第8話「砂漠の王国」

「だめだ、ここも毒の砂漠になってる」

 ジュンタはペペから降り、地べたに座って地図を広げた。凛はジュンタの隣に座り、地図をのぞきこんだ。


 ディルと別れた後、凜はジュンタから、ディルは本当はエルマドワ国の王子であると告げられた。なぜディルだけ弱者なのかは分からないが、きっとディルは城に連れ戻されたに違いないということだった。ディルを迎えに行くために、たった二人でエルマドワ城に乗り込むのはあまりに無謀なので、やはり一刻も早くリュウリンの墓場に向かい呪いを解くことにしたのだ。


 エーリアの村からまっすぐ東に進んだところ、目の前はもはや毒の砂漠に呑み込まれてしまっていた。その終わりを探すため、南へと向かったが、いまだ毒の砂漠は続いており、果てが見えない。ジュンタは地面の砂を指先でつまみあげた。少しすると、指先が赤くなった。

「この程度の量なら害はないけど、さらされ続けると皮膚がただれてくるんだ。砂漠では常に風が吹き続けて砂が舞っているから、この中を進むのは無理なんだ」

 ジュンタはため息をつき、再び地図に目を落とした。

「地図だとここに一つ国があることになってるけど、毒の砂漠に呑まれたみたいだね。このまま南に進み続けても、今のところ砂漠が終わりを見せる気配はない」

「ジュンタ、まずいんじゃないの、これ」

「うん、かなりまずい。どうしよう」

 二人は宙を睨みつけた。二人の今の状況などおかまいなしに、綿菓子のような雲が呑気に空に浮かんでいた。

 早速考えることに行き詰った凛がふと砂漠を見ると、そう遠くないところから、人影がこちらに向かって歩いてくるではないか。凛は我が目を疑ったが、やはり何度見ても、そこには人影があった。

「ジュンタ見て、人だよ。毒の砂漠を、人が歩いてる!」

 凛は立ち上がって前へ進んだ。言われてジュンタも人影を見たが、凛とは対照的に、何の驚きも示さなかった。

「あれは人じゃないよ、リブドだよ」

「りぶど?」

「大昔から砂漠に生息していて、砂を食べる変わった生き物さ。リブドにだけは、なぜか砂の毒が効かない。だから、毒の砂漠に何かいたら、それは間違いなくリブドなんだ」

 ジュンタが説明している間にも、リブドはどんどん二人に近付いてきた。近付くにしたがって、その姿がはっきりと見えてきた。リブドは、体中に銀色のうぶ毛が生えており、手と胴はやたらと長いが、足は短い。頭はわりと小さく、そこには黒くて小さな丸い目と、黒くて大きな口がバランス悪く並んでいた。体は、黒と茶色と赤と深緑がまだらに混じったような色をしていて、決して美しい生き物ではなかった。そんなリブドが、三、四メートルはあろう巨体を左右に揺らしながら、のっそりと二人に歩み寄ってきた。

「リブド、こっちに来るよ」

「大丈夫だよ。リブドは決して人に害を与えるような生き物じゃないって聞いたことある」

 あっさりこう言って、ジュンタは地図に視線を落とした。しかし、リブドはどんどん歩みのスピードをあげ、こちらに近付いてきた。そしてとうとう二人の目の前に来たとき、ジュンタもようやく顔を上げ、立ち上がって凛の傍に寄った。

 その瞬間であった。今までの歩みの遅さからは想像もできないほどの速さで、リブドは右手を伸ばして凛を、左手を伸ばしてジュンタを引っ掴んで持ち上げ、二人の体を握りしめたまま踵を返し、走って砂漠の中に向かっていった。

「ちょっと、何するの!離して!」

 凛は叫び、ジュンタはもがいた。しかし、リブドは聞く耳を持たなかった。全身を力いっぱい握り締められていたので、二人は文字通り手も足も出なかった。

 ふいに、前方から強風が吹いた。それと一緒に、砂が飛んできた。凛は顔を手で覆ったが、砂にさらされた手の甲はところどころ赤くなっていき、しだいに血が滲んできた。凛は手の甲と、リブドに握られていなかった足に、肌を思い切り擦りむいたときのような強い痛みを感じた。

「痛い!」

 凛が叫ぶと、リブドがさらに強く握り締めたので、凛は呼吸が苦しくなった。そうしているうちに、凛の意識は、激しさを増す痛みと息苦しさのせいで、次第に遠のいていった。


 ライムのような、甘酸っぱくて爽やかな香りが、目覚めたばかりの凛の脳を刺激し、心地よい気分にさせた。目を開けた瞬間、辺りは真っ白で何も見えなかったが、しばらくするとそれが湯気であることが分かった。同時に、自分が裸でお湯に浸かっていることに気付き、凛は慌てて立ち上がった。

 そこは浴場であった。浴槽はそれほど大きくないものの、浴場の中央には、派手な彫刻が施された立派な柱が立っていた。右側の壁は天井からガラス張りになっていて、浴場の外が一望できた。外には白い岩でできた大きくて立派な噴水があり、その周囲にはナツメヤシのような木々が生い茂っていた。左側の壁には巨大な壁画が描かれており、そこには人間とリブドが舞を舞っている様子が描かれていた。

 この光景を見て、凛の頭の中は真っ白になった。寒くなったので、再び緑色のお湯に肩まで浸かった。すると突然、壁画に埋もれていた扉が開いた。そこから、太ったエプロン姿のおばさんが、微笑をたたえてズカズカと中に入ってきた。その瞳は、澄んだ緑色だった。

「目が覚めたのね。お怪我の具合はどうですか」

 おばさんは、浴槽に浸かっている凛の体をのぞきこんだ。凛は少し顔を赤らめ、体を反対側に向けた。

「傷はすっかり治ったみたいね。もうお肌は痛くないでしょう」

 確かに、意識を失うほどの激痛は、嘘のようになくなっていた。

「この薬湯で治せない傷はないのよ。特に毒の砂にはよく効くの。せっかくだから、もう少し浸かっていなさいな」

 おばさんは立ち去ろうとしたが、凛は慌てて呼び止めた。

「あの、私の服はどこですか」

 言った直後、凛は後悔した。もっと他に聞かなければならない大事なことがあったはずだ。

「あの変な着物?あんな汚いものは捨ててしまって、綺麗なものを差し上げるわ」

「だ、だめです!大事な着物なんです」

 おばさんは、凛のあまりの必死さに少々たじろいだ。

「そんなに大事なものなら、洗っておいてあげるから、その間は用意した着物を着ててくださいな。脱衣所に置いておくから」

 これだけ言い残すと、おばさんは足早に出て行ってしまった。おばさんが扉を閉めた瞬間、浴場の中は再び静寂に包まれた。凛は次第にこの静寂に耐えられなくなり、急いで浴槽を出て、出口へと向かった。

 脱衣所の床に置かれたバスケットの中には、レースとビーズがセンス良く散りばめられた白いワンピースが綺麗に畳まれていた。凛はこの服を一目で気に入り、早速袖をとおした。

 凛がちょうど服を着終えたとき、扉が開きさっきのおばさんが顔をのぞかせた。

「あらま、なんて美しい!それを着ると、ますます姫様の生き写しに見えるわ」

 おばさんは微笑みながら、凛の服の皺をピンと伸ばした。

「さ、国王様に会いにいきましょう。ひどくあなたに会いたがっていらっしゃるのよ。私の後についてきて」

「あの、私と一緒に男の子がいたと思うんですけど」

 凜は慌てておばさんを呼び止めた。

「ええ、ジュンタくんね。大丈夫、彼も違う部屋で今はゆっくりされてますよ。国王様にお会いしてから案内するわね」

 おばさんはズカズカと歩き始めた。凛は慌てておばさんの後についていった。


 脱衣所を出ると、そこは広くて長い廊下であった。床にはふわふわの赤絨毯が敷き詰めてあり、壁には古そうな絵画がいくつも飾ってあった。天井からは、シャンデリアがぶら下がっていた。

 この建物の豪華さと、さっきのおばさんの言葉からしても、ここがどこかの国のお城であることは間違いなかった。だが、城に仕えているおばさんは弱者である。この国は弱者が支配しているのだろうか?


 凛がそうこう考えているうちに、廊下の突き当たりにある、大きい両開きの扉の前に辿り着いた。

「国王様、例の少女を連れて参りました」

「入ってもいいけど、そっとね。揺らさないように頼むよ」

 中から若い男の声が聞こえてきた。凛がこの言葉の意味を理解できずに扉の前で立ち尽くしていると、おばさんは壁側に退き、手で「早く入れ」と合図をした。その後、口の前に指を立てて、「静かにね」の合図をした。そして、凛の体を叩いてせかすので、やむなく凛は、思った以上に重いその扉をゆっくりと、なるべく静かに押した。

 部屋に入った瞬間、凛は思わず体の動きを止めてしまった。扉の大きさのわりに、部屋は広くなかった。いや、あまりに乱雑としていて、広く感じられないだけだった。戸棚には、石や鉄くずなどどう見てもガラクタにしか見えない物がぎっしりと詰め込まれていた。床には動物の人形が散乱しており、足の踏み場がなかった。極めつけは、いたるところからぶら下がっている、気味の悪い模型であった。それは主に髑髏や鳥であったが、凛の頭上にぶら下がっていたのは、リブドであった。凛は思わず小さな悲鳴を上げ、半歩後ろに下がった。そして、正面の大きな窓の傍にある、ガラクタの山が乗っかっている机の上に、カードを積み上げ真剣にタワーを作っている青年に視線をやった。「揺らさないように」とは、こういう意味だったのか…凛が呆れ果てていたその横で、青年は凛にかまうことなく、ひたすらカードを積み上げていた。

「あと一段…」

 八段積み上がった見事なタワーの頂上となる二枚を、そっと、微かに震える手で置こうとしたまさにそのときであった。凛は、部屋中を舞う埃に耐え切れず、手で押さえるよりも早く、大きなくしゃみをしてしまった。それと同時に、青年が全魂を注ぎ込んで積み上げてきたタワーは一瞬にして吹き飛び、消えた。

「あ…」

 凛は慌てて口を押さえた。しかし、遅かった。青年の視線は、タワーの頂上となるはずだった場所一点に注がれていた。その手は、頂上になるはずだった二枚のカードを持ったまま、ちょうど九段目の位置で静止していた。しばらくして、青年の首だけが動き、凛を睨みつけた。

 初めて青年の顔を正面から見たこのとき、凛は不覚にも胸を高鳴らせてしまった。凛よりも少し年上に見える青年の目鼻立ちは、非の打ち所がないほど整っていた。瞳の色は、澄んだエメラルドグリーン。ハーフアップにして結ばれている、肩まで流れるように伸びた髪は見事な金色で、光沢があった。そしてその肌は、シルクのように白く美しかった。凛はしばらく青年に見とれていたが、ようやく我に返った。

「あの、ごめんなさい。決してわざとではないんです。我慢できなかったんです。この部屋が、あまりにも、あの…」

 凛は口をつぐんだ。

「この部屋が何だって?」

 青年はズカズカと凛に歩み寄り、目の前で立ち止まった。青年はしばらく凛を眺めていたが、突然ふっとこぼれるような笑顔を見せた。

「君、可愛い。いいよ、僕のタワーを壊したことは、その可愛さで帳消しにしてあげる」

 青年は、近くの棚に置いてあった額を手にとり、そこに描かれている肖像画と凛をしげしげと見比べた。

「うーん、やっぱり似ているな。特に目元が。僕の妹にそっくりだ」

「妹さん?あなたの?」

 凛は驚いて肖像画をのぞいた。そこには、長いブラウンの髪に黒い瞳の、色白で美しい少女が描かれていた。

「私なんかに全然似てない。すごく綺麗」

「僕ほどじゃないけど、確かに妹も可愛かった。だけど、僕にとっては君が一番さ」

 額を棚に戻してから、青年はウインクした。凛は思わず眉根を寄せた。

「君がどう思おうと、君は確かに妹に似ている。それも、リブドが妹と間違えてここまで連れてきてしまうくらいにね」

「そうだったの?」

 凛は目を丸くした。青年は、人形の中に埋もれていた椅子に、どかっと腰を下ろした。

「妹は、半年前に病気で亡くなったんだけどね。リブドには何度も、妹はもう帰ってこないって言い聞かせたんだけど、今でも信じられないみたい。でも、それも仕方のないことなんだ。リブドは妹に一番なついていたから」

 青年は勢いよく立ち上がり、美しく整った白い歯をみせてにっこり微笑んだ。

「僕の名前は、シャイカル・アンジュレーム。『砂漠のオアシス』という意味の、アンジュレーム国の王さ」

「あなたが、王様なの?」

「だってしょうがないじゃん。父さんが亡くなっちゃったんだ。それも、妹が亡くなったたった一カ月後だよ。父さんも病気だった。全く、僕の一族はどうかしている」

 あなたがいる時点で、すでにどうかしている…とは、凜は口には出さなかった。

 ふとシャイカルは表情を一変させ、真顔になり、目を細めて凛のことをじっと見つめた。そして、そっと凜に近付いた。近付くと、シャイカルはとてもいい匂いがした。この匂いと、憂いを帯びたその表情に、凛は思わず顔を赤らめた。シャイカルは凛の耳元に口を近付け、そっと囁いた。

「僕は君に支えて欲しいんだ。ねぇ、僕と付き合ってみない?」

 耳にかかる息と甘い声に、凛はくらくらした。シャイカルはそのまま凛を抱き締め、首筋に唇を押し当てた。

 すると突然、天井からぶら下がっていたリブドの人形が、凛の目の前でドンと床に落ちた。これに凛ははっとして、ようやく我に返った。慌ててシャイカルを突きとばし、息を荒げた。

「何するのよ!」

 シャイカルは落ちたリブドを拾い、それを弄びながらすねた顔をした。

「あーあ、惜しかったなぁ。大体これでうまくいくんだけどな」

 シャイカルは、突然声を上げた。

「そういえば僕、まだ君のこと何にも知らないんだけど。名前は?どこの国の人?どうして毒の砂漠の近くにいたの?」

 名前も知らない女子にあんなことするなんて…凛はシャイカルに対し、底知れぬ恐怖を感じた。

 凛はシャイカルの「毒の砂漠」という言葉から、ふとトールの話を思い出した。トールは、東の果てにある砂漠の小国の弱者からリュウリンの墓場の話を聞いたという。もしかすると、ここがその国なのでは…シャイカルへの不信感は拭えなかったが、呪いを解くための手掛かりが少しでも欲しかったので、凛はシャイカルにリュウリンの墓場を目指して旅をしていることを全て話してみることにした。


 凛が話し終えると、シャイカルは「うーん」とうなりながら腕を組んだ。

「すごく言いにくいんだけど、正直に言うと、リュウリンの墓場には何もないよ。これまでこの国から何人かあそこに行っているけど、皆何も見つけられなかった」

「そんな!」

 凜の心は絶望で覆われた。そんな凜の様子を見て、シャイカルは気遣うように笑顔を見せた。

「だけど、行ってみる価値はあると思うよ。君になら何か発見できるかもしれないし。ただ、ここは毒の砂漠に囲まれているから、あそこに行くのはちょっと難しいんだ」

 そう言うと、シャイカルは窓際に向かった。

「ちょっと来て。窓の外を見てごらん」

 シャイカルは手招きした。凛は、何度も人形を踏んづけ、転びそうになりながら、シャイカルの傍に辿り着いた。そして、窓の外を眺めた。

 まず目に飛び込んできたのは、豊かに茂っているナツメヤシであった。そしてその奥に、表面がぼそぼそした、細長くて大きな石がたくさん積み重なってできた高い壁があった。シャイカルは、その壁を指差した。

「あの壁が、この国を毒の砂から守っているんだ。ここからだとただの石に見えるけど、実はあれ、リブドの死体を積み重ねたものなんだ」

「リブドの死体?」

「驚いた?外に出て、間近で見てみようか」

 嬉しそうにこう言うと、シャイカルは人形をかき分け、部屋の隅に向かった。そして、そこにひっそりと佇んでいる、見るからに怪しげな、古びた壺の蓋を開けた。シャイカルは壺の中の勺を使って、中から白いクリーム状の物体をすくい、それを顔にまんべんなく塗りたくった。凜はいよいよシャイカルを不審者としか思えなくなっていた。

「あの、何してるの」

 シャイカルは、にやっと笑った。

「これは僕の命さ。紫外線を一二〇%カットしてくれる、特注の日焼け止めクリームだ。なんといってもここは砂漠のど真ん中だからね」

 シャイカルは壺の蓋を閉めた。

「これ、とっても貴重だから、リンには塗らせてあげないよ」

 シャイカルは、あはっと笑い、床に無造作に置かれていた茶色いシルクのようなマントを拾い、優雅にそれを羽織った。

「さ、行こう」

 シャイカルは凛の手首を握って、扉を開けた。


 広い廊下を進み、巨大なシャンデリアが吊り下がっている大きなエントランスホールに出た。出口には、警備員が二人立っていた。彼らは、その姿を見るなりシャイカルに敬礼をした。シャイカルは笑って手を上げた。凛はなぜか、この光景に違和感を覚えずにはいられなかった。

 外に出た瞬間、凛はその日差しに目を眩ませた。少し歩くと、汗が吹き出てきた。ドライヤーの風を全身にずっと当てられているような暑さだった。隣にいるシャイカルを見ると、全く汗をかいている様子はなかった。

 城の門からは、大きい道路がまっすぐ伸びていた。それに沿ってレンガ造りの建物が建ち並び、人々が道路を往来していた。人々は皆、シャイカルのマントと同じような布を、頭からすっぽりかぶっていた。

 城の庭を進んでいくと、凛が浴場から見た大きな噴水があった。そこは、まさにオアシスの様相を呈していた。周辺には植物が豊かに生い茂っていた。

 緑に囲まれた美しい庭をしばらく歩くと、二人はようやくリブドの死体の壁に辿り着いた。壁に顔を近付け、間近で見てみると、それは確かにリブドであった。その一つ一つに、目と口の痕跡が残っていた。表面を覆うぼそぼそした物体は、リブドのうぶ毛が硬くなったものであった。

 凛がリブドの死体に見入っている間に、シャイカルは急いで近くのナツメヤシの木陰に入り、手で日差しを遮った。

「リブドは死ぬと、こんな風に石のように固くなってしまうんだ。リュウリンの墓場に行くためには、死んでこうなる前のリブドの死体が必要になる。まだ柔らかいリブドの皮で、リブドのスーツを作るのさ。リブドの皮には毒の砂が効かないからね。一応リブドたちには、そういう状態の死体があったら運んでくるように言っておくけど、時間がかかるかもしれない」

 シャイカルは目を細め、壁をじっと見上げた。

「強者の世界では、リブドはその見た目から悪魔の化身として忌み嫌われているみたいだけど、僕たちにとっては悪魔は強者の方で、リブドは大切な友達なんだ。この国の人たちは、強者が生まれるずっと前から砂漠で生きてきた。その中で自然と、砂漠を住みかとするリブドと共存するようになったんだ」

 凛も日差しに耐えられなくなり、ナツメヤシの木陰に駆け込んだ。シャイカルは凛を見てにこっと笑った。

「アンジュレーム国は大国ではないけれど、湧いてくる地下水のおかげで、豊かで平和な暮らしをしていたんだ。だけど、世界が呪われてから、この国はどんどん毒の砂に蝕まれていった。幸いなことに、国から強者が生まれなかったから、魔力を使った戦をすることはなかったんだけど、砂漠は風が強いからね、毒の砂はどんどん広がっていった。そうして、この国は領土の半分を失った。もっとも、これは僕が生まれるだいぶ前の話だけど。

 外の人からは、この国はもうとっくに滅びたと思われているけど、リブドが残りの半分を守ってくれたんだ。彼らは、死期を悟ると国の周囲に立って積み重なり、そのまま死んでいくようになった。若いリブドは、そこらに転がっている死体を持ってきて、どんどん積み上げていってくれた。そうやって、この壁が出来たのさ」

 凜は、リブドの壁を見上げた。

「あの、ここに、外の弱者も連れて来れないかな。私たちがリブドに連れてこられたみたいに」

 シャイカルは目を見開いた。そして、ちっちっと舌を鳴らしながら、人差し指を立てて横に振った。

「その考えは甘いよ。まるで僕の美貌のように甘すぎる」

 シャイカルは凛と向き合い、人差し指を凛の鼻の先に当てた。

「僕の美しさはさておき、言っておくけど、君たちは本当に運が良かったんだよ。今日は珍しく穏やかだけど、普段の砂漠はこんなもんじゃない。四方八方から強風が吹き荒れて、舞い上がった砂で何も見えなくなるくらいなんだ。リブドがどんなに巧く体を覆ってくれたとしても、その中を無事に通り抜けられると思う?百歩譲って、君がそうしたように、何とか薬湯で治して弱者をここに連れてきたとしよう。でも、それから先はどうなる?いくら豊かと言っても、ここが砂漠の真ん中だってことを忘れちゃいけない。栽培できる作物の種類も量も限られている。肥沃な土地には敵わないんだ。そうすると結局、連れてきた弱者だけでなく、この国の人たちをも飢え死にさせてしまうことになる」

 凛はすっかり黙りこくってしまった。そんな凛を見て、シャイカルはふっと微笑み、凛の頭をポンポンと撫でた。

「でもね、確かにリンの言う通りなんだ。僕も弱者だから、仲間が外で苦しんでいるのは辛い。でも、この世界にはどうにもできないことが多すぎる。そう、例えば君の心を射止めることとか」

 シャイカルは全く以て自然に、凛の胸に手を当てた。あまりに自然すぎて、凛は最初違和感を覚えなかった。しかし、今自分の身に起きている恐ろしい事態を把握したとたん、顔を真っ赤にしてシャイカルの手をひっぱたいた。

「どこ触ってんの!」

 凛は息を荒げて怒鳴った。一方シャイカルは、凛に怒鳴られても気にする様子はなく、突然「あっ」と声を上げると、慌てて懐中時計に目をやった。そのとたん、情けない叫び声を上げて、手で顔を覆った。そして、むんずと凛の手首をつかんで走り始めた。

「ちょっと、どうしたの?」

「大変なんだよ、僕もう二十九分も紫外線を浴びてる。クリームの効き目が切れちゃう」

 シャイカルは泣きそうな声で叫んだ。凛は強引にひっぱられて、何度も躓きそうになった。そんな凛を見かねて、シャイカルは突然凛を抱き上げた。

「きゃ!降ろして!」

「嫌だ。君のペースに合わせてたら、間に合わないんだもん」

「じゃあ私を置いて一人で行けばいいでしょ」

「そんな訳にいかないよ。だって僕たち、結婚するんだから」

「何言ってるの?バカじゃない!」


 シャイカルはものすごい勢いで城に駆け込み、凛を抱いたままエントランスホールの目の前にある階段を一段とばしで上り始めた。

 途中で何人かの家来とすれ違ったが、その都度一人一人が深々とシャイカルに頭を下げた。しかし、シャイカルはそれに見向きもせず、無我夢中で階段を上っていった。この国は、どうやって治められているのだろう…凛は、疑問を抱かずにはいられなかった。

 かなりの階段を一気に駆け上り、シャイカルの息は完全に上がっていた。ようやく最上階に到着し、シャイカルは廊下の突き当たりの部屋に向かって突進していった。シャイカルは部屋の真ん中にある大きなベッドの上に凛を放り投げ、鏡台の前に飛んでいった。そして、鏡をじっとのぞき込んだ。

 凛はシャイカルを睨みつけたが、だんだんシャイカルに対して怒りの感情を抱くことが面倒になってきた。怒鳴る代わりに、ため息をついた。

 部屋は、一人部屋にしては広かった。ベッドの他に、ソファー、机と椅子に、大きな本棚と美しい観葉植物がセンス良く配置してあった。一階のガラクタ部屋とは大違いであった。

 突然、横からシャイカルの呻き声が聞こえてきた。凛は、人形のようにくたっとなって、鏡台に顔を突っ伏しているシャイカルに目をやった。

「もうだめだ。僕の肌は真っ黒だ。こんなに汚い肌じゃ、もう外も歩けない…」

 シャイカルは肩を震わせた。凛は唖然としたが、ため息をつき、ゆっくりベッドから降りてシャイカルの隣にしゃがんだ。

「肌がちょっと黒くなったくらいで落ち込んでる場合じゃないでしょ。明日生きられるかも分からない中で必死に生きてる弱者の前でも同じことが言えるの?それに、焼けたって言うけど、まだ私よりもはるかに白いから」

 シャイカルはゆっくり顔を上げ、その美しい瞳で凛をじっと見つめた。

「本当に?本当に僕、まだ白い?」

「うん、白いよ。すごく白い」

「あぁ、リンって本当に優しいよ」

 シャイカルは凛に抱きついた。凛は、シャイカルの匂いにまたドキッとしてしまった。この匂いにはしばらく慣れないなと凛は思った。

「ねぇ、リン。リブドの死体が見つかるまで、この城に住んで、僕の傍にいてくれない?リンがいなくなっちゃったら、僕すごく淋しい」

 シャイカルの傍にはいたくなかったが、泊まる場所を提供してもらえるのはありがたかった。

「うん。ここに泊まらせて欲しい」

「本当に?それじゃあ、この僕の部屋で一緒に…」

「他の部屋はないの?」

「何言ってるの。夫婦ってのは、同じ部屋で寝るもんだろう」

「なにまたバカなこと言ってるの」

「そう照れないでよ。でもそこもまた可愛いなぁ」

 シャイカルはウインクして、部屋の奥の扉を指差した。

「あそこが客室につながっている。僕と同じ部屋がどうしても照れるって言うなら、そこを使って」

「え、あなたの寝室の隣?」

「そうだよ、決まってるじゃないか。あ、リンと一緒にいた男の子もそこにいるはずだよ」

 凛はさっと立ち上がり、大股で客室のドアに向かった。部屋に入ると、ジュンタが一人ソファに座っていた。「リン!」ジュンタが凜に駆け寄ってきた。凜はしっかりと扉の鍵をかけ、ジュンタを抱き締めた。ドアの向こうから、「夕食の時間になったら呼ぶからね」という無邪気な声が聞こえてきた。

「隣の部屋に誰がいるの?」

 ジュンタは首を傾げた。

「とっても変な人。ジュンタは気にしないほうがいいよ」

 それから凜は、リュウリンの墓場に行く方法も含め、シャイカルから聞いたこの国のあらましをジュンタに話した。


 話し終えると、凛は一人バルコニーに出た。いつの間にか、外はもう暗くなりかけていた。真下では、噴水が水しぶきをあげており、それは暗がりの中で微かに残る空の光を反射して、まるでダイヤモンドが飛び跳ねているかのようであった。

 遠くに目をやると、国が一望できた。隙間なく灰色の壁に囲まれ、そこから外は全て砂漠であった。空は、ピンクと紫が混ざりあった幻想的な色であった。それは一面に広がる砂漠を染めた。砂漠は、全ての命を奪う死の世界だということを忘れてしまうほど美しかった。

 凛は、手すりに歩み寄った。手すりを握り締めながら、空に浮かび始めた星をじっと見上げた。

「ディル…会いたい…」

 震える声で呟くと、ぎゅっと目を閉じうつむいた。しばらく経ってから、凛は再び空を見上げた。そこに浮かぶ星は、滲んでよく見えなかった。

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