第4話「別れ」
夕方、森から騒々しい声が聞こえてきた。いつものように、男たちが狩りから帰ってきたのだ。しかし、バークにまたがった長は、誰も想像していなかったものを背負っていた。その背中には、ぐったりとした男が背負われていたのだ。
「森の中で、死にかけている弱者を見つけた。手当ての準備をしてくれ!」
村中が、慌しく動き始めた。
弱者はトールの家に運ばれ、布団の上に寝かされた。年齢は、三十代後半くらいであろうか。その顔は苦痛で歪み、全身土と血にまみれていた。着ている服は、村の人のものと比べるとはるかに粗末で、ところどころ擦り切れて破れていた。汗をびっしょりかきながら、ぜいぜいと音を漏らして喘いでいた。
その姿を見た凛が最も気になったのは、左腿から赤黒い煙が、シューという嫌な音を立てて立ち昇っていたことであった。それは少しずつ、男の体を黒く焦がしていた。
家の中には、凛、トール、スターター、ジュンタ、長、そして、村でも特に怪我の手当てに手馴れた女性が数人いた。治療を施した後、トールが煎じた薬をゆっくり男に飲ませた。飲んだとたん男は激しく咳込んだが、しばらくすると呼吸はだいぶ落ち着いた。男はようやく目を開き、周囲を見回した。そして、口を開きかけたとき、トールが先に口を開いた。
「無理をしてはいかん。ここには弱者しかいない。安心して、落ち着いて話しなさい」
しばらくして、男はようやく、なんとか聞き取れるほどの声を発した。
「私は、エルマドワ国…第一〇七村の…タスモ…」
「エルマドワ国は、今この世界で最も勢力を振るっているが、あなたがこのような残酷な傷を負うほど酷い戦場じゃったのか。いったい、あの国は今どこと戦っておるのじゃ」
トールが優しく問うた。そして、視線をタスモの左腿に落とした。煙はどんどん広がっていき、タスモの体を蝕み続けていた。もはや左足は全部焦げ、炭のようになっていた。これを見た凛は、骨の髄から震え上がるのを感じた。タスモは、首を横に振った。
「あなた方に、どうしても、伝えたいことがある」
煙は、タスモの腰にまで手を伸ばしていた。
「私が戦った…相手は、敵国では…ありません。今…エルマドワ国では、内乱が起きています…最近…恐ろしい…ものが、できて…しまったのです。それは、新王軍…その頭が、何者かは…分かりませんが…エルマドワ王家に…対する、反乱軍です」
「なんだって!」
凛とトールを除く全員が、声を上げた。
「エルマドワ家は、強者が生まれる何千年も前から続く王家だぞ。国民にとっては、神のような存在じゃないか!」
長が半狂乱になって叫んだ。タスモは、静かに話を続けた。
「新王軍は…巨大です。そして…強い。内乱は…おそらくこれから、他国をも巻き込み、ますます…酷くなって…いく」
タスモは突然、悲痛な叫び声を上げ、もがき始めた。タスモはもはや胸まで炭と化していた。もがきながらも、タスモはまだ何かを言おうとしていた。
「大丈夫じゃ。あなたの言いたいことは全て伝わった。もう、何も言わなくてよい。ゆっくり眠るんじゃ…」
トールの言葉を聞くと、不思議とタスモは落ち着いた。そして、もはや顔の半分が炭となってしまったが、炭と化していない方の目から一筋の涙を流して、消えそうな声を発した。
「生き…て…」
次の瞬間、タスモは炭となった。それは、黒くて大きなただの人形のような姿であり、ついさっきまで言葉を発していた人間とはとても思えない、残酷な姿であった。彼を死に追いやった煙は、その命を奪うと同時に消えていた。
口を開く者は誰もいなかった。空気が鉛のように感じられた。凛は、泣くこともできずにただ震えていた。震える肩に、スターターがそっと手を置いた。この温もりに触れ、凛の中で何かが緩んだ。ようやく凛は涙を流した。
タスモは、村の隅にあるお墓に手厚く葬られた。日はどっぷりと暮れ、空には星が姿を現していた。
「さて、とんでもないことになったのう」
食卓の重い沈黙を破ったのは、トールであった。
「エルマドワ国は、呪いを生み出した女王モデアの国であり、その子孫である王族の魔力も極めて強い。それ故、戦争にも強く、この世界で最大の人口と領土をもつ国じゃ。そこで内乱が起きれば、タスモが最期に言っていたように、やがて他国、全世界を巻き込む戦争となるであろう」
「俺さ、やっぱりわからねぇんだ」
ふいに、スターターが口を開いた。
「お前はいつも何も分かっていないじゃろうが」
トールの言葉に、凛とジュンタは思わず吹き出してしまった。スターターは二人を睨みつけた。凛は、きまりの悪そうに下を向き、背筋を伸ばした。
「考えてもみろよ。エルマドワ王家といったら、ずっと神様みたいな存在だし、魔力も最強だ。逆うだなんて、これまで誰も考えもしなかった。そんな王族に反乱を起こすだなんて、俺にはどうしてもわからねぇんだ」
「ほう、お前もまともなことが言えるのか。明日はヒョウが降るかもしれんぞ」
スターターは、ようやくトールをものすごい剣幕で睨んだ。
「しかしなスターター。世の中には、信じられないようなことも起きるんじゃ。ことに、戦争が激しさを増し、世界が大きく乱れている今は、それがしばしば起きるんじゃ」
凛はこのとき、洞窟にいるあの男のことが頭に浮かんだ。
「わしらがやるべきことは、信じられないような事実から目を背けることではなく、それにどう立ち向かうかを考えることじゃ。今、巨大な戦争が起きている。それは、決して他人事ではない。そのうち、わしらもこうして平和に暮らしてはいられなくなるだろう。そのことを、しっかり肝に銘じておくんじゃ」
夜も更けた頃、凛はジュンタがいなくなっていることに気付いた。この頃、ジュンタはよく何も言わずに家を抜け出し、夜更けに戻ってきているようだった。ジュンタのことが心配になったわけではないが、凜もそっと家を抜け出した。そして、西の洞窟の方へ向かった。だが、洞窟の中には入らずに、途方もない草原を眺めて立ち止まり、近くに生えていた木にもたれかかって、崩れるようにしゃがみ込んだ。
凛は夜空を見上げ、目を細めた。星降る夜とは、まさにこれを言うのであろう。数多の流れ星が夜空を滑り落ち、電灯などないのに動くのに不自由しなかった。涼しい夜風が、言葉を失いただ空を見上げる凛の頬を優しく撫でた。
「そういえば、ペペはどこに行っちゃったんだろう」
凛は呟いた。この世界に迷い込んで、久しぶりに元の世界のことを思い出したことに凜は少し驚いた。いったん思い出されると、次々と元の世界の記憶が蘇ってきた。悠子は私と連絡が取れなくなって必死で探しているんじゃないか、哲生は私が帰らないから随分お腹を空かせているんじゃないか、一人でペペを探しに行ってはいないだろうか、お父さんも心配しているに違いない、学校の皆はどうしているだろう、もう受験は終わってしまったのかな…私は今、ここにいるんだよ。誰も見つけられない、こんなところに…。
凛が視線を夜空から地平線へと移し、そのまま顔を伏せたとき、背後で何かが動いた。凛は顔を上げ、後ろを振り向いた。そこには、人影が立っていた。その影は、凛がもたれかかっている木の後ろにある木にもたれかかり、そのまま座り込んだ。凛は暗がりの中で目を凝らし、その影をのぞき込んだ。
「あっ、あなたは…」
それは、洞窟にいたあの男であった。男は、声をかけられても凛には目もくれなかった。
「だめですよ、まだ傷口が完全に閉じてないのに、立って歩いたりなんかしちゃ」
「もう傷は閉じた。自分の体のことは自分が一番分かる」
「あっそうですか」
凛はそっぽを向いて草原を眺めた。だが、しばらくすると凛は振り向いて、もう一度男をちらりとのぞいた。
いまだに凛は、弱者であるということを除いて、男のことを何も知らなかった。凜が置いていった雑炊は、翌日きれいになくなっていた。それから、凛が作ったご飯は全てすぐにきれいになくなった。だが、男はご飯の感想を言うわけでもなく、凛が何度か話しかけても、無愛想な返事しかしなかった。
「今日、誰かが死んだのか」
突然男の方から話しかけてきたので、凛の心臓は少し跳び上がった。
「何でそれを?」
「歌が聞こえてきた。弱者が、永遠の別れを惜しむときにうたう歌だ」
タスモを埋葬するとき、凛には意味の分からない言葉の歌を皆がうたっていたことを思い出した。凛は、今日起きた出来事を全て男に話した。話し終えた後、しばらく沈黙が続いた。
「エルマドワ王族に、反乱軍が現れたのか」
「はい。やがて全世界を巻き込んだ戦争になるだろうと、タスモさんは言っていました」
凛は、深呼吸をした。
「あの、前から聞きたかったんですけど、あなたは一体何者なんですか」
トールは、この男の正体を知ることは危険だと言っていたが、凜は気持ちを抑えることができなかった。
「あんたは、本当に俺が誰か分からないのか」
「分からないから聞いてるんですけど」
暗い中で、男が少し笑ったのが見えた。この人が笑ったの、初めてだ…凛も少し笑った。
「分からないなら、知らない方がいい」
「そっか…」
凛はため息をついて、再び草原を見つめた。
「私、この世界のこと何も知らないんです。言っても信じてもらえないのは分かってます。自分でも時々信じられなくなるくらいだから。だけど、これは事実なんです。私、この世界の人間じゃないんです」
男から何の反応もなかったが、凛は喋り続けた。
「じゃあどこの世界の人間なのかって聞かれても、答えられないんです。最初は、もう何がなんだか分からなかった。だけど、運良く心優しい弱者に助けられ、この村にやってきました。村の人たちは本当によくしてくれて、どこの馬の骨かも分からないような私のことを、凄く大事にしてくれました。だから、この村での生活には何の文句もないんです。
ただ、ついさっき、久し振りに元の世界のことを思い出したんです。家族や友達はどうしているだろう、私がいなくて心配してるんじゃないかって。そしたら、すごく悲しくなって。どうして私がここに迷い込まなければならなかったんだろうって」
話の後半になると、瞳から顔をのぞかせた涙のせいで声が震え出した。話し終えると、ついにそれは溢れ出た。凛は指でぬぐったが、涙は次々と零れ落ちていった。
「あんたの世界には、争いはないのか」
相変わらず冷たい言い方だったが、男の声を聞いてなぜか凜の心は落ち着いた。凜は少し考え込んだ。
「この世界みたいに、強者とか弱者とかはいません。だけど、争いはあります。昔、私が生まれるずっと前に世界大戦があって、それを反省して私の国では戦争をしないことになっています。でも、世界にはいまだに戦争をしている国もあるし、個人の諍いとか、殺人事件とかはどこの国にもあります。むしろ、武器はどんどん進歩して、世界を滅ぼせるような武器も開発されています」
「人間が作り出した武器か…」
「そう、この世界には電気もないんですね。だから、武器という点では、私の世界の方が恐ろしいかもしれない」
「デンキ?」
凜は口をつぐんだ。文系の凜には、電気の仕組みを説明できる知識はなかった。
「その…例えば風の力で風車を回して、そうやって生み出されるエネルギーです。そのエネルギーを使って、色々なものを動かせるんです」
正確でもなく、あまりに拙い説明に、凜は自分で自分に吹き出してしまった。
「そんなに詳しくないんだな、そのデンキとやらに」
こう言って男も少し笑った。凜は顔を赤らめた。だが、今凜はたまらなく楽しく、嬉しかった。
「あの、あなたの名前だけでも聞いちゃだめですか」
「…ディル。覚えなくていい」
ディルは立ち上がった。それにつられて、凛も立ち上がった。
「この夜が明ける頃に、ここを出る」
凛は慌てて首を振った。
「急すぎますよ!もう少し安静にしていた方が…」
「俺には、やらなければならないことがある。しかも、それは急を要するようになってしまった」
「でも、死の森を一人で抜けることはできません。誰か村の人と一緒に…」
「ジュンタが野生のバークを手懐けた。そのバークに乗って、ついでにジュンタを故郷に送り届ける」
「ジュンタも行っちゃうんですか…」
それでジュンタは最近家を抜け出していたのか。水くさいことをするな…凜が少し落ち込んでいると、ディルは凛と向き合い、歩み寄った。
「最初、あんたを殺そうとしたことは、すまないと思っている。それから、あんたのご飯は全部美味しかった」
ディルはぶっきらぼうに言い放った。凛はディルの顔を見上げ、そこから動けずにいた。ただ心臓だけが、ものすごい速さで動き続けていた。
「今まで、ありがとう」
ディルは凜から離れた。そして、洞窟に向かいながら付け加えた。
「もう遅い。早く帰って寝ろ」
「絶対に…生き抜いてください」
ぐっと唇を噛みしめて、凛は洞窟の中に向かって深々と頭を下げた。頭を上げた凛の瞳は濡れており、星明りがそれを照らした。
「リン、ここにいたんだね」
凜が振り返ると、そこにはジュンタがバークを連れて立っていた。
「え、ペペ?」
そのバークを見た瞬間、凜は思わず声を上げた。バークの顔だけが、ペペの生き写しであったのだ。バークはそれもペペのような鳴き声を上げ、凛に近付き頬を舐めた。
「リン、この子知ってるの?」
「ううん、初めて会ったんだけど、顔がね、あまりにも私が飼っていた犬に似ていて…このバークが手懐けた子?というかジュンタ、もう行っちゃうんだ。ろくにお別れもできなかったじゃない」
「ごめんなさい。もっとこの村にいたかったんだけど、あの人が今夜出るって言うから」
ジュンタはペペ似のバークを近くの木に繋いだ。
「リン、これまで本当にありがとう」
ジュンタは頭を下げた。
「ううん。私もジュンタと会えてよかった。さ、家に帰っておばあちゃんたちにも挨拶をしないとね」
凜はジュンタの手を握り、家に向かった。ジュンタは少し顔を赤らめて、凛と一緒に歩き始めた。
しばらくして、ディルは洞窟の入口に人が立っていることに気付いた。あの女か?しかし、人影の背丈が凛よりも随分低いことから、違うと判断した。
「誰だ」
人影は答えた。
「安心せい。わしもお前と同じ弱者じゃ。…ディアロス・エルマドワ」
翌朝、ジュンタはもう家にいなかった。凛は無駄だと分かっていながらも、毎朝そうしていたように、洞窟に向かっていた。
そこはもう誰もいなかった。ムシロが綺麗に畳まれ、傍にディルが食事のときに使っていたお椀が置いてあった。凛が近付くと、お椀にこんもりと何かが盛ってあった。「これは…」お椀を手に取った凛は胸を熱くした。それは、かつてトールに教えてもらった、かなり効能の高い傷薬であった。元になる薬草も希少なうえ、煎じ方にも高い技術を要するため、多く作ることが難しいとされているはずだった。にもかかわらず、ディルはわずかな時間でこれほどの薬草を探し、煎じ、しかもこれからまた危険な目に遭うであろう自分の懐には入れずにここに置いていった。
「ディル…ありがとう」
凛は一人、名前しか知らない男のことを想い肩を震わせた。洞窟の入口で、そっと凛の様子を見ていたトールの存在にも気付かずに。
その日の昼、森の向こうから、突然巨大な爆発音が聞こえてきた。
「ちくしょう、強者の奴らめ。森のすぐ外で戦をしていやがる」
ちょうど昼食を食べ終わり、畑仕事を再開した頃、スターターが森の向こうを睨みつけた。
「俺、ちょっと様子見てくる。死にかけた弱者が森で迷ってるかもしれないから」
スターターは、トールが何かを言いかけているのを無視して、バークにとび乗り村を出ていってしまった。
「おばあちゃん、どうしたの?」
スターターが出てからしばらく経った後も、トールが森の方を心配そうに見つめていたので、思わず凛は声をかけた。
「戦がこんなに近くで行なわれていると、森を飛び出したスターターが強者に見つかってしまうのではないかと思っての」
「ばあちゃん、心配しすぎだよ」
一緒に畑仕事をしていた、まだあどけなさが残る青年のミタが、ケラケラ笑った。
「今まであいつがそんな失敗をやらかしたことがある?あいつはいつもうまくやってる。リンちゃんだって、そうやってここに連れてきたんじゃないか」
ミタは凛に笑いかけた。凛は、少し照れながら頷いた。
「うまくやってくれるといいが…」
トールはゆっくりと畑に水をまき始めた。凜もそれに続いて、再び畑仕事に精を出し始めた。
「やっべぇ、危ないところだった」
こう叫びながら、スターターは思ったよりも早く、一人で戻ってきた。
「あんなに森の近くで戦をしてるとは思わなかったよ。しかも、戦はものすごい規模だった」
「お前まさか、強者に見つかってないだろうな」
ミタが不安げに問いただした。
「いや、森を出ないですぐに引き返したから、きっと大丈夫だ」
「やはり、止めておくべきじゃった」
トールが眉根を寄せて呟いた。
「大丈夫だって、ババア。この通り、俺は無事に戻ってきたんだから」
こうスターターが言った直後であった。森の中から、カサカサと音が聞こえてきた。その瞬間、村の空気が凍りついた。空気が凍りついたのとほぼ時を同じくして、森の中からバークにまたがった一人の男が現れた。
男は、鎧を着て赤いマントを羽織っていた。その腰には、上部がくびれて取っ手のついた、細長い壺がつけられていた。男は鬼のような形相をしていた。そして、その目は赤黒い光を放っていた。
しばらくの間、誰も言葉を発することができずに固まっていた。ただ強者だけが、その顔に不気味な笑みを広げていた。
「虫けらどもが。こんなところに隠れておったのか」
強者は辺りを見渡した。そして、皆が毎日汗を流して耕している畑を見て、そこをバークで踏み潰しながら、甲高い笑い声をたて始めた。
「まさか死の森の奥に虫けらの巣があろうとは、考えもしなかったな。しかも、食糧も豊富にある。早速仲間に報告せねば」
強者は腰の壺を手にし、その口を空に向けると、中から赤黒い光が放たれた。これが、強者の武器である「モダニア」だと凛は思った。
しばらくすると、遠く森の向こうの空に、同じ赤黒い光が放たれたのが見えた。
「最近、新王軍とかいう、強者にして中身は弱者以下の下衆どもが出てきたからな、少しでも戦力と食糧が必要になるわけだ。ここもわが国の領土にしてやろう」
強者はバークから降り、意図的に畑を踏み散らかして歩いた。ふと、男の視線が、トールの横で体をこわばらせている凛に向けられた。
「貴様、弱者のくせに可愛い顔してるな」
にやにやしながら強者は凛に近付いた。凛がよける間もなく、強者の手が凛の顎をつかんだ。
「やめて、早く出て行ってよ!」
凛は声と体を震わせながらも、正面から男の赤黒い目を睨みつけた。その瞬間、一気に男の顔が怒りで歪んだ。
「貴様、死にたいのか」
強者は凛を突き飛ばし、モダニアを向けた。
「やめろ!」
強者がモダニアを向けたのと同時に、ミタが叫びながら、棒切れで強者の腕を殴った。強者の視線は、ゆっくりとミタに移った。
「そ、それに、俺たちの大事な畑を荒らすな!とっととここから出ていけ!」
ミタの声は激しく震えていた。これにつられて、他の村人たちも一緒になって「出てけ!」と叫び始めた。
強者は、無言でモダニアをミタに向け、そこから赤黒い光を放った。ミタが倒れると同時に、その両隣にいた村人にも光を放ち、三人が地面に倒れ折り重なった。その瞬間、村中に悲鳴が響き渡った。
「馬鹿な虫けらども!強者の恐ろしさを思い知れ!」
強者は、四方八方に光を乱射し始めた。村は悲鳴に包まれ、いたるところで次々と人が倒れていった。人々は半狂乱になりながら逃げまどい、倒れた家族にすがり、泣き声を上げていた。平和だった村は、一気に阿鼻叫喚の巷と化した。
初めてこの村に来て喜んで迎えてくれたこと、毎日優しく畑仕事を教えてくれたこと、毎晩囲炉裏を囲んで色んな話を聞かせてくれたこと、狩りの後一緒に食事をしたこと…凛の瞼には、村の人たちの笑顔が浮かんでいた。目の前の光景は、涙で滲んだ。凛はぐっと拳を握り締め、体を震わせた。
「もうやめて!」
凛は突然強者の元へ走り出した。強者は乱射をやめ、無表情で凛に光を放った。その光は、凛の体のど真ん中を貫通した。
「リン!」
スターターが叫んだ。凛は、地面に膝をついた。だが、倒れることはなく、そのまま凛は目を開いた。しばらく呆然としていたが、自分がまだ生きていることに気付き、体の隅々を凝視した。どこにも変わった様子はなかった。
その瞬間、村中が騒然とした。しかし、最も驚いていたのは強者であった。
「何故だ…あんなにまともに当たったのに、傷を負った様子もない」
強者は再び凛に光を放った。それも凛の体を見事に通り抜けたが、凛は何事もなかったかのように、その場に膝をついていた。
「分からん、こんなことがあっていいのか…とりあえず報告だ」
強者はモダニアを空に向かって放った。その直後、強者は突然首から大量の血を吹き出し地面に倒れた。その後ろには、震える体で鍬を手にした、顔面蒼白のスターターが立っていた。体中が、強者の返り血で赤く染められていた。凛とスターターは目を合わせた。そのスターターの目は、ひどく怯えていた。
「リン…俺、許せなかったんだ。やっちまったよ…」
スターターの瞳から、涙が零れ落ちた。そして、その場にへなりと座り込んだ。凛とトールはスターターに駆け寄り、優しくスターターを抱きかかえた。
「これでいいんじゃ。スターター、自分を責めるな」
するとトールは、じっと凛を見据えた。
「リン、時は来た。この呪いを解けるのは、やはりお前しかおらん」
凛とトールに挟まれて、怪訝な表情を浮かべているスターターを横目に、トールは早口で話を続けた。
「前にわしが、呪いを解く方法がないこともないと言ったのを覚えているか。ここがもうじきエルマドワ国に支配されようとしている今、その方法にこの村…否、世界中の弱者の望みをかける時がきたのじゃ」
「ババア、それ何のことだよ」
スターターを無視して、トールは続けた。
「その方法とは、リュウリンの墓場を見つけ出すことじゃ」
「リュウリン」という言葉に、ここにいる誰しもが耳を疑った。
「おばあちゃん、あれは単なるおとぎ話でしょ?」
トールは静かに首を振った。
「わしがまだこの村に来る前、かなり昔のことになるが、東の果てにある砂漠の小国から来た弱者と出会ったことがある。その者によれば、リュウリンは実在し、もともと乾燥地帯で自然環境の厳しい東の方に特に多く降ったのだという。そのため、その地域にはいまだリュウリンが残っており、それがリュウリンの墓場として守られているという。
リュウリンは、人々の願いを叶える力をもつ。そして、わしが長く生きている間に、リュウリンにこの呪いを解く鍵があるという話を聞いたことがあるんじゃ。その話が本当かどうかは分からない。しかし、もしリュウリンが実在するのなら、それに懸けてみる価値は十分にある。否、もはやそれしか可能性がないのじゃ。
うすうす予想はしていたが、やはり異世界の人間であるお前には強者の魔力が全く効かん。それはこの世界において、無敵を意味する。だからリン、お前が東の果てにあるリュウリンの墓場に行き、リュウリンに呪いが解かれるよう願うのじゃ。いいな」
トールはバークを呼び、凛に歩み寄って囁いた。
「実は、あの男もわしと同じことを考えておった。今、リュウリンの墓場に向かっておる。おそらく、旅の途中でお前はあの男と再会することになろう。その時は、全てをあの男に任せるのじゃ」
トールが話しているとき、この世界の地理も知らない自分が東の果てに辿り着くことすらできるはずがなく、まして呪いを解くなど不可能だと凜は思っていた。しかし、凛の脳裏に、星明りの下で最後に見たディルの姿が浮かんだ。あの人がいれば、私は強くなれるかもしれない…凛は目を閉じ、スーッと息を吐いた。
「分かりました。私、行きます」
「だったら、俺も行く」
スターターが、凛とトールの間に割り込んだ。
「リンにたった一人で、そんな危険なことがさせられるか」
「だめじゃ、断じていかん!」
トールは思いもかけず、大声で怒鳴った。
「お前は普通の弱者じゃ。強者の呪いを受ければ死ぬんじゃぞ。それでは、かえってリンの足手まといになる。お前はリンを守ってやるつもりでいるのかもしれないが、お前の体は女であることを忘れるな!」
このトールの言葉に、今までわけも分からずトールと凛の会話を聞いていた村人たちの表情が、一気に凍りついた。スターターは体を震わせ、大きく目を見開いてトールを睨みつけた。そんなスターターの姿を見て、トールは首を振りながら深いため息をついた。
「すまんスターター、言い過ぎた。もとはといえば、わしが受けた呪いを受け継いだせいで、お前の体は十四の誕生日に無理に女になってしまったんじゃな。しかし、いいかスターター。これは遊びではない。現実を受け止めるんじゃ」
スターターはトールから視線をそらし、口元に悲しげな笑いを浮かべた。
「分かってる、くそババア。そんなこと分かってる」
スターターは、何かをふっきるように顔を上げ、凛の方を向いた。そして、凛の手の中に、自分の懐から取り出した小石を握らせた。
「旅に出るなら、方位磁石が必要だろう。これは、常に東を向くようになっている。だから、これが指す方向に進めば、必ずリュウリンの墓場に辿り着ける」
スターターは、大きな瞳でじっと凛を見つめた。
「絶対に生き抜いて、必ずまた会おう。俺…リンが好きだ」
凛が何かを言おうと口を開きかけたとき、森の中からバークに乗った強者が何人か飛び出してきた。
「魔力が効かない女はどこだ?」
強者は言いながらモダニアから光を乱射した。再び村は悲鳴に包まれた。凜はトールとスターターが止めるのを振り切り、強者の元へ駆け寄った。
「それは私よ!だから乱射をやめなさい!」
光が体を貫通しても平然と立ち続けている凜を見て、強者は不敵な笑みを浮かべようやく光を放つのをやめた。二人の強者がバークから降り、凜を押さえつけ両腕を後ろできつく縄で縛りつけた。
「上からの命令だ。貴様を総督のところへ連れて行く」
「だめだ!リンを離せ!」
後ろからスターターの叫び声が聞こえた。凜は慌てて振り返り、「スターター、だめ!」と叫んだ。
「きっと呪いを解いてみせるから、今は無駄死にしないで!」
こう叫んだのを最後に、凜は強者に頭を殴られ、意識を失った。そのままバークに乗せられ、凜は森の中に消えていった。
残されたトールは、泣きじゃくるスターターを抱き締めることしかできなかった。「リンを信じるんじゃ」トールは呪文のように、こう呟き続けていた。
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