第11話「東の果て」

 太陽がもうじき真上に昇ろうとしていた。スーツは風を通さないため、中の熱はこもるばかりであり、太陽が地平線から顔を出したとたん、みるみる暑くなっていった。

 凜の体力は、もはや限界であった。何度も砂に足をとられて躓いた。地面に座って何度か休憩したが、飲まず食わずで夜通し歩きっぱなしの上にこの暑さでは、地面に座って休むだけでは到底体力は回復しなかった。それどころか、上昇し続ける気温に体力は奪われるばかりであった。

 もう駄目かもしれない…凜の脳裏に諦めの文字が浮かんだそのときであった。視界の先に、緑色のものが飛び込んできた。あそこには植物が生えている。ということは、毒の砂漠ももうじき終わりだ。凜は足を速めた。凜を動かしているのは、もはや気力だけであった。


 しばらく進んでから凜は立ち止まり、足元を見つめた。そこには草が生えていた。凜はようやくスーツを脱いだ。久々にあたる風が心地よかった。凜は、空気をめいいっぱい吸った。そして、シャイカルからもらった包みを開き、ものすごい勢いで水を飲み、食糧を食べた。そして、地面の上であったが、構わず少し横になった。

 凜がうたた寝から目を覚ますと、リブドは砂漠の方に戻り砂を食べていた。ふと、リブドは毒の砂を食べることによって、それを大地から除去しているのではないか…そんな考えが凜の頭をよぎった。強者から戦に使うためだけに殺され、忌み嫌われているのに、黙々と強者が汚した大地を回復させようとしている…砂を食べ終わり、凜を追い越し先導しようとするリブドを見て、沈痛な思いが込み上げてきた。凜は、リブドの後に続いた。


 草が点々と生えているに過ぎなかった地面は、次第にサバナとなり、やがて背の高い木々の生い茂る森へと変わっていった。

 そこは、同じ森でも死の森とは似ても似つかないものであった。どこからか、爽やかな鳥のさえずりが聞こえてきた。足元には、様々な色の可憐な花が咲いている。時々、木の幹をリスのような愛らしい動物が駆け登っていった。

 雨が降ったばかりなのであろうか、木々や草の葉には露が残っており、それが太陽の光を浴びて、ダイヤモンドのように光り輝いていた。ひんやりとした風が森を駆け抜け木々をざわつかせ、湿った空気と土が心地よい匂いを放っていた。木漏れ日が差し込み、森をより一層神秘的で、美しくしていた。

 毒の砂漠の向こうに、こんなに豊かな自然があるなんて…凜は胸を打たれた。この辺りも、一度は砂漠と化したはずだ。だが、毒の砂漠に阻まれここには人間がいない。きっと、リブドと自然の力が、長い時間をかけて、人間が破壊した大地を取り戻していったに違いない。諦めてはいけない、この世界が諦めない限り…。凜の歩調は、自然と早まった。


 それからしばらくもしないうちに、どこかから波の音が聞こえてきた。ふいに、潮の香りが鼻についた。前から、明るい光が差し込んでくる。森を抜けると、そこには、どこまでも広がる美しい海があった。海の色は、青というよりエメラルドグリーンであった。太陽の光が波に反射して、海一面に宝石を敷き詰めたかのようであった。海のエメラルドグリーンと空の青、そしてそこに浮かぶ雲の白が絶妙なバランスで配置され、目の前の光景に、吸い寄せられるような無限の奥行きを与えていた。

 しばらくの間、凜は言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。なんて美しい世界なのだろう…ディルにも見せてあげたい…凜の目から、自然と涙がこぼれた。

 ふと凜が我に返ると、リブドの姿がどこにもなかった。慌てて周囲を見回すと、森の出口の近くに灰色の壁が見えた。それは、リブドの死体であった。近付いてみると、死体の壁の一部が扉になっている。凜は息を呑んだ。少しためらったが、意を決してその扉をゆっくりと押した。すると、木がきしむような不気味な音を立てて扉が開いた。そこは、人が数人やっと入れるほどの小さな洞窟になっていた。中から、かび臭い湿った空気が漂ってきた。

 中に入ると、一見、そこには何もないように見えた。しかし、その奥に、ほのかに青白い光を放つものがあった。

「リュウリン…?」

 凜はその光に駆け寄り、しゃがみ込んだ。凜の顔が青白く照らされた。そこには、米粒ほどの石がたくさん積み重なっており、それが光を放っていた。

 米粒のような石の中に一つだけ、凜の手の中にすっぽり入るくらいの大きさの石が埋もれていた。それは澄んだ水色の宝石のような美しい石だった。凜はそれを拾いあげた。すると、その石は突然強い光を放ち、凜は思わず目を閉じた。少しすると、光は弱まり、他の石と同じように青白い光をゆらゆらと仄めかしていた。


「ようやく呪いを解く者が現れたようですね」

 突然、上から注がれた男の声に、凜は顔を上げ尻もちをついた。そして、目に飛び込んできた光景に思わず悲鳴を上げた。

 目の前には、リブドをもっと人間の姿に近付けたような、得体の知れない生物が凜を見下ろしていた。その生物の頭には、明らかに一度も櫛を入れたことのない様子の銀色の髪の毛がもじゃもじゃと生えていた。顔はリブドのそれと全く同じであったが、肌は綺麗な緑色をしており、うぶ毛は生えていなかった。足は小枝のように細く、全身をねずみ色のマントですっぽり包んでいた。

 得体の知れない生物は、凜を見てにこっと微笑んだ。リブドと同じ顔だったが、その表情はリブドよりはるかに豊かで、人間のようだった。

「そんなに怯えないで下さい。私は決してあなたの敵ではありません。ずっと、あなたが来るのを待っていたのです」

 その口調はひどく優しかった。確かに、その穏やかな顔つきから、悪意は感じられなかった。

「あなたは、人間なんですか」

 凛は恐る恐る立ち上がり、その生き物から何歩か後ずさった。

「この姿が、人間に見えますか」

 謎の生物は、突然大声で笑い出した。

「私はリブドです。しかし、人間は私たちの存在を知らないのです。大丈夫、全てちゃんとお話しますから。ひとまず、私の家に来て下さい」

 リブドは外に出た。凜も、恐る恐るそれに続いた。リブドは、マントの中から足と同じく小枝のように細い手を凜に差し出した。

「つかまって下さい。これから、私の家に案内します」

 さすがに凜はすぐにその手を握ることができなかった。その様子を見て、リブドは再び笑いだした。

「私が信用できませんか。まぁ、無理もないでしょう。しかし、これならどうです。私がリュウリンに代わって、あなたに呪いを解く方法を教えると言ったら」

 凜は目を見開いた。

「あなたは一体何者なんですか」

「大丈夫、これから全部お話しますから。私はそのために存在するのです。さあ、しっかりつかまって下さいよ」

 リブドは凜の手首をぐっと握り、空に向かってジャンプをした。そのとたん、二人の周りにものすごい風が渦を巻き、体を包み込んだ。すると次の瞬間、ふわっと二人の体が持ち上がった。そうするやいなや、どんどん風が体を押し上げ、凛たちは空高くへと飛んでいった。

「きゃ!私、空飛んでる!」

 凛が叫んだ。下を見ると、森がどんどん小さくなっていった。

「このマントは、上昇気流を自由に作り出すことができるんですよ」

 リブドは得意気に話していたが、凜は全く聞いていなかった。

「すごい!鳥になったみたい!」

 凛は興奮して腕をめいいっぱい広げ、風を吸いこんだ。帯状の雲が凛たちの周りを囲み、その中を泳ぐようにしてどんどん進んでいった。次第に、地上の景色が見えなくなり、雲で覆われ始めた。まるで、雪原を滑っているようであった。

 前方には、地上から雲の上まで伸びている、巨大な木の幹が見えてきた。

「何あれ、ジャックと豆の木みたい」

 凛が呟いた。これを聞いて、リブドは再び得意気に話し始めた。

「あの木は、ちょっと遺伝子を組み換えて作ったんです。あの木の上が私たちの棲家です。さぁ、これから乱気流に入ります。風が強くなるので、しっかりつかまって下さい」

 すると突然、強風が四方八方から容赦なく吹きつけてきた。凛は前を向いていることができなくなり、リブドの腕を握りしめ、ぎゅっと目をつむった。


 そこは、とても木の上とは思えない光景だった。まるで草原にいるようだった。ただ、雲がとてつもなく近かった。草原の中には、木造の質素な小屋が十軒ほど建っている他には何もなかった。オレンジに染まりかけた空が、草原を包み込んでいた。静寂に包まれたこの光景を見て、凛は初めて来た場所のはずなのに、どこか懐かしさを覚え、胸が痛くなった。

 凜は一番大きな小屋の中に案内された。中は薄暗く、奥には二階に続く階段があり、中央には囲炉裏があった。そこでは小さな炎がオレンジ色の光を放っていた。

 時が止まったような空間の中で、リブドは囲炉裏の傍に腰を下ろした。凛は囲炉裏を挟んでリブドと向かい合い、その場に座った。

 リブドは大きなため息をついてから、その黒い目でゆっくりと凜を見つめた。

「あなたを待っているうちに、私もすっかり歳をとってしまいました。この日が来るのを、どれほど待っていたことか。あなた…というか、あなたの心の中にあるディアロス王子の心が、モデア女王に選ばれたのです」

「モデア女王?それに、ディルのことを知っているの?」

「ディアロス王子のことは当然知っています。彼は、本当に過酷な運命を背負っています。もちろん、彼は私のことは知りませんけどね。そして、あなたの首にかかっているその石には、モデア女王の慈悲の心が閉じ込められているのですよ」

 凜は驚いて自分の胸元を見た。それは、リュウリンの墓場にあり光を放った大きな石に、この小屋に来たときにリブドがチェーンをつけ、「あなたが持っている必要があります」と言って、ネックレスにして凜の首にかけたものであった。

「その前にまず、私たちのことを話さなければいけません。四百年前のあの日、女王の呪いによって変えられてしまったのは、実は人間だけではなかったのです。どういう訳か、私たちリブドもあの日以来、二つの種類に別れてしまったのです。呪いの副作用とでも言えば良いのでしょうか。けれど、考えてみれば当然のことなのかもしれません。人間も自然の一部ですから、人間に何かしらの変化が起これば、その影響が自然界にも及ぶのは当然なんです。

 リブドは、呪いによって何も変わらなかった者と、ある力を授かった者とに別れました。何も変わらなかった者は地上に残り、力を授かった者はこうして誰にも見つけられない場所へと逃げました。

 私たちが授かった力とは、知能です。それも、人間なんかの比にならないほどの。その代わりに、体の強さは失いましたけどね」

 リブドは、自分の折れそうな腕を撫でながら話を続けた。

「私たちがなぜこんなところへ逃げたのか。それは、人間に私たちの存在を知られてはならないと考えたからです。人間という生物は、本当に弱い。もし私たちの存在を知れば、自分の力で呪いを解こうとはせずに、すぐ私たちの知能に頼ろうとするでしょう。

 しかし、私たちの知能を使ってどんなに素晴らしいものを作り出したとしても、決して呪いを解くことはできないのです。なぜなら、この呪いを生み出したものが、人間の憎しみの心だからです。人間の憎しみに打ち勝つことができるものは、この世にたった一つしかありません。それは、人間の慈悲の心です」

「人間の慈悲の心…」

 凜は呟いた。リブドは頷いた。

「私たちはこの世界が呪われた時から、このままでは世界が滅びるということなど分かっていました。そして何度も、砂の毒を消す薬を作り、それを世界にばらまこうとしました。

 しかし、あえてそうしなかった。薬をばらまけば、確かに毒の砂漠はなくなるかもしれない。ですが、根源的な問題は何も解決しません。むしろ、それによって人間は自然に対してもっと傲慢になり、戦争や自然破壊を何度でも繰り返すようになります。そうなれば、慈悲の心を持つ人間が現れることはなくなり、呪いを解くことは永遠にできなくなります」

 リブドは凜の首元を見つめた。

「それで、その石ですがね、女王はこの世界を呪うとき、憎しみの呪いをかけるために邪魔な存在である、かつて心の底から平和を望んでいた自らの慈悲の心を消すために、それを自分から切り離し、封印の石に閉じ込めたのです。

 封印の石とは、もともと異世界への道を封じている石です。慈悲の心を封じ込めるために、女王は普段隠されているその石を現したのです。それによって封印が解かれ、異世界へと通ずる道が現れてしまったのです。こちらの世界からの道は女王が再び隠しましたが、異世界からの道を隠すことはできませんでした」

 凛は、自分の世界の雑木林と、こちらの世界の草原にあった、巨大なブルートパーズの原石のような岩を思い出した。確かに、それとこの石は、同じ色をしていた。

「女王の心が封印された石は、リュウリンの墓場の中に埋もれていました。リュウリンは、かつて平和を望む人間の願いを叶えたもの。慈悲の心と共鳴したのかもしれませんね。

 私たちはこの事実を知ったとき、女王の憎しみに心に打ち勝てるほどの慈悲の心を持った者であれば、必ず女王の慈悲の心と共鳴し、その石が何らかの反応を示すに違いないと考えました。そこで、世界中に噂を流したのです。リュウリンには、呪いを解く鍵があるらしいと。その噂に望みをかけ、リュウリンの墓場までやってくる人間には、深い慈悲の心があると思ったからです。

 長い間に、何人かの人間がリュウリンの墓場にやってきました。ですが、女王の石は何の反応も示さなかった。もちろん、その者たちにも慈悲の心はあったはずです。しかし、女王の心とは共鳴しなかったのですね。その女王の心は、呪いの妨げになるから切り離された心です。それが呪いを解く鍵になることは間違いありません。その心と共鳴しなければ、おそらく呪いは解けないのです」

 リブドはおもむろに立ち上がり、近くの棚に置いてある小さな壺から何本か串団子を取り出した。たれがたっぷりしみ込んで、見ただけで口の中に唾が溜まった。リブドはそれを、囲炉裏の中に刺していった。

「そんなときに、ディアロス王子が現れたのです。彼がなぜ弱者として生まれたのかは私にも分かりませんが、彼は女王の血を受け継ぎながら、かつての女王と同じように争いを止めようとしています。私たちは、彼に望みをかけたのです」

「だけど、ディルはここに来れなくなってしまった。その代わりに私がやって来た」

「ええ。そうしたら案の定、石は初めて反応しました」

 リブドは串団子をひっくり返した。香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。

「リブドさん。私、今すぐにでもディルを迎えに行きたいんです」

 リブドは、にっこり微笑んだ。

「呪いを解くには彼が必要です。いいでしょう、協力しましょう。ただ、今すぐというのはだめです。あなたは昨晩寝ずに歩き通しでした。ここで休んでおかないと、体がもちません。明日の朝出発しましょう。まずはこれでも食べてください」

 リブドはほどよく焼き色がついた串団子を凜に差し出した。そして、再び立ち上がり、部屋の奥から二つの小瓶と、ライフルのようなものを取り出してきた。全く想像もしていなかった、えらい物騒なものが出てきたと、凜は思わず身をすくめた。

「この瓶の中には、飲むと体が見えなくなる薬が入っています。そしてこちらの瓶はその解毒剤。飲むと体が元に戻ります。この物騒なものは、溶解器です。どんなものでも、一瞬にして溶かして気体にしてしまいます。おそらく王子はどこかに閉じ込められているでしょう。これらがあれば、城に忍び込んで、閉じ込められている部屋の鍵も一瞬で溶かせますよ」

「すごい…」

 平凡な言葉しか出てこなかったが、凜は串団子を食べることも忘れてその不思議な道具に見入っていた。「こんなものを作るのは朝飯前ですよ」と言いながら、リブドも串団子をほおばった。

 その晩、凜はリブドの小屋の二階にある部屋で泥のように眠った。何度か、寝言でディルの名前を呼んでいたことは、誰も知らない。

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