第10話「砂の海へ」
「あら奥様、外にお出かけですか」
アンジュレーム国に来てから数日が経った日の昼下がり、今日は日差しがそれほど強くなく、少し外にいても平気な気温だったので、城の周辺を散策しようと凜がエントランスホールに向かったとき、城の若い女中に話しかけられた。
この女中は、今朝廊下ですれ違いざまに、シャイカルに「肌が前より綺麗になったんじゃないのかい?とっても素敵だよ」と言われ、素直に喜んでいた女中だった。凜は女中を睨みつけた。
「あの人がなんて言ってるのか知りませんが、私はそもそもあの人のことを好きでもないですから」
女中は、おほほと笑うだけであった。
シャイカルは、初めて凜と会ったときにはカード遊びをしていたくせに、意外と忙しいようで、城にいることはあまりなかった。ただ、国王としての務めを果たしているのか、女の子と遊んでいるだけなのかは定かでない。
凜とジュンタは、ただ泊まらせてもらうだけというのも申し訳ないし、ここでのあまりに平和すぎる時間に退屈しないよう、自ら率先して城の掃除や料理といった雑務を手伝っていた。家族を亡くしたジュンタは、城の女中たちに本当の息子のように可愛がられ心底嬉しそうにしており、ジュンタはこのままずっとここにいてもいいかもしれないと凜は思い始めていた。
話しかけられたついでに、凜は日頃疑問に思っていることをこの女中にぶつけてやろうと思った。
「あの、一つ聞いてもいいですか。絶対に告げ口しませんから、正直に言って欲しいんです。本当のところ、皆さんはシャイカルのこと、どう思ってるんですか」
女中は自信たっぷりに、胸を張って答えた。
「城に仕えている者だけでなく、全国民が心の底から国王様のことを尊敬し、慕っております。シャイカル様は今までの国王様の中でも、特に王にふさわしい、素晴らしいお方だと思います」
「ええー!」
予想もしていなかった答えに、凛は思わず叫び声を上げた。
「本当にそう思ってるんですか?あれは他に類をみないセクハラ男ですよ。あなただって、何度もセクハラされてるでしょう。それに、自分勝手で子供だし、群を抜いたナルシストだし…」
女中は声を立てて笑った。
「そこが、国王様の魅力的なところです。そういったところも含めて、私たちは国王様を尊敬しております。奥様も、そのうち国王様の偉大さに気付くと思います」
「いえ…気付くときは永遠に来ないと思います」
期待外れの答えに、凜はため息をついて城の外に出た。
凜は巨大な噴水の前に辿り着き、傍にあった小さなベンチに腰掛けた。そして、太陽光を反射して、キラキラと宝石のように水しぶきを輝かせている噴水をぼうっと眺めた。
「リン!よりによって僕が一番嫌いな屋外にいたの!探しちゃったじゃん」
突然横から、凛が嫌いな声が聞こえてきて、凛は現実に引き戻された。顔を横に向けると、そこには案の定、凛が嫌いなシャイカルが立っていた。シャイカルはつばの広い帽子を深々とかぶっていた。そのため顔がほとんど見えなかったが、帽子の下からのぞいている鮮やかな金髪で、すぐにシャイカルだと分かった。シャイカルは、凛の隣に腰掛けた。
「そんなに外が嫌なら、来なきゃいいでしょ」
凛が不機嫌な顔をすると、突然シャイカルはぐっと顔を近付け、凛の顔をのぞき込んだ。凛は思わずのけぞった。
「リン、浮気をしているね」
「何言ってんの。浮気も何も、私たちはそういう関係じゃないでしょ」
シャイカルはくすっと笑って、凛の頬を指で突っついた。
「図星だね。残念ながらリン、僕にはそういう事がすぐ分かるんだ。ねぇ、その人は僕より美しい?僕とどっちが色白い?」
「あなたなんかと比べ物にならないくらい、ずっとずっとかっこいいよ!」
ついむきになって凛は声を上げてしまったが、言った直後、顔を赤くしてうつむいた。そんな凛を見て、シャイカルは声を出して笑った。
「へぇ、僕よりかっこいい人がこの世にいるんだ。一度会ってみたいなぁ」
シャイカルは突然立ち上がった。
「ねぇ、リン。高いところは好き?実はこれから、まだ誰にも見せたことのない僕の隠れ家に、リンを特別に招待しようと思って。一緒に来てくれない?」
「うーん、行ってもいいよ。どうせやることないし」
「嬉しい!さあ、行こう」
二人は手を握って…というよりも、シャイカルが強引に凛の手を握りしめて歩き出し、噴水を後にした。
城の敷地を抜け、町とは反対側の、人気のない荒地に出た。岩がそこら辺にごろごろ転がっており、寂寥とした風景であった。しばらく進むと、目の前に石造りの塔が見えてきた。その高さは、ゆうに城の倍はあった。その色はかなりくすんでおり、遥か昔に造られた遺跡のようであった。
「ここには昔のアンジュレーム国の城があったんだ。僕が生まれる何百年も前、初代の国王が建てた城なんだってさ」
周囲には広範囲にわたって、四角く切られた岩が塔を囲むように並んでいた。シャイカルは塔に触れ、その頂を見上げた。
「今のお城に移ってからは、解体して石材を再利用したみたいで、今じゃこの通り見る影もないけど、この見張り台だけは今でもここにこうして立ち続けて、国を見渡しているんだ」
シャイカルは瞳をキラキラさせて凛を見つめた。
「この塔が僕の隠れ家さ。今からリンを招待するよ」
シャイカルは突然凛を抱き上げた。そして塔の中に入り、中の螺旋階段を上り始めた。凛は思わずシャイカルの首にしがみついたが、しばらくして大声を上げた。
「ちょっと!どさくさに紛れてどこ触ってるの!」
凛を抱くシャイカルの右手は、見事に凛のお尻に触れていた。
「わざとじゃないよ。触れちゃうんだから仕方ないじゃん。なんならここで降ろしてもいいけど?」
凛は、この途方もない螺旋階段を見上げた。見ただけで体中にどっと疲れが襲ってきた。
「あのね、もう少しその右手を足の方にずらしてくれればそれで良いの」
優しい口調で言いながら、凛は思い切りシャイカルの首に腕を巻きつけた。
「リン、く、苦しいよ…」
それからシャイカルの右手は、徐々に足の方へずれていった。
どのくらい上っただろうか、シャイカルの息も上がり始めた頃、頭上から光が差し込んできた。
「あともう少しだよ」
シャイカルはペースを上げ、残りの階段を一息で上りきった。
頂上に着いたとたん、二人は強風に襲われた。凛の青い制服とシャイカルの茶色いマントが風に吹かれて翻った。シャイカルがかぶっていた帽子は、遥か彼方空の中へ飛んでいってしまった。この風に一瞬二人は顔をふせたが、すぐに顔を上げ、しばらくの間そこから見える景色に息を呑んだ。
空と平行して、金色の砂漠の大地が広がっていた。青色の中で、西の空がわずか黄金色に染まり、それが神々しく大地を照らしていた。砂漠を越えたずっと遠くには、町であろうか、多くの建物が並んでいるのが見えた。さらにその向こうには、ここからでもはっきりとその形が分かるほど巨大な建物が見えた。
「どう、ここからの景色、最高でしょ?」
シャイカルは凛を降ろした。凛は塔の柵にかけ寄り、じっとこの光景に見入った。
「すごい、なんて美しいの…」
シャイカルはくすっと微笑んで、凛の横に立った。
「シャイカル、あの巨大な建物は一体何なの?」
凛は遥か遠くに見える、巨大な建物の影を指差した。
「あれは、エルマドワ国の城だよ」
「エルマドワ国のお城…」
とたんに凜の胸が痛んだ。きっとあそこにディルがいる…あんなに遠い、だけど、今私が見えているところに…どうしたらあそこまで行けるのだろう?鳥のように、この空を飛び越えていきたい…凜の頬を涙が伝った。
「リン、急にどうしたの?大丈夫?」
シャイカルが心配そうに凜の顔をのぞき込み、肩を抱いた。凜は涙をぬぐった。
「ごめん、何でもない。ここからでもこんなにはっきり見えるってことは、あのお城はとてつもなく巨大なんだね」
「そりゃそうだよ。エルマドワ国はこの世界のほとんどの領域を支配しているからね。砂漠の小国にすぎない僕の国とは、規模が違う。でも、支配している領域の広さがその国の豊かさを計る物差しかといったら、それは違うけどね。豊かさを計る物差しは、ここなんだ。国も世界も、人間の心で決まる。何故なら、全ては結局、一人一人の人間によって動かされているから」
「え?」
凛は、思わずシャイカルを見つめた。胸に手を当て、エメラルドの瞳で地平線を見つめるシャイカルの横顔は、スッと鼻筋が通りまるで西洋の絵画のようであった。
「シャイカル、どうしちゃったの?」
「僕だってマジメなこと言うよ、たまには」
シャイカルは微笑み、柵にもたれかかった。
「実はここ、僕の父さんの隠れ家だったんだ。僕は小さい頃、よく内緒でここに連れてきてもらった。そして、ここで父さんからたくさんの事を教わった。国の歴史や政治、経済や今の世界情勢。それから、女の子のことも」
シャイカルはウインクをした。女好きは遺伝するのか…凛は妙なところに感心してしまった。
「この場所は、僕の原点なんだ。ここに来ると、あの時真剣に国の未来とか平和について、父さんと一緒に考えた僕になれるんだ。その時たくさんのことを決意したんだけど、日々の生活に流されて、行動に移せていないことに気が付いて、時々すごく反省する。そんなときにここに来ると、あの時の僕を思い出して、今からまた頑張ろうって思えるんだ」
シャイカルは体を凛に向けた。そして、ふっと真顔になって凛を見つめた。シャイカルの髪が夕日に照らされ、より一層美しく金色に輝いた。凛は思わず顔を赤くした。
「ねぇ、リンが最初に、外の弱者をここに連れてくればいいって言ったの覚えてる?そのとき僕は、内心すごく驚いた。僕と同じことを考える人が他にもいたんだって。僕も昔、父さんに同じ事を言ったことがあるんだ。そうしたら、僕が君に言った事を言われたけどね」
シャイカルはそっと凛の頬に触れた。
「あのとき思ったんだ。この人となら、一緒にこの国に平和を築いていけるかもしれない。この人といれば、僕は僕のままでいられるかもしれないって。そして君は、僕の期待を裏切らなかった。それどころか、君と接すれば接するほど、この気持ちは強くなっていったんだ」
シャイカルは、鼻先がくっつきそうな距離で、じっと凛の瞳を見つめた。
「僕じゃ、リンの恋人の代わりにはなれない?」
かすれた声だった。凛はシャイカルの目を見つめていたが、静かに首を振った。
「ここに来て、シャイカルのこと嫌いじゃなくなった。だけど私は、ディルを忘れることなんてできない」
しばらくシャイカルは真顔で凛を見つめていたが、顔の筋肉を緩めて微笑んだ。それから、プツッと糸が切れたように、にんまりと笑みを広げた。
「リンもようやく僕の魅力に気付いたみたいだね。それでも僕を振るなんて、普通じゃ考えられないな。でもいいさ、今夜はミリアちゃんに慰めてもらおう」
シャイカルの手が、自然と凛の胸に触れた。凛はその手をひっぱたいた。
「そんなに怒るとお腹もすくし、お肌にも良くないよ。そうだ、もうじき夕食の時間だよ。そろそろ戻ろう」
シャイカルは、凛に先に階段を降りさせた。凛の後ろで、ふとシャイカルは後ろを振り向き、目を細めてじっと遠くを見つめた。その視線の先には、エルマドワ国の城の影が、紫色へと変わりつつある空の中で浮かび上がっていた。
今朝も凛はひどい頭痛で目が覚めた。ここ数日間、ずっとそうだった。激しい頭痛が一日中、波になって凛を襲う。それだけでなく、波はあるが、ひどく疲れやすくなっていた。シャイカルと塔の遺跡まで行った日の翌日は、疲れがとれずほとんど一日中寝たきりになってしまった。また、急に動悸がしたり、呼吸が苦しくなったりするという症状にも襲われ始めていた。
ふと凛の脳裏に、トールの言葉が鮮明によぎった。「異世界の人間は、しばらくすると何の理由もなく死ぬ」この数日間の体調の変化で、それは事実かもしれないと身をもって思い始めた。この世界に来て、どのくらいの月日が経ったかは分からないが、長い時間が経過していることは間違いなかった。凛の心臓は、死に対する恐怖で激しく波打ち始めた。
「リン、入っちゃうよ」
凛が一人で震えていたとき、ノックの音とシャイカルの声がドアの向こうから聞こえてきた。
「入っちゃうよって何よ。勝手に入らないでよ」
凛は、今湧いてきた恐怖を無理やり心の奥に押し込め、慌ててベッドから飛び降り、髪の毛をとかした。ジュンタは、早朝から城の手伝いをしておりもういなかった。
いつものように颯爽とマントを翻して、シャイカルが部屋に入ってきた。凛の顔を見るなり、シャイカルは目をまん丸にし、ズカズカと凛に近寄り、そっと凛の頬に触れた。
「リン、ここのところやけに顔色が悪いけど、どうしちゃったの?」
凛は、自分の頬をさすり始めたその手をひっぱたくことも忘れ、思わず言葉を詰まらせてしまった。
「そうか、もしかすると、僕に恋しちゃったんだね」
「それだけはあり得ないから」
ようやく凛はシャイカルの手をつねった。
「あなたのそういうセクハラまがいの行動がストレスになってるのよ」
「なるほどね。『恋の病』と書いて『ストレス』って読むもんね。リンをこんなに苦しめているなんて、僕も罪な男だ。うん、全く罪だ」
凛の辞書には、もはやこの男に返す言葉は載っていなかった。
「そうそう、最近様子がおかしいのはリンだけじゃないんだ。リン、ここのところ、リブドを見かけたかい?」
この国では、いたるところで普通にリブドが歩いているのを時々見かける。城の中を普通に歩いていることもあり、凜は何度か度肝を抜いたことがある。言われてみると、ここ数日間全くリブドを見かけていないので、凜は首を振った。
「やっぱりそうか。この数日間、国中のどこにもリブドがいないんだよ。今までこんなことなかったから、外で何か起きてないか心配でね。心配で、僕の肌も荒れ気味なんだ」
シャイカルは、どう見ても荒れているようには見えないその美しい肌を撫でてため息をついた。
「でも、僕の肌がいつも自然とツヤツヤになっていくように、このおかしな事態も自然と良くなっていくよね。うん、これは僕の杞憂だ」
シャイカルはにっこり笑った。
「リンの恋の病だって、きっと治るよ。大丈夫、僕がついてるから。何かあったらいつでも言うんだよ」
凛の頬に、ほんの少し赤みがさした。
「よし、朝食を食べに行こう。美味しい朝食は、美容と健康の素だからね」
シャイカルは優しく凛の肩を抱いた。そして二人は、部屋を後にした。
「リブドだ!怪我を負ったリブドが何人か来るぞ!」
城の見張り台にいた家臣のこの一声で、城中が騒然とした。
凜はちょうどその頃、城の庭掃除の手伝いをしていた。今朝のシャイカルの話も気になり、慌ててリブドのもとに向かっていく人たちの後に続いた。その中には、ジュンタもいた。ジュンタは凜を見つけると、凜に駆け寄ってきた。
リブドの壁の近くに、何頭かのリブドが折り重なるようにして倒れていた。リブドは、体中に深い傷を負っているようで、全身血だらけであった。そこにはすでにシャイカルがいて、普段からは考えられないような真剣な顔つきで、てきぱきと家臣たちに指示を下していた。どうやら、リブドの手当ての指示をしているようだ。
「シャイカル、これは一体…」
凜はシャイカルに近寄った。凜の姿を見つけると、シャイカルはふっと表情を緩めた。だが、すぐに険しい顔に戻った。
「どうやら強者がリブドの巣を襲って、大量にリブドを殺しているようだ。ここにいる彼らは、僕たちに助けを求めるために命からがら逃れてきた。僕たちは、昔からリブドの手当てをしてきている。ここに来たリブドは一人も死なせない」
こうしている間にも、続々とリブドが壁をよじ登り、国の中に入ってきていた。多くの家臣たちが手当てに取り掛かっていた。
「私たちにも手伝わせて」
目を覆いたくなるようなリブドの痛々しい姿に、凜はいたたまれなくなった。「ありがとう」シャイカルは悲しげに微笑み、凜とジュンタも手当てに加わった。手当てをしながら、シャイカルは話を続けた。
「リブドの皮は毒の砂を通さないって前に話しただろう。実はね、強者の魔力も通さないんだよ。だから、強者が鎧として使うためにこれまでもリブドは殺されてきた。だけど、一度にこんなに襲われたのは僕が知る限り初めてだ。とても嫌な予感がする。もしかすると、大きな戦争が始まるのかもしれない」
凜とジュンタは顔を見合わせた。二人とも、「世界戦争になるのは、時間の問題だ」というディルの言葉を思い出していた。
「国王様!リブドが国王様を呼んでおります」
一人の家臣がシャイカルを呼んだ。シャイカルは、特に怪我が酷いリブドの元へ駆け寄った。そして、リブドの口元にしゃがみ込み、じっと耳を傾けていた。少なくとも凜とジュンタには、リブドが言葉や音を発しているようには全く見えなかったので、なぜシャイカルがリブドの言葉が分かるのか不思議でならなかった。
しばらくの間、シャイカルは目を閉じ一人考え込んでいた。ようやく目を開くと、リブドに何かを話しかけながらその頭を優しくなでた。そして、意を決したように立ち上がり、そのまま凛たちの元へ歩み寄った。
「彼がね、自分はもう助からない、だから自分の皮でスーツを作り、リュウリンの墓場に行って欲しいと言っている」
「リュウリンの墓場…」
凛はリブドを見つめた。リブドは、誰かをリュウリンの墓場に連れて行こうとしている…。
「彼は、リンたちをここに連れてきたリブドだ。確かに、この怪我では正直僕たちにもなす術がない。何より、それが彼の強い意志だ。だから、それを尊重しようと思う。ただ、彼から作れるスーツは一着だけだ」
「私が行く」
凜は一歩シャイカルに近寄った。
「リン一人じゃだめだ!もう少し待って、もう一つスーツを作ってもらって僕も行く!」
ジュンタが凜を見上げて叫んだ。凜は首を振り、しゃがんで両手でジュンタの顔を包んだ。
「ジュンタはここで待ってて。何なら、ずっとここで暮らし続けてもいい。ジュンタ今とっても幸せそうだもん。リュウリンの墓場には何があるか分からない。強者がいるかもしれない。そうだとしたら、魔力が効かない私の方が適役なの」
「嫌だ!リンと離れたくないよ!」
ジュンタの大きな瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。凜はジュンタを抱き締めた。
「離れないよ。大丈夫、きっとまた戻ってくるから。ジュンタのこと、絶対に忘れないから」
凜は立ち上がった。それを見て、シャイカルは微笑み腕をまくった。白くて細い腕がそこからのぞいた。
「じゃあ、支度を始めよう。日中の砂漠の気温はゆうに五〇度を超す。だから、夜中に移動した方がいい。リュウリンの墓場はここからそう遠くないから、今晩ここを出発すれば、途中で休みながらでも明日の昼前には着けるだろう。今からスーツを作るから、ちょっと待ってて」
シャイカルは後ろを振り向き、家臣たちに次々と指示を下していった。そして、凛とジュンタの方を振り返った。
「君たちは、後ろを向いていた方がいいよ。ここからの作業は、君たちには耐えられない」
「ちょっと待って」
凛は、リブドの元へ駆け寄った。傍にしゃがみ込み、血に染められたリブドの顔を優しく撫でた。
「リブド、あなたの気持ち、無駄にしないから」
リブドは表情を変えなかったが、凛には何となく笑ったように見えた。
空はいつの間にか暗くなっていた。シャイカルの「できたよ」という静かな声に、手当ての手伝いをしていた凜とジュンタは顔を見合わせ、ゆっくりと振り向いた。
スーツは、まさにリブドの着ぐるみだった。首から上と下とでパーツが分かれていた。スーツの隣には、リブドの皮の包みが置いてあった。
シャイカルが静かに二人の前に立った。その顔には、いつもの柔和な笑みはなかった。自慢のその肌はリブドの血で汚れ、美しい金髪も乱れており、エメラルドの瞳はうっすら充血していた。
「待たせたね。さぁ、早速着てみて」
凜は数人に手伝ってもらいながら、スーツを身にまとった。全身をリブドの皮で覆われると、少し息苦しかった。リブドの水晶体で作った小さな穴からしか外が見えないため、視界がかなり狭められた。
シャイカルは、リブドの皮の包みを凜に手渡した。
「この中には、水と食糧が入っている。あっちに着いたら食べるといいよ」
凛は、シャイカルに歩み寄った。
「シャイカル、あの…今まで、本当にありがとう」
シャイカルの顔に、ようやくいつもの微笑が戻った。
「僕の方こそ、リンといれて幸せだった。感謝しているよ。いつでもここに戻ってくるんだ。浮気をしに会いに来てよ。それで、今度こそ僕と同じ部屋で…」
「それ以上言ったら、今度こそ本当にセクハラで訴えるから!」
こう怒鳴ったものの、凛はなんだか悲しくなった。シャイカルも、どこか悲しげに微笑んだ。そして、真顔になった。
「いいかい、リン。絶対に死んではいけない。何があっても生き抜くんだ」
「リン、絶対また戻ってくるんだよね、約束だよ」
ジュンタは凜に抱きついた。凜は、リブドの皮の上からジュンタの頭を優しく撫でた。
「きっと、ディルと一緒に戻ってくるから」
凜は、リブドの壁に向かって歩き始めた。壁の傍まで来たとき、後ろを振り返った。そこには、シャイカルを先頭にして、大勢の人がこちらに向かって深々と頭を下げていた。その光景を見た瞬間、凛の視界は涙で滲み、何も見えなくなってしまった。
ふいに、壁の近くで待ち構えていたリブドが凜を背負い、壁をよじ登り砂漠に降ろした。リブドはそのまま東に向かって、ゆっくりと歩き始めた。リブドは歩きながら、何度も凜の方を振り向いた。
「私を案内してくれるのね」
凜は、一歩砂の上を踏み出した。真上に輝く三日月が、冷たく砂漠を照らしていた。砂が風に揺れ、まるで大海のように地面が波打っていた。
凛は、ふと後ろを振り返った。そこには、高く積み上げられたリブドの死体の壁が見えた。唯一、凛がシャイカルと上った塔の頂だけが、わずかに顔を出していた。灰色の壁は、月明かりを浴びて儚い光を放っていた。
遥か遠く北西の空が、うっすら赤く輝いていた。燃えているのだろうか。もしかしたら、あそこにリブドの巣があるのかもしれない。凛は、前を黙々と歩いているリブドに視線を移した。その背中を見て、一瞬歩みが止まった。だが、すぐに首を振って、再び歩き始めた。
何度も砂に足をとられ、つまずきそうになりながらも、凛は砂漠の中を進んでいった。全ての生命を奪う死の世界は静寂に包まれており、耳が痛くなりそうだった。一人の人間と一匹のリブドが砂を踏む音だけが、異様に響き渡っていた。
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