わず目を見開いた。
「クロムニクは死んだんですか」
「そうだ。私が眠りから覚めたとき、私を包んでいた光が消し飛んだだろう。あの光は強者の魔力だ。あれが消し飛ぶことは、魔力が消し飛ぶことを意味する。故に、あの風に当たった強者は、その魔力を消されるのだ。魔力によって蘇ったこの男から魔力が消えるということは、死を意味する」
モデアは、床一面を染めるディルの血を眺めた。
「そして最後に…私の血を引く者の血だ」
モデアはゆっくりとディルに視線を移した。
「なるほど、確かに私とよく似ている。お前はディアロス・エルマドワ。純粋な強者の両親を持ちながらも、弱者としてこの世に生を受けた。ディアロス、なぜお前が弱者として生まれてきたか、その理由を知りたくないか」
ディルは息を切らしながら、モデアを睨みつけた。
「私の呪いが始まって以来、エルマドワ家には強者しか生まれなかったと皆思い込んでいる。しかし、たった一人だけ、エルマドワ家に弱者が存在するのだ。ディアロス、それは誰だと思うか」
しばらくの間、痛いほどの沈黙が流れた。凛は、自分の心臓の鼓動さえ墓場に響き渡ってしまうのではないかと思った。モデアは、自分の胸に手を当てた。
「この私だ」
凛とディルは声を失った。モデアは心なく笑い、視線を下に落とした。
「それにしても皮肉なものだ。強者を生み出したこの私が、弱者であり続けただなんて。私の血は、子孫の強力な強者の血に負け、ずっと眠り続けていたのだ。だから代々エルマドワ家からは、強者しか生まれてこなかった。その中に、弱者の血がずっと流れていたにもかかわらず。ところが、ちょうどお前が母親の腹の中にいたときだ。私の血は突然目覚めたのだ。そこで死んでいる男の出現と、その男に対する私の強い憎しみによってな」
凛は、クロムニクの話を思い出した。クロムニクは、ちょうどディルがお腹の中にいるとき、城に仕え始めた。凛の体を、鳥肌が駆け抜けた。
このとき、モデアの顔を見て、凛の体には違う鳥肌が立った。モデアは、明らかにディルを蔑む目で見つめていたのだ。
「あの男さえいなければ、お前も強者として生まれることができたであろう。そんな惨めな姿で生まれてしまって、お前はことごとく不幸な男だ」
「よくディルに向かってそんなこと言えますね」
凛はディルをぎゅっと抱き締めながら、モデアを睨みつけた。モデアは少し顔色を変えた。
「ディルや弱者の人たちは、あなたが強者なんて生み出したせいで、どれほど苦しんでいるか分かりますか。普通なら、潰れてしまうほどの苦しみです。それなのにディルは、境遇を言い訳になんかしないで、むしろその苦しみを強さに変えて、ここまで戦ってきたんです。
ディルを見下す前に、あなたもこの世界で生きてみたらどうですか。あなたも弱者なんだから、きっとディルと同じ思いをする。そうしたら分かるはずです。ディルがどれほど強い人か。魔力に頼るようなあなたなんか、絶対にディルみたいに強くなれないから」
「黙れ!」
モデアはものすごい剣幕で凛を睨みつけ、その容姿からは想像もできないような低くて太い声で叫んだ。
「そうだ…私もかつては、日々飽きることなく戦争ばかりしていた人間に深い憤りを感じ、体を張って戦った。だが、その結果がこれだ!どれだけ強く平和を望んでも、結局力のない者を待つのは死しかないのだ。だから私は、力のある人間を生み出した。私は自分の無力さが悔しくて仕方がなかった。その悔しさで、死んでも死にきれなかったのだ。お前のような小娘に、この気持ちが分かるか!」
「分からないよ!」
間髪入れずに凛は声を張り上げた。凛の視線と声の強さに、モデアは辟易した。
「だって私は、人間を無力とは思わないから。確かに、あなたの言う力の基準でいえば、人を殺す力のない人間は無力かもしれない。でも、その基準は間違ってる。人間の本当の力を計る基準はそこじゃない。ここなんだよ!」
凛は、自分の胸に強く手を押し当てた。
「ここには、誰かを助けたいと思える力がある。ディルや弱者の人たちは、この心の力を持っている。この力を持っている人は、誰一人として争いなんて望んでいなかった。だから、争いを止めるためには、心の力を使うしかないんだよ。だけど、あなたの呪いが邪魔して、強者が自分の中にあるその心に気付けずにいる。皆がその心に気付いたとき、世界は必ずよくなる。だからお願い、今すぐに呪いを解いて!」
凛は、一瞬たりともモデアから視線をそらさなかった。モデアは、そんな凛に何かを言おうとしたが、口をつぐみ、不敵な笑みを浮かべた。
「お前がそこまで言うなら、証明しろ。その心の力とやらが、私の言う力に勝ることを」
モデアは目をつむり大きく息を吸い込んだ。そして、しばらくしてから再び目を開けた。
「今、世界戦争が起きようとしている。それを、お前の言う心の力を使って止めてみろ。私にできなかったことを成し遂げてみせよ。そうすれば、この呪いを解こう」
「分かった」
凛は胸元に視線を落とし、両手でディルの顔を包み込んだ。
「ディル、少しだけ待ってて。必ず戻るから」
しかし、凛の言葉を無視して、ディルは立ち上がろうとした。そんなディルを、凛は慌てて止めた。
「動いたらだめ!」
ディルは凛の手に、血だらけになった自分の手を当てた。そして、肩を震わせながらも言葉を紡ぎだした。
「言っただろう。最後まで一緒だと」
ディルは微かに笑った。ディルの瞳は、これまで凛が見つめてきた中で、最も強い光を放っていた。それを見て、凛も笑みを浮かべて頷いた。
「やっぱり行こう、一緒に」
凛に支えられながら、ディルはようやく立ち上がった。そんな二人をじっと見つめるモデアをおいて、二人は墓場の出口へと向かっていった。
暗闇に包まれた外に出た瞬間、二人は地響きを感じた。視界の両端で、バークに乗った無数の人が対を成していた。それは、狂ったような叫び声を上げながら、どんどん距離を縮めていた。
「両軍が動き出してしまった…急ごう、ディル」
二人は手を握り、走り始めた。
そんな二人のもとに、突然一頭の動物が走り寄ってきた。その存在に気付き、二人は足を止めた。
「ぺぺ!」
凛は思わず声を上げた。それは、リブドにアンジュレーム国に連れ去られたときにはぐれたペペだった。どこで凜のことを嗅ぎつけたのか分からないが、これほど有難いことはなかった。
「私たちと一緒に戦ってくれるの?」
凜はペペの頭を撫でた。ペペは喉を鳴らした。
「ありがとう」
そして二人は、ペペの背中に飛び乗った。それと同時に、ペペはものすごい速さで、対を成す人々の間に向かって走り始めた。
ついに二人は辿り着いた。エルマドワ軍と新王軍が衝突しようとしている、まさにその中心に。凛はペペを止め、大地に足をつけた。
両軍は、周囲の音を全て掻き消してしまうほどの地響きと叫び声を上げていた。二人からの距離は、もうそう遠くはなかった。空は暗黒のベールで覆われ、強風が音を立てて吹き荒れ、二人の髪をその頬に叩きつけた。凛の青いスカートと、ディルの紺色のマントが、大きく翻っていた。
「新王軍も、エルマドワ軍も、違う理由でおそらく俺を殺せない。俺がここにいることが分かれば、少なくとも動きは止まるはずだ」
ディルが言った直後、突然、凛の視界が大きく歪んだ。それと同時に、頭をナイフでめった刺しにされているかのような激しい頭痛と、体に巨大な石を落とされたかのような痛みを感じ、凛はその場に倒れた。全身が震え、急に呼吸ができなくなった。
もう、時が迫っている…凛は、このとき初めて死を感じた。それと同時に、温かいものに全身を包まれた。それはディルだった。ディルが凛を抱き起こし、じっと凛を見つめていた。蝋のように白い顔で、その全ての力を瞳に宿すように凛を見つめていた。
「リン、あと少しだけ耐えてくれ」
かすれるような声でこう言うと、ディルは立ち上がった。
「新王軍!俺はディアロス・エルマドワだ。俺は今ここにいる。逃げも隠れもしない。俺に死なれたくなければ戦いをやめろ!穢れた血の証人が必要なんだろう!」
どこにそんな力があるのだろう。穴の開いた体で、その足元には血が滴り落ちていた。それでもディルは毅然と大地を踏みしめ、普通の人でも到底及ばないほどの声量で叫び続けていた。
だが、ディルの声は、横からというよりも、頭に直接響いてくるように聞こえてくる。何故だろう…ふと凜が胸元を見ると、モデアの石が青い光を放っていた。もしかすると、モデアの慈悲の心がディルに力を貸しているのでは…。
頭痛も、体の痛みも全く治まっていなかったが、凛は立ち上がった。呼吸だけはできるようになっていた。
「リンは座ってるんだ」
ディルは凛の肩をつかんだ。凜は思い切り首を振った。
「いや。私も一緒に戦わせて。それに、モデアの慈悲の心も力を貸してくれているみたい。ディルの声は、きっと世界中の人に届いている」
ディルは光る石に目をやった。二人は顔を見合わせた。そしてディルは再び新王軍の方に体を向けた。
「新王軍、クロムニクはさっき死んだ。たとえあんたたちが憎むエルマドワ一族を滅ぼしたとしても、憎しみの心を捨てなければ争いはまた繰り返される。憎しみは争いを生むだけで、何も解決しない。自分の家族を愛するように、互いに思いやることはできないのか!その心がなければ、結局自分が苦しむことになるということが分からないのか!」
ディルは、今度はエルマドワ軍に体を向けた。
「強者たち、よく聞け。あんたたちがその魔力の根源として敬うモデア女王は、弱者だ!強者とか弱者とか、そんなことで人間を区別するのはもうやめろ!誰が国を支配するだとか、そんなくだらないことで争う前に、もっとやることがあるはずだ。今ここで戦えば、ここは全て毒の砂漠となり、人類は滅亡に追い込まれる。そんなことも分からないくらい、あんたたちは愚かではないはずだ!」
「その男を黙らせろ!その男の言うことは全て嘘だ!今すぐそいつを殺せ!」
突然、別の男の声が世界中に響いた。「国王だ」ディルは顔を歪めた。
エルマドワ軍の後方から、赤黒い光が放たれ始めた。だが、軍の前方の者たちが次々とバークを止め、その光を受け止めていた。前方から急に止まっていくので、後方の軍が前方の軍に次々と激突していき、玉突きとなり軍全体がどんどん倒れていった。
「前方にいるのは捨て駒の弱者だ…だめだ!俺の代わりにモダニアを受けようとするな!頼むからもうこれ以上死ぬな!」
ディルは叫んだ。だが、前方の弱者たちは動こうとしなかった。他方、新王軍は、その勢いは弱まってきたが、なおも進み続けており、二人との距離はみるみる迫っていった。
ふと、二人の両側から、両軍のものとは全く違う地響きがこちらに向かってくるのを感じた。そちらに目を向けた凛は、目を大きく見開き、驚きのあまり手で口を覆った。
そこには、何千というリブドが列を成して、まるで新王軍の前を縫うようにしてこちらに向かっていた。そして、次々と新王軍の前に立ちふさがっていった。
そんなリブドに向けて、新王軍は一斉に矢を放ち始めた。だが、体中に何十本という矢が刺さってもリブドは微動だにせず、その場に立ち続けていた。
「強者にたくさんの仲間を殺されたのに…もうやめて!これ以上傷つかないで!」
凛は泣き叫んだ。しかし、リブドはわき目もふらず、一心不乱に邁進し続けた。
リブドがこちらに近付いてくると、新王軍が放つ矢の嵐も一緒になって二人に迫ってきた。ディルは自分の体を新王軍に向けて凛を抱き締めた。そんな二人の盾になるように、ペペが新王軍の前に立ちはだかった。何本かの矢がペペの体に刺さったが、微動だにしなかった。
新王軍はもはや二人の目前に迫っていた。リブドの列も、真横にまで近付いていた。次の瞬間、リブドは二人とペペの上に一気に覆いかぶさった。その衝撃で、二人は地面に倒れこんだ。
新王軍はついに、エルマドワ軍よりも先にリブドと激突した。その瞬間、巨大な衝突音が世界中を駆け巡った。それと同時に、大地が大きく揺れた。新王軍は、リブドに激突した先頭から次々と倒れていった。しかし、その中においてもリブドは微動だにせず、堂々と立ち続けていた。
空には一寸の隙間も見せずに厚い暗雲が垂れ込めていた。地上は、高々と舞い上がった土埃と、禍々しい静寂に覆い尽された。暗雲と土埃と静寂によって、この世界の時間までもが呑み込まれてしまったかのようであった。
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