第7話「守りたいもの」
東の果てに向かう旅は続いていた。凜たちを乗せたバークは、植物があまり生えていない岩場をしばらく進んでいった。
再び木々が見え始めたところまで来ると、ここからあまり遠くない場所にある集落から、煙が立ち上っているのが見えた。
「また戦かな」
凛が呟いたのに対し、ディルはじっとその煙を見つめていた。そして、東ではなく北の方角にあたるその集落へとバークを走らせた。
「どうしてそっちに行くの?」
凛の言葉も耳に入らないほど夢中になって、ディルはバークを走らせた。
周囲を竹やぶに囲まれたその村は、もはや廃墟と化していた。建物はほとんど崩壊し、中には赤黒い煙をあげているものもあった。強者は撤退したようで、ただ死体だけが無残に転がっていた。凛は地獄としか思えないその光景に息を呑み、目を伏せた。ディルは、黙ったままバークから降りた。
「ディル、どこに行くの?ここはどこなの?」
「リンとジュンタはここで待ってろ。もし俺のいない間に何かあったら、俺に構わず逃げろ」
これだけ言うと、ディルは村へ向かっていった。
「いや!」
凛はバークから飛び降り、走ってディルについて行った。ジュンタもそれに続いた。ディルは、隣に寄り添うようにしてついてくる凛を一瞥した。
「リンには刺激が強すぎるだろう。これはこの前の比じゃない」
事実、凛は何度も転がっている死体につまずき、その度に小さな悲鳴をあげ、ディルの腕にしがみついて目をぎゅっとつむっていた。
「何も見ないようにするから大丈夫。皆が離れ離れになるのが一番怖いの」
とうとう凛は、ディルの腕に顔をうずめてしまった。ディルはそんな凛を見て、ふぅとため息をついた。
村の外れまで歩くと、古めかしい小屋に辿り着いた。ディルがこの小屋の前で立ち止まったので、凛は恐る恐る顔を上げた。
「ここに誰かいるの?」
「俺の母親だ」
ディルは静かに答えた。凛は、驚いた顔でディルを見上げた。
「この村、ディルの故郷なの?」
「いや。ここはエルマドワ国の領土だが、俺は住んだことさえない」
これ以上のことは言おうとせず、ディルは静かに小屋の扉を開けた。
狭い小屋の中は、特に荒らされたような形跡はなかったが、ちょうど部屋の中心にある囲炉裏をはさんで手前と奥に、二人の女性がぐったりと横たわっていた。ディルは手前に横たわっている女性に駆け寄り、その体を抱き起こしたが、もはやその首と手足はだらりと体からぶら下がっているだけで、まるで人形であった。心臓の部分から、赤黒い煙がかすかに立ち上っているのが見えた。
ディルが女性の体を起こしたとき、その顔を見た凛は凍りついた。それは、隣にいたジュンタも同じで、凜の腕をぎゅっとつかんだ。
その女性の顔には、目がなかったのである。つぶされているとかではなく、まるでお化けのように、目そのものがなかったのだ。
「ディアロス…様…」
奥に横たわっていた若い女性が、かろうじて聞き取れるほどの声を出して、わずかに動いた。ディルは、目のない女性をゆっくりと床に降ろして、奥の女性の元へ駆け寄った。
「エーリア、生きていたか」
ディルは、エーリアと呼ばれた女性を抱き起こした。エーリアの肩からは、赤黒い煙が立ち上っていた。
「掠っただけだ。これなら命に別状はないだろう」
ディルはすぐに持って来た荷物から薬の瓶を取り出し、エーリアに治療を施した。凜とジュンタもそれを手伝った。
「きれいな人だね」
治療を手伝いながら、ジュンタが呟いた。エーリアは痛みに顔を歪めていたが、それでも美しいと思えるほど顔立ちが整っていた。長い手足、栗色の髪の毛に、澄んだ青い瞳の持ち主で、西洋人のような面立ちであった。全然似てはいなかったが、この整った顔立ちと、ディルの母親と一緒に暮らしていることを考えると、ディルの姉かと最初凜は思ったが、ディルのことを「様」をつけて呼んでいたし、そもそも二人は姉弟のような雰囲気では全くなく、エーリアはディルを熱っぽい視線で見つめていることに凜は気付いてしまった。
「申し訳ありません。お母様をお守りすることができませんでした」
治療が一段落すると、エーリアはじっとディルを見上げ、か細い声を放った。ディルは静かに首を振った。
「エーリアは何も悪くない。これまで十分すぎるほど母を守ってくれた」
「突然のことでした…攻めてきたのは、イムロク軍です」
ディルは目を見開いた。
「イムロク軍?あの国は、エルマドワと互角に戦えるような戦力は持っていなかったはずだが…」
「おっしゃるように、イムロク国は小国でした。しかし、新王軍と手を組んだのです。それから、急激に勢力を拡大し始めました」
「ついに新王軍は他国と手を組み始めたんだな。世界戦争になるのは、時間の問題だ」
エーリアは、ゆっくり頷いた。
「ここも、明日にはイムロク軍に占領されるでしょう。私たち弱者にとっては、どの国に占領されようと、奴隷として支配されることに何も変わりありません。この世界の呪いを解かなければ、何も変わりません。そして呪いを解くことができるのは、ディアロス様だけです」
ディルは、悲しげに微笑んだ。
「エーリア、ずっと聞きたかったことが一つだけある」
エーリアは首をかしげた。
「なぜ
この言葉を聞いた瞬間、ジュンタは凍りついた。凜は、そんなジュンタを怪訝な顔で見つめた。
「それは当然の疑問です。私も最初に道でうずくまっていたお母様を見つけたときは、正直に申し上げて殺意を抱きました。しかし、近寄ってみると、お母様は繰り返しディアロス様のお名前を呼んでいたのです。『これからあの子は酷い目に遭う…できるなら私が代わってあげたい…誰か私に代わってあの子を守ってくれ…』こんなことをずっと、祈るように呟いていました。このときのお母様の声は、今でも耳朶に残っています。
自分が社会的に生きていくことができない状況であるにも関わらず、自分のことよりもディアロス様の心配ばかりされていたこのお母様の祈りを聞いたとき、私の中で何かがほどけました。例え強者であろうと、母が子を想う気持ちは何ら変わらない。そこには強者ではなく、ただ一人の人間がいるだけなのだと。そして私は、目の前のこの一人の母親を救おうと、本能的に思ったのです」
「そうだったのか…」
ディルは呟いた。その表情には、凛がこれまで見たことのない悲しみの影が落ちていた。詳しいことは全然分からないけれど、ディルの心にある深い闇を垣間見たような気がして、凛の胸は締め付けられた。
「本当に優しいお母様でした。身寄りのない私のことを、実の娘のように可愛がってくれました。こんなお母様の血が流れるディアロス様も、きっと優しい方に違いないとずっと思っておりました」
「旅に出るまでは、母とエーリアが鳥に縛り付けて送ってくれる手紙だけが救いだった。母を救ってくれたエーリアには、感謝してもしきれない」
微笑みあうディルとエーリアを見て、凛はその場から一歩後ずさった。何がこんなに苦しいのだろう…このとき、凛は自分が異世界の人間で、この世界のこと、何よりもディルのことを何も知らないということに、どうしようもなく泣きそうになってしまった。これ以上二人の会話を聞いていたら、自分がすごく嫌な人間になってしまいそうな気がした。
「リン」
ディルが凛の肩に手を置き呼び止めたのは、凛がまさに小屋を出ようと扉に手をかけたときであった。凛が振り返ると、ディルはじっと凛を見つめている。
「母の埋葬を手伝ってくれないか」
このたった一言で、胸の苦しみが和らいでしまう。人の心の無常さと単純さに凛はため息をつきながら、少し笑って頷いたのである。
エーリア以外の三人は、ディルの母親を小屋の裏庭に手厚く葬った。
「僕、奪眼の刑が現実に行われているなんて、思ってもいなかったよ」
お墓を見つめながら、ジュンタは呟いた。ディルは遠くを見つめた。
「行われることは滅多にない。リンは初めて聞くと思うが、この世界には、死刑よりも屈辱的で残酷な刑がある。それが、奪眼の刑だ。強者の魔力の源は瞳にある。目を奪われると、強者は強者としての力を失い、ただの人間…つまり、奴らが最も蔑んでいる弱者となってしまう。そうなれば、当然強者の世界からは追放される。そして、弱者からも受け入れられることはなく、路頭にさ迷いのたれ死ぬのが関の山だ。母もそうなっていたはずだった。エーリアに出会わなければ」
凛は、ディルとエーリアの会話を聞いているときからずっとまとわりついている疑問をディルにぶつけるか悩んでいた。けれども、このディルの話を聞いて、疑問はすでに確信へと変わっていた。
「ディルのお母さんは、強者だったの?」
「…そういうことだ」
その表情から、ディルがこれ以上話したがっていないことは明々白々だった。ディルの気持ちを無視してでも自分の欲求を満たそうとするほど凛は幼くなかったので、もう何も聞こうとしなかった。
エーリアがまだ身動きのとれない状態だったので、その晩三人はエーリアの家に泊まっていくことにした。ただし、いつイムロク軍が来るか分からないので、三人は見つからないように、小屋から離れた納屋で眠ることになった。すっかり辺りが暗くなった頃、ディルとジュンタは、バークに積んだままの荷物を納屋に運ぶため、小屋から出て行ってしまった。
「リンさんは…」
囲炉裏を挟んだ向こう側から、エーリアのか細い声が聞こえてきた。凛は顔を上げ、「はい」と返事をした。
「ずっとディアロス様と一緒に旅をされているのですか」
ディルと一緒に旅をするようになってから、どのくらいの月日が流れているのか分からなかったので、「ずっと」とは言い難いと思い、「まぁ」と曖昧に答えた。
「ディアロス様は旅に出るとき、最初にここに寄ってくださいました。そのとき、私は初めてディアロス様にお会いしましたが、今日再会して驚きました。ディアロス様は、本当に変わられました」
「ディルが変わった?」
凛の中では、ディルは出会った頃から今までずっと無愛想なままなので、エーリアの言うことが俄かには信じられなかった。
エーリアは、凜から顔をそらした。
「私が知っているディアロス様は、固く心を閉ざしておられました。自分の気持ちや感情を決して外には出さない方でした。ですが今日は…あんなに優しい顔で、無防備に笑っておられました」
エーリアは首を動かし、囲炉裏越しに凛の顔を見上げた。その瞳は、涙で濡れていた。
「ディアロス様は、不世出の方です。私はずっと、そんなディアロス様の傍に寄り添い、支えていきたいと願っていました。ですが、その願いは叶いませんでした」
エーリアの声は震え、涙は頬を伝って床にこぼれた。
「ディアロス様があなたに向ける眼差しを見て、ディアロス様がなぜ変わられたのかよく分かりました。ディアロス様の傍に寄り添えるのは、私ではなくあなたであると、不本意ながら確信いたしました」
凛の顔は、耳まで真っ赤になっていた。
「どうか、ディアロス様を頼みます」
タイミングを図ったかのように、小屋の扉が開いた。何も知らないディルのきょとんとした顔を見て、凛の顔はますます赤くなった。エーリアは、涙をぬぐった。
「狭い納屋で申し訳ありませんが、今晩だけは、どうかゆっくり休まれてください」
その晩、ディルは夢を見た。それは、ディルが旅に出て間もない頃のことであった。凄惨な強者の戦の跡地をバークに跨り走っていると、一人の少年が地面に蹲り、ガタガタと震えていた。少年の傍には弓矢が放り投げられていた。それは強者が捨て駒として用いる弱者の少年兵の粗末な武器であった。捨て駒であるため、武器は持たせるが鎧といった防具などは持たせず、少年は薄い着物をまとっているだけであった。
「怪我をしているのか」
ディルは少年の傍にかがみ込んだ。その際、帽子を深くかぶり口元は布で覆った。人と会うときは、常に顔を隠している。
少年はディルを見上げた。年齢は十歳もいかないくらいだろうか、まだあどけない顔をしていた。目には涙がたまっていた。全身にかすり傷があるが、深手は負っていないように見えた。少なくとも、肉体的な深手は。
「故郷に帰りたい…」
喉からもれるような声で少年は呟いた。聞くと少年の名前はジュンタといい、故郷はディルが目指すリュウリンの墓場とは真逆の方角に位置する、死の森の近くのエルマドワ国領土だという。
ディルはジュンタを抱き上げ、バークに乗せ故郷へ向かった。しばらくジュンタはディルの腰にしがみつき震えていたが、次第に落ち着いてきたようであった。
ジュンタは、なぜディルが終始顔を隠しているのか純粋に気になった。途中で休憩をし、物を食べるときも、ディルは顔を覆う布を外さず、布の下から口に食べ物を入れていた。当然のことながら、ジュンタがその理由を尋ねても、答えてくれなかった。
川の近くで休憩をしたとき、ディルはジュンタにそのまま待っているよう言いつけ、一人で川に水を汲みに行った。ジュンタは、密かにディルの後をつけた。水を飲むために布をとる瞬間を見ようと思ったのだ。そして、ジュンタはディルの顔を初めて見ることになる。
その顔が、普段出会うことがないほど整った美しい顔立ちだったので、ジュンタは思い出してしまった。村役場といった村のいたる施設に堂々と飾られている、エルマドワ国王の肖像画を。でも、この人は弱者だ…だけど、あまりにも似ている…。ジュンタの体が小刻みに震えた。
それから、ジュンタの葛藤が始まった。ジュンタの口数が極端に少なくなった。ディルはそのことが少し気になったが、自分の顔を見られたとは夢にも思わなかった。
「お兄さんも怪我してるんだね」
まもなく故郷に到着する頃、ジュンタがぼそっと呟いた。強者の戦の流れ魔力に当たり、ディルの肩は血で滲んでいた。
「僕の村で休んでいきなよ。お礼がしたいんだ」
ジュンタをバークから降ろしたとき、ジュンタはディルの手を引っ張った。ディルは警戒し二の足を踏んでいたが、ジュンタは大声で、ディルのお陰で無事戻ってこれたことを駆け寄ってきた村の弱者に伝えていた。数人の弱者たちは泣きそうな顔でディルに手を合わせ、頭を下げ、ぜひ今晩は村でゆっくり休んでいって欲しいと懇願した。
布で覆われたディルの口元は少し緩み、バークも疲れている様子だったので、その言葉に甘え、村の質素な小屋に泊まらせてもらうことにした。
その晩、ディルは小屋の外にいたバークの雄叫びで目が覚めた。その瞬間、ディルの顔面に冷たく光る鋭利なものが飛び込んできた。間一髪ディルはそれを避けたが、頬に深い傷が刻まれた。それと同時に、舌打ちが聞こえた。
起き上がると、昼間ディルに頭を下げた数人の弱者がディルを取り囲み、包丁を向けていた。ディルは反射的に自分の刀の柄を握った。
「貴様、エルマドワの王子だな。弱者に化けて俺たちをどうするつもりだ。これ以上俺たちを苦しめるのか」
ディルの心は絶望で覆われた。
「確かに俺は王族だ。だが、あなたたちと同じ弱者だ。これまで王族があなたたちにしてきた罪は償っても償いきれない。だから、俺はこの世界を変えるために旅をしている。あなたたちを救いたい」
「王族が弱者なんてことがあるか!俺たちを馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
弱者にはディルの言葉など伝わらなかった。弱者は力いっぱい包丁を振りかざしてきた。ディルの腕は真っ赤に染まり、胴や足にも深い傷を負い体中血だらけになりながらも、ディルは決して弱者を傷付けなかった。だが、ここで死ぬわけにはいなかった。強靭な使命感でその場を命からがら逃げ出し、バークに駆け寄った。しかしそこには、さらにディルに追い討ちをかける光景が待っていた。
「バーク!どうしてこんなことに…」
バークの体は無残にも傷付けられ、足が全て折られていた。虫の息になったバークは、ディルを悲しげに見上げた。
「お前には何の罪もないのに、俺と一緒にいたばかりに…本当にすまない…」
ディルはバークの首に顔をうずめた。そうしているうちに、小屋から弱者の男たちが飛び出してきた。
最後の力を振り絞るかのように、バークは首を振り、ディルを突き放そうとした。これまでずっと一緒にいたディルは、それが自分を置いて逃げろという意味だと悟った。バークを見つめて、ディルは歯を食いしばった。体中の痛みもさることながら、心の痛みを耐え抜くように。
ディルは走った。体は激痛に覆われていたが、それでも走り抜いた。向かったのは死の森であった。ここに飛び込むことは死を意味する。それを見届ければ、弱者は満足するだろうと思いながら、ディルは死の森に飛び込んだ。
死の森をしばらく走ったところで、ディルは倒れた。肺がちぎれそうなほど息苦しく、体中が燃えるように痛かった。
ディルが震えながら蹲っていると、後ろから駆け寄る足音が聞こえてきた。死の森に人などいるはずがないのに…ディルが後ろを振り向こうとしたのと同時に、肩に激痛が走った。刃物が刺さったそこは、まさに強者による傷を負った箇所であった。さらに刃物は肉をえぐるように奥深くへとねじり込まれ、意識を失うほどの痛みにディルは七転八倒した。
背後から荒い息遣いが聞こえてきた。振り向くと、そこにはジュンタが体中を震わせて立っていた。
「あんたの顔を見て、まさかと思った事を村の人に言ったんだ。そしたら、油断している夜に襲うのがいいって」
肩に刺さる刃を通じて、ジュンタの体の震えが伝わってきた。
「僕の父ちゃんと母ちゃんは、あんたの一族の家来に殺された。僕の大切なものは全部奪われた。僕は、あんたの一族を許さない。父ちゃんや母ちゃんと同じ思いをさせてやりたい」
ディルは痛みに震えながらも静かに起き上がった。そして、血だらけになった手で、刃物を握るジュンタの手を握り、まっすぐ見つめた。
そのディルの顔を見て、ジュンタは硬直した。そして、次第に震えだし、ディルから仰け反ろうとした。しかし、ディルはぎゅっとジュンタの手を握って離さなかった。その間にも、刃物はディルの肩に食い込み、留まることなく血は流れ続けていた。
「や、やめろ!そんな顔するな!僕はあんたを殺すんだ!」
「ああ、殺してくれ」
消え入るような声だった。ディルの頬は濡れていた。濡らしているのは血だけではなかった。
「死んで償っても済まないようなことを俺の一族はしてきた。俺はもうどうしたらいいか分からない。生きていたらいけないというなら、今ここで殺してくれ」
ジュンタは激しく首を振った。
「やっぱりできない…王族のくせに、なんであんたはそんなに優しいんだよ!」
ジュンタはディルの肩から刃を抜いた。するとそこから血が噴き出てきた。ディルは蝋のような顔色で、その場に震えながら蹲った。ディルの意識は遠のいていった。ジュンタは涙をこぼしながら、慌てて自分の服の裾を破き、ディルの肩にきつく巻き付けた。
「死んじゃだめだ!」
ジュンタは辺りを見渡した。微かだが、どこかから食べ物の匂いが漂ってきている気がした。ジュンタは鼻が効くことが自慢だった。それに、森には踏みならされた跡があり、人が定期的に通っているような形跡があった。もしかしたら、この先に人里があるかもしれない…それは強者の植民地の可能性もあったが、ジュンタは自分の命の恩人のために、賭けに出ることにした。
「今助けを呼んでくる。少しだけここで待ってて!」
ジュンタは駆けだした。
一人残されたディルは、遠のいていく意識のなかで、生気を失った目でジュンタの手を握っていた自分の手を見つめていた。俺は、生きていてはいけない人間なのか…。
「お前なんて、生まれてこない方がよかったんだよ」
突然場面が変わり、ディルは城にいた。生まれてからずっと閉じ込められてきた、物置きのような狭い部屋の中だった。何もない部屋だったが、城の書庫と繋がっていたことが、ディルにとって唯一の救いであった。
目の前には、ディルを見下ろし、倒れてもまだなおディルを思い切り蹴り続けているカルディスがいた。異母弟のカルディスが、今のジュンタと同じくらいの年のときのことだった。
「この一族の恥さらしが!」
カルディスは手のひらから赤黒い光を放った。ディルは、腹が焼けるように熱くなっていく痛みに震え、悶えていた。カルディスは、自分の魔力の実験台として度々ディルを痛めつけていた。
「そうだ、これ見てみろよ」
ディルを痛めつけるのに飽きたのか、カルディスはおもむろに箱を取り出し、その蓋を開いた。そのとたん、悪臭が漂ってきた。箱の中には、内臓を切り開かれ、体をばらばらにされた無残な猫の死体が入っていた。ディルは吐き気を催し、思わず顔を背けた。
「人を殺すことは簡単なんだがな、例えば国内で裏切り者が出て、殺さないで拷問するときに、体の中身のイメージが鮮明な方が苦しめる魔力を使いやすいんだ。どうしても実物が見たくてさ、でもお前は殺しちゃだめだって言われてるから、仕方なく猫でさ」
「この猫は、お前の母親がかわいがっていたやつじゃないのか」
ディルはカルディスを睨みつけた。カルディスは大声で笑った。
「そうだったっけ?こいつがたまたま俺の近くにいたからさ。いいんだよ、どうせお前が憂さ晴らしに殺したことにしておくから。またお前は懲罰を受けることになるな。楽しみにしておけ」
カルディスはそのまま笑いながら部屋を出ていった。この男が王になったら、きっとこの国は終わる…まだ痛み続ける腹を抱えながら、ディルは喘いでいた。俺は、死ぬまでこんな苦しみに耐え続けなければならないのか…。
「ディルが苦しいと、私も苦しいの」
突然、ディルの脳裏に声が聞こえてきた。ああ、また昔のことを思い出してしまった…ディルは夢を見ていたことに気付いた。そうだ…今はこんな俺を必要としてくれる人がいる。リンが傍にいれば、俺は生きていける…。
ディルが目を覚ますと、そこはエーリアの納屋の中だった。暑くもないのに、ディルは寝汗をかいていた。隣で凜が静かな寝息を立てていた。ディルはその顔をじっと見つめた。
それにしても、よりによってカルディスの夢を見るなんて、酷く気分が悪い…ディルは起き上がり、外に出た。外はまだ暗かった。ふと、夜の静寂の中、人の足音が遠くから聞こえてきた。ディルはエーリアの小屋の敷地を出て、暗がりのなか目を凝らした。
三人の男とみられる人間が、一軒ずつ小屋を覗きまわっていた。彼らは、エーリアの小屋の方に近付いてきていた。三人の男のうちの一人の姿を見たとき、ディルの心臓は止まりかけた。その体つきや歩き方は、嫌でもディルの脳にこびりついているから間違えようがなかった。彼は、カルディスだった。
俺を探しに来たのか…ディルは急いで納屋に戻った。そして、凛とジュンタを思い切り揺さぶった。
「リン、ジュンタ、起きろ!今すぐ裏口から逃げろ!」
「急にどうしたの?」凜とジュンタは目をこすりながら起き上がった。
「今そこに俺の追っ手が来ている。俺が奴のところに行って注意をひいてる間に、お前たちは今すぐ裏からバークに乗って、できる限り遠くに逃げろ!」
ディルのただならぬ様子に、凜はようやく事の深刻さに気付いた。
「それなら、今すぐ三人で一緒に逃げようよ。ディルが囮になったら、そのまま捕まっちゃうじゃない!」
「今逃げたら、奴は必ず俺たちに気付く。そしたら奴は絶対に逃さない。そしてお前たちを必ず殺す。俺が奴の注意をひかないとだめだ。時間がない、早く行け!」
ディルは立ち上がって動かない凜を、無理やり裏口の扉の方に押した。
「いや!だったらディルだけ逃げて!」
凜は涙を浮かべながら、自分の両肩をつかむディルの手をつかみ、懸命に首を振った。
「リン!いい加減にしろ!」
突然ディルは凜を抱き締めた。凜はそのまま動くことができなかった。ディルの腕の中で、凜はディルの体の震えを感じていた。
「俺は、自分の命に代えてもリンを守りたいんだ。だから頼む…俺のことは忘れて、自分が生き延びることだけ考えろ」
ディルは裏口の扉を開け、凜を外に突き放した。
「必ず迎えに行くから!」
凜は叫んだ。ディルは微笑み、納屋の外に出て行った。
「リン、急ごう。ディルの気持ちを無駄にしちゃだめだ」
ジュンタはすでにペペに跨っていた。凜は涙をぬぐい、ペペに飛び乗った。それと同時に、ペペは裏の竹やぶの中を突き進んでいった。
ディルはカルディスに近付いていった。カルディスは、エーリアの小屋の前まで来ていた。ディルの姿に気付くと、はっと息を呑んだ。そして、顔中に不敵な笑みを広げた。
「これは驚いた。帰ってきてくれたんですね、兄さん」
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