第12話「温もり」
「ここで何をしているんだ、クロムニク」
クロムニクは動きを止め、ゆっくりと振り向いた。そこには五人の家臣を引き連れたカルディスが立っていた。眼光は鋭かったが、込み上げてくるにやつきを抑えきれないのか、口元が歪み、バランスの悪い表情をしていた。
そこは、新王軍がエルマドワ国から奪った領土であった。そこの新王軍の上層部が出入りしている建物から、クロムニクが何人かの部下を引き連れて外に出てきたのだ。エルマドワ国の総督たる人間が、決していてはならない場所であった。
「おや、カルディス王子。私をつけてきたのですか」
まだほんの子供で、世の中のことを何も知らないくせに自分が一番強くて偉いと思い込んでいる、脳みそのないドラ息子としか思っていなかったから、クロムニクはカルディスを全く警戒していなかった。
「貴様が新王軍を動かしていることは分かってるんだ。今ここにいることが動かぬ証拠だ。今から貴様を連行する」
カルディスはあごで家臣たちを動かした。まさに家臣たちがクロムニクを捕えようとした瞬間、赤黒い閃光が走った。それと同じくして、カルディスが倒れた。その場にいた者たちは皆、この一瞬に何が起きたのか全く理解できなかった。
「カルディス様…?」
家臣の一人がカルディスに駆け寄った。しかし、すでにカルディスは絶命していた。家臣たちは、今目の前で起きたことが現実と思えなかった。エルマドワ王家が、殺された?皆戦慄し、しばらくの間ものを考えることもできなかった。
「貴様…自分が何をしたか分かっているのか…貴様は、神の命を奪ったのだぞ!」
ようやく、家臣の一人が半狂乱になって叫んだ。クロムニクも、狂ったように笑い声を上げた。
「神だと?笑わせるな。エルマドワ一族に神の血など流れていない。流れているのは、穢れた血だけだ!」
クロムニクは、右の手のひらを空に向けた。するとそこから赤黒い光が放たれ、それは空高くで花火のように爆発し、広大な範囲に広がっていった。
「全世界の新王軍に告ぐ。時はやってきた。直ちに、穢れたエルマドワ王族に総攻撃を仕掛けよ」
クロムニクの声は世界中の新王軍の耳に届いた。どこからともなく地響きが聞こえ、大地が揺れ始めた。
◆
「そういえば、ディルはお母さんからの手紙を鳥に運んでもらって、窓から入れてもらったって言ってた」
朝焼けが大地を照らし始めた頃、凜とリブドは雲の上を進んでいた。
上昇気流を自由に作り出せるというマントでの移動は、想像以上に快適であった。進みたい方向に進もうと思っただけで、自由自在に空の中を動くことができた。凜とリブドは各々マントを羽織り、エルマドワ城に向かっていた。
「窓ということは、かつて王子が閉じ込められていた部屋は地下ではありませんね。今も同じ場所に閉じ込められている可能性は低いですが、王子の存在は城の機密事項です。おそらく普通の者は近付けない、国王の部屋の近くにいることでしょう。国王の部屋はおそらく最上階。きっと王子もその辺りにいます」
下を見ると、雲が切れ間を見せ始めた。そこから、巨大な街並みがのぞいた。
「城下町に近付いてきました。ここから先はさすがに人間が空を飛んでいたら目立つので、これを飲みましょう」
リブドは止まり、懐から小瓶と赤い布を取り出した。
「この布は、透明にならないように仕掛けを施したものです。これをお互い腕に巻いて、どこにいるのか認識できるようにしましょう」
次から次へと出てくるリブドの不思議道具に、凜は舌を巻いた。凛はぎゅっと目をつむり、手渡された小瓶の中の液体を一気に飲み干した。それは甘ったるくて、思わず咳き込みそうになった。飲んだとたんに、凛の手は映りの悪いテレビのようにどんどんかすれていき、すぐに見えなくなってしまった。横を見ると、すでにリブドの姿はどこにも見えなかった。蝶々結びにされた赤い布だけが、ゆらゆらと宙に浮いていた。
「さあ、城に向かいましょう。まずは外から王子を探してみましょう」
二人は、さらに空の中を進んでいった。
エルマドワ城は、凜の予想をはるかに上回る大きさであった。黒い石造りの城には、いくつもの塔が高くそびえ立っており、まるで都心の高層ビル街が一つの城になっているようであった。
城の周辺には、数えきれないほどのバークと人々が、何やら騒々しく動き回っていた。人々は、地上にいるリブドの皮と同じ色をした鎧を着ていた。
「これは…どうやら巨大な戦争が始まろうとしていますね。このために私の仲間がたくさん殺された」
リブドの声しか伝わってこないが、その表情を歪めているのが凜には想像できた。
「急ぎましょう。二手に別れて、塔の最上階付近の窓をのぞいていきましょう。地道ですが、城の中に入って一部屋ずつ探していくよりは早いはずです」
凜はリブドと別れた。数多ある塔の窓を、一つずつのぞいていった。そこはたいてい、家臣の居室か、客間のような空き部屋であった。気持ちばかりが焦っていく中、突然「見つけましたよ」とリブドの静かな声が背後から聞こえた。そして、リブドは凜の腕をつかみ、そこからそう離れていない塔の最上階の窓付近に凜を連れて行った。
小さな窓から中をのぞくと、人がやっと一人横になれるほどの広さしかない空間に、ディルがこちらに背を向けてぐったりと横たわっていた。凜は思わず窓枠にしがみついた。ディルの顔は見えなかったが、そこが劣悪な環境であることは一目瞭然であったし、横たわる様子からもディルがかなり弱っていることは明らかだった。
「なんて酷いことを…」
凜は全身を震わせた。
「外から溶解器で壁を溶かして連れ出すのが一番早いのですが、部屋が狭すぎて、ここから溶解器を使うと壁と一緒に王子も溶かしてしまいます。面倒ですが、城の中から入りましょう。今戦争の準備で城の中は手薄になっているはずです。きっと、スムーズにここまで辿り着けるでしょう」
リブドは再び凜の腕をつかみ、二人は城の入り口へと向かった。
外の世界と隔絶されたこの狭い牢屋の中からでも、城の様子が尋常ではないことは何となく分かった。牢屋の前で見張りが何かを大声で話し、ばたばたと動き回っている気配が伝わってきた。ついに世界戦争が始まってしまったのだろうか…朧げな意識の中で、ディルはどうすることもできない自分の無力さを呪った。
ここに閉じ込められてからどのくらい時間が経過したのかも分からないが、生きるのに最低限の食糧と水だけを与えられ、当然体の治療などろくにしてもらえるはずもなく、今も全身の痛みが治まらず、治るどころか傷口は化膿して悪化し、日に日にディルは衰弱していった。
「ディル!今助けに来たから!もう少しだけ待ってて」
今のはリンの声…?しかも、この扉のすぐ向こうから聞こえた気がした。こんなところにリンがいるはずがない。俺はついに幻聴まで聞こえるようになってしまったのか…。しかし、扉のドアノブがガチャガチャと音を立て動き出したとき、ディルは痛みをこらえて思わず上半身を起こした。まさか、本当にリンが…?
凜がその扉を思い切り開けると、そこにはディルがいた。大きく見開いた目で、唖然と凜を見つめていた。凜はディルに駆け寄り、そのまま思い切り抱き締めた。「本当にリンなのか…」うわ言のようなディルの言葉に、凜は何度も頷き、さらに強くディルを抱き締めた。そして凜はじっとディルを見つめた。その顔は土気色で、襟元から生々しい傷跡がいくつも見えた。凜は、すっかり痩せてしまったそのディルの顔を優しく両手で包み込んだ。
「ディル…全然大丈夫じゃないよね。遅くなって本当にごめんね。今すぐ安全なところに連れて行くから」
この言葉にディルは首を振った。そして、凜を強く抱き締めた。
「リン…会いたかった…」
しばらく二人は抱き締めあった。
「あの…お取込み中大変申し訳ないのですが、そろそろ溶解器を使ってもよろしいでしょうか…」
リブドの恐縮した声に凜は後ろを振り返り、顔を赤らめた。ディルはこのとき初めてリブドの存在に気付き、その得体の知れない生き物に声を失った。
「ディル、この人はリブドで、私たちの味方だから安心して。後で全部説明する。リブドさん、ごめんなさい。お願いします」
凜はディルとともに扉の方に退いた。リブドは、溶解器を構え、そこから壁に向かって赤い光を発射させた。壁はみるみる溶けてなくなっていき、ぽっかりと外に通じる大きな穴が開いた。凜は、持ってきた縄でディルと自分の胴体を一緒に縛り付けた。
「信じられないと思うけど、これから空を飛んでここから逃げるから、私にしっかりつかまって」
そして、三人は空に向かって飛び立った。
背後から突然何者かに棒のようなもので殴られて意識を失っていた見張りが目を覚ますと、牢屋の中はもぬけの殻であった。なぜか、壁に大きな穴が開いていた。そこから外を見下ろしたが、人ひとり見当たらなかった。
ディルは、リブドの小屋の二階にある部屋のベッドの上で目を覚ました。窓の外はすっかり暗くなっており、大きな月が浮かんでいた。全身の痛みは嘘のように消えており、傷跡こそ残っているものの、傷もすっかり治っていた。体調も、城に連れ戻される前よりもむしろよくなっているような気がした。
「ディル、目が覚めたんだね」
凜が笑って部屋に入ってきた。そして、ベッドの枕元にある椅子に腰かけ、ディルの顔をのぞき込んだ。
「体調はどう?」
「あぁ、お陰ですっかりよくなった」
「よかった。リブドさんの薬は信じられないくらい効くからね」
凜は安堵のため息をつき、にっこり微笑んだ。その顔を見て、ディルは凜の手首を握った。
「リン、もっと傍に…」
ディルは凜を引き寄せた。そのまま凜はディルに覆いかぶさるようにして倒れた。ディルは凜を強く抱き締め、その首筋に顔をうずめた。凜も、力いっぱいディルを抱き締めた。
そして、ディルはじっと凜を見つめた。それは、凜がこれまで見たことのない表情だった。その瞳は濡れ、触れれば壊れてしまうのではないかと思うくらい脆く、儚い面差しで、ディルの中にある深い闇も、痛みも、葛藤も、そして自分への溢れんばかりの想いも、全て凜は感じることができた。このときほど、ディルを美しいと思ったことはなかった。凜の胸は震え、息が止まりそうになった。
「本当に迎えに来てくれたんだな…」
ディルの声はかすれていた。
「ディルをいじめる人たちが許せなかったの。どうしてもディルを助けたかった」
ディルは再び、凜を壊れるくらい抱き締めた。
「リン…好きだ…」
凜の瞳から涙が溢れた。
「私も…大好き…」
ディルは、もう気持ちを抑えることができなかった。凜の顔を見つめるやいなや、熱く口づけをした。しばらく二人は熱い口づけを交わしあっていた。
口づけをしながら、ディルは凜の胸をまさぐり、ブラウスのボタンを外していった。その先に進む前に、ディルが手を止め少し躊躇していると、凜は両手で優しくその手を包み込み、自分の胸に押し当てた。
「お願い…ディルと一つになりたいの…」
凜の濡れた瞳を見て、ディルは何も考えられなくなった。再び凜に熱く口づけし、そのまま唇を首筋に這わせ、凜の下着を外し、胸の先端を口に含んだ。凜は思わず吐息を漏らした。
二人は互いの体のあらゆる部分を貪るように唇を這わせながら、徐々に服を脱がしていき、全て脱ぎ終えると、ディルは凜の中に深く、深く入っていった。
凜は、あまりの嬉しさと快感に悲鳴のような声を上げ、体をのけぞらせた。それは、ディルも同じであった。呼吸を荒げながら、ディルの目にはうっすら涙が浮かんでいた。まさか自分が、これほど愛する人と出会い、その人と一つになれるときがくるなど、夢にも思っていなかった。
もっと深く、もっと感じていたい…一瞬でも離れたくない…二人は、互いの体をぎゅっと掴みながら、全てを忘れて悦びに打ち震え、さらに没頭していった。
外はだんだん白み始め、朝を迎えようとしていた。
「お体の具合は、もうすっかりよくなりましたか」
翌日の夕暮れ時、リブドは例によってまた囲炉裏で串団子を焼いていた。今度は緑色のたれがついており、柑橘系の爽やかな匂いが部屋を漂っていた。
凜とディルは囲炉裏の傍に並んで座っていた。ディルは、リブドの画期的な薬と食事のお陰で、すっかり体力を取り戻していた。リブドのことや、リュウリンの墓場のことについては、全て凜から話を聞いていた。
「それで、呪いを解くにはどうしたらいい」
凜はすっかり慣れてしまったが、ディルのぶっきらぼうな言葉を聞いて、リブドは、ははっと笑った。
「空の上からずっとあなたを見てきました。ようやく会えて私は嬉しいのです。それに、近くで見ると格段に男前じゃないですか。ですが、仲良くなるには時間がかかりそうですね…」
リブドは立ち上がり、部屋の奥の棚から小瓶二つと刀を一本取り出し、ディルに差し出した。
「モデア女王の墓場に行きなさい。あなたと、女王の石を持ったリンさんがそこに行けば、きっと女王は目覚めるはずです。それから後は、正直どうなるか私にも全く分かりません。ですが、女王の慈悲の心を女王に戻すことができれば、おそらく呪いは解けます」
モデアという言葉を聞いた瞬間、ディルの顔は凍りついた。
「何言ってんだ。あそこには常に見張りがいて、入るどころか近付くことさえ…」
「だからこれが必要になるんです、ディアロス王子」
ディルの言葉を遮って、リブドはその手に小瓶を握らせた。
「これは、体が見えなくなる薬です。使い方はリンさんが知っています。これを飲んで、うまく墓場に忍び込むんです。それと、もし途中で邪魔が入ったら、この刀を使ってください。これはただの刀ですが、あなたは刀の扱いが巧いようですから、護身具として役立つでしょう。溶解器のような物騒なものを持たせてしまうと、人間に私たちの存在を勘づかれてしまいかねませんから」
リブドは微笑んだ。そして、少し焦げた串団子を抜き、二人に差し出した。
「せめて今夜だけは、最後にゆっくりしていってください。間もなく大きな戦争が始まろうとしていますが、動き出すのは明日以降でしょう」
凜は、串団子をほおばった。蜜柑の大福のような不思議な味がした。焦げた部分が少しだけ苦い。
窓から見える空は、紫色に染まっていた。帯状の雲が真横を流れていた。凛は、隣にいるディルの手をぎゅっと握った。ディルは、窓の外を見つめたままこちらを見なかったが、そっとその手を握り返した。
夜も更けた頃、ベッドの上でディルは眠れずに寝返りを打った。隣では、凛が静かに寝息を立てていた。ディルは、窓からの星明かりに照らされた凛の寝顔をじっと見つめた。そして、そっとその頬を愛撫した。
ディルは迷っていた。これから向かうモデアの墓場は、呪いの根源であるモデアの遺体が眠る場所で、本来、弱者が足を踏み入れてはいけない場所であり、踏み入れたら最後、命の保証などないことを知っていたからだ。そんな場所に、この人を連れて行っていいのだろうか…。
凛の額に自分の額をコツンと当て、しばらく目を閉じてから、ディルは起き上がり、階段を下りた。
「眠れないのですか」
囲炉裏の傍には、まだリブドがいた。葉巻を吸いながら、緑色の液体をカップに入れて飲んでいた。ディルは、リブドの横に立ち止まった。
「迷っているのですね。リンさんをあの場所に連れて行っても良いか」
リブドは、口から煙を吐き出した。その匂いは、ディルが嫌悪する葉巻の匂いとはかけ離れた、非常に爽やかで清々しいものであった。
「リンさんは、この世界の人間ではありませんね」
ディルは、初めてリブドを見た。
「それがどうした」
リブドはディルの顔を見て、ははっと笑った。
「あなた、やっぱり友達つくるの苦手でしょう。まぁ、それは置いといて…この世界の弱者であれば、あなたはここまでリンさんに心を許さなかったでしょう。あなたは本当にお優しいから…一族の罪を、全て一人で抱え込んでいらっしゃる。一族が虐げている弱者を愛する資格など自分にはないと思っておられるのでしょう」
「そう思っていたとしても、俺が好きになったのは、リンがリンだからだ。たとえリンがこの世界の弱者だったとしても、俺は変わらずリンを愛していた」
リブドはまじまじとディルを見つめた。
「そうなんですか…いや、私はリブドですから、人間の心というのは実は想像でしか分からないのですよ。実に奥深く、難解なものなのですね…」
リブドは、遠く窓の外を眺めた。
「それほど深く愛されているならなおさら辛いでしょうが、異世界の人間であれば、連れて行っても良いのではないですか。どっちにしても、もう永くはないのですから」
しばらく、沈黙が流れた。
「どういうことだ」
ディルのかすれるような声が、沈黙を破った。リブドは目を見開いて、ディルを見上げた。
「リンさんから聞いていませんか。これはいけないことをした…ですが、やはり真実は伝えておくべきです。彼女は、この世界でもう永くは生きられません。彼女の世界とこの世界とでは、時間の流れも空気も違うからです。次第に体がついていけなくなるのです」
「リンは、そのことを知っているのか」
「おそらく、知っています。すでに死の兆候が出ているはずですが、もし知らなければ、それにパニックを起こしているはずです。しかし、彼女からそういったパニックは感じられません」
「兆候が、出ているのか」
ディルは髪をかきあげ、しばらくじっと床を見つめていた。そして、静かに顔を上げた。
「俺は、どうすればいい?」
その声は震えていた。リブドは、鋭い目でディルを見上げた。
「そんな弱気な言葉、あなたらしくありません。あなたは呪いを解くのです、一刻も早く。そして、彼女を元の世界へ帰してあげるのです」
しばらくリブドを見ていたが、少し笑うと、ディルは出口へ向かった。
「どこに行くんです?」
「俺らしくなれるように、頭を冷やしに行く」
ディルは、夜風が吹く外へ出て行った。その背中を見て、リブドはカップの中味を静かにすすった。
「辛くて仕方がないのですね…」
小屋の出口からまっすぐ伸びる坂を登っていくと、そこには柵に囲まれた大きな井戸があった。この巨大な木の幹を通って、地上まで通じているのだろうとディルは考えながら、その横を通り過ぎた。するとそこからは、急勾配の下り坂になっていた。下をのぞくと、真っ暗で何も見えなかった。
ここが木の末端か…ディルは雲一つない星空を見上げ、井戸の柵にもたれかかりながら、崩れるように座り込んだ。ひんやりとした風が、ディルの髪をなびかせた。ディルは片膝を立て、しばらく遠い空を眺めていた。
薄々予感はしていた。異世界の人間と、これから先ずっと共に生きていくことが果たして許されるのだろうかと。
これまでディルは、絶望の繰り返しの中で生きてきたが、その度に、遥か先にあるはずの希望を信じ、岩盤に爪を立てる思いで前に進み続けてきた。
凛の存在は、ディルにとって希望に他ならなかった。だが、ようやく見出したこのかけがえのない光をも、ディルは奪われようとしていた。
いや…リンは奪われない。いずれ離れるときが来るとしても、リンは確かに俺の隣に存在して、温もりを与えてくれた。この温もりを抱きしめて、俺はまた前に進み続けなければならない。そんなことは頭では分かっている…必ずまた前に進む。だけど、心が追いつくまで、もう少しだけ時間が欲しい…。
ディルは首をうな垂れ、片手で頭を抱えた。
「リン…」
思わず、その名を口に出してしまった。すぐ隣で足音が聞こえたのは、その直後であった。
「なあに、ディル」
聞き慣れた声が上から聞こえてきた。顔を上げると、そこには凛が笑って立っていた。
「リン、なんでここにいるんだ」
「それはこっちのセリフだよ」
凛はディルの隣に座った。
「目が覚めたらディルがいなくて、窓の外を見たらディルが歩いてたから、ついて来ちゃった」
凛は笑った。それにつられて、ディルも笑った。二人は、こぼれんばかりの星空を仰いだ。
「なんだかこの景色、ディルと出会った頃に、西の草原で見た景色と似てる。あの頃、ディルすっごく無愛想だったよね。今でも全然愛想よくないけど」
二人はくすっと笑った。ディルは凛の肩を抱き寄せ、そのまま抱き締めた。凜もしばらくディルの胸に顔をうずめていたが、顔を上げ、ディルにもたれかかり星空を見上げた。ディルは凛の耳に頬を当て、後ろからぎゅっと凛を抱き締め、一緒に空を見上げた。
「あの頃は、誰も信じられなかった。心がすっかり汚れてたんだ」
しばらくして、ディルは思い出したように沈黙を破った。すると突然、凛は振り返り、首を振った。
「ディルの心は、最初から全然汚れてなんかないよ」
凛は、まっすぐディルの瞳を見つめた。ディルはその瞳を見るなり、凛を抱き寄せ、震える体で、強く、強く抱き締めた。
「今まで、そんな瞳で俺のことを見てくれた人間なんていなかった。人がこんなに温かいということを教えてくれた人間なんていなかった…」
しばらく抱き締めてから、ディルは遠い夜空を見上げ、ゆっくりその口を開いた。
「もうとっくに知ってると思うが、俺の本当の名前は、ディアロス・エルマドワ。エルマドワ国王家の第一子として生まれた。ずっと黙っていて悪かった」
凛は首を振った。ディルは話を続けた。
「純粋な強者の両親を持つにもかかわらず、俺は弱者としてこの世に生を受けた。なぜそうなったのか、俺自身にも分からない。
あの国では、王家の血は神の血とされている。だから、王家の人間を殺すことは、神を殺すことと同じで、決して許されない。だからこの十九年間、俺は弱者でありながらも、殺されることなく生き延びてきた。だが、俺が弱者だと国民にばれれば、王家の尊厳が失われ、一族の存亡に関わる。だから俺は、一部の人間の手によって極秘に育てられた。いや、生き永らえされたと言った方がいい。城の人間が弱者に対して抱く感情なんて、想像するに容易いだろう。
あまりの苦しさに、何度も死を考えた。だが、外には俺以上に苦しんでいる弱者がいた。その苦しみが分かるから、そこから解放させたいと心から思った。俺は、呪いを解くにはどうすればいいかを考え始め、城にあったあらゆる本をむさぼり読んだ。その中で、リュウリンの墓場のことを知った。そうして、呪いを解くために城を抜け出し、旅を始めた。
だが、旅の途中で、俺が救おうとしていた弱者までもが、俺の正体を知るなり血相を変えて俺を殺そうとした。エルマドワ家は呪いの根源だから、弱者に憎まれて当然なんだ。そうやって殺されかけているうちに、俺は誰も信じられなくなった。俺は誰のために、何のために生きているのか…いつしか、こんなことばかり考えていた。そして、当初の目的を忘れ去り、自分がもうこれ以上虐げられない世界にするためだけに、呪いを解こうと旅を続けていた…」
ふと、ディルの体が震えていることに凛は気付いた。凛は慌ててディルの口に手を当てた。
「ディル、もういいよ。もう何も話さなくていいよ」
しかし、ディルはそっとその手を押さえた。
「こんなことはもうどうでもいいんだ。そんな中で、俺はリンと出会った。リンと出会って、俺は生まれて初めて、自分の命よりも大切なものがあることを知った…」
ここでディルは言葉を詰まらせ、凛から視線をそらした。凛は両手でディルの顔を包み込み、コツンとおでこをくっつけた。
「大丈夫だよ、私はまだ死なないから」
ようやくディルは凛の瞳を見つめた。
「リブドさんから、私がもう永くないってこと聞いたんでしょ。ディルの顔見たら、何となく分かるよ」
凛は少し笑った。
「確かに、最近すごく疲れやすくなったし、急に発作みたいに、動悸が早くなったり、息が苦しくなったりするの。でも私は今、死ぬこと全然怖くない。だって、ディルがいつも傍に…」
凛の言葉を遮り、突然ディルは凛を抱き寄せ、力の限り抱き締めた。
「俺は、死ぬほど怖い…」
ディルのかすれた声を聞いて、凛の胸は締め付けられた。しばらくしてから、ディルは凛をまっすぐ見つめた。
「俺が生きている限り、絶対にリンを死なせはしない。リンが死ぬ前に、必ずこの呪いを解く。そして、リンは何が何でも生きて元の世界に帰るんだ」
弱者の村で凛が初めてディルの瞳に引き込まれたときと同じように、否、それ以上に強く光るディルの瞳を見て、凛の瞳からはポロポロと涙が零れ落ちた。ディルは、指で優しくそれを拭った。
「ディル、そんなこと言わないで。こんなに、こんなに好きなのに…でも、私たち…」
凛が最後まで言い終わらないうちに、ディルは凛に優しく口づけをした。そして、再び凜を抱き締めた。
「本当なら、決して出会うことはなかった。だけど、俺たちは出会えたんだ」
凛は、ディルに首筋に顔をうずめた。
「ディル、お願い。全てが終わるまで、ずっと、ずっと傍にいて。もう、どこにも行かないで」
「最後まで、ずっと一緒だ」
二人は微笑み合った。そして、ディルは凛に熱く口づけをし、凛はディルの体を力いっぱい抱き締めた。それから二人は、口づけをやめなかった。いや、やめることができなかった。そうすることで、二人は今自分の愛する人と体温を分かち合っているという事実を噛みしめていた。これが決して夢ではないことを確かめていた。
そんな二人を、星の光が照らしていた。星空は、ゆっくりと宇宙のドームを進んでいた。その動きに共鳴して、帯状の雲が遥か彼方まで伸び広がっていた。それはまるで、永遠の方角を示しているかのようであった。
白い雲に覆われた足元の遥か下に、砂漠であろうか、茶色い地面がのぞいていた。空を飛んでいる間は怖くないのに、こうして木の縁に立ち地面からのぞき込むと、その高さに凜は全身がぞわぞわした。
「これは、私のものと同じマントです。空を飛ぶことができます。進みたい方向に体を動かしただけで、自由に進むことができます」
リブドは、ディルに紺色の布を手渡した。凜の灰色のマントとは色が違っていた。
「モデアの墓場は、ここからちょうど北へ進んだところにあります」
「墓場の場所は知っている。城の裏のずっと先だ」
そっけない返事をしながら、ディルはマントを羽織った。リブドは「最後まで仲良くなれませんでしたね」と、ふふっと笑った。
「本当にありがとうございました。リブドさんがいなければ、ディルを助けられませんでした。あと、お団子も美味しかったです」
凛はリブドに深々と頭を下げた。
「いいえ、お礼を言いたいのはこちらの方です。あなた方に全てを託してしまったのですから」
いつの間にかリブドの後ろには、十人ほどの他のリブドたちが並んでいた。
「必ず、生き延びて下さい」
リブドは凛の肩に優しく手を置いた。その顔を見て、凛は一瞬口をつぐんだが、やはり大きく息を吸い込んだ。
「あの、もし呪いを解いたら、あなたたちはどうなるんですか」
「ただ知能がなくなるだけです。さぁ、そんなこと気にしないで、お行きなさい」
リブドは二人の背中を押した。二人は顔を見合わせ、手を繋いだ。そして、木の縁から思い切り飛び降りた。
残されたリブドたちは、凜たちの姿が見えなくなってもなお、遠く北の方の空を見つめていた。リブドは一人呟いた。
「あの二人なら、きっとやってくれるでしょう」
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