第3話「出会い」

 村での生活は、農作業が中心であった。まだ外が暗いうちから叩き起こされ、不慣れな畑仕事を一日中やり、ご飯はいたって質素であった。

 そして夜は電気もなく、囲炉裏の火を囲んで村人たちと話をすることが唯一のこの村の娯楽であった。

 これまでの生活とはかけ離れたここでの暮らしを凜が思っていたよりも苦に感じなかったのは、村人たちが一人ももれなく皆親切で、温かく、明るかったからかもしれなかった。村人たちに囲まれて、凜は少しでも生き永らえるために、ここでの生活に慣れることだけを今は考えるようにしていた。


 弱者の村を守る森は「死の森」と呼ばれ、世界で最も深い森といわれ、迷い込んだら最後、生きては出てこられず、人は誰も近寄らない。これが「死の森」と呼ばれる由縁である。

 凛は一度だけスターターに誘われて、森を抜けたことがあった。それは村の東にある死の森ではなく、西にある森の方であった。その森は、少し歩けばすぐに抜けられるほど小さく、道に迷う余地もなかった。森を抜けると、小さな岩の洞窟があった。その先には、終わりのない大草原が広がっていた。

 スターターは、草原の遥か先を指差した。

「こっちの草原は、とてつもなく広い。この先にどんな世界があるのか、今の俺たちにはまだ分からない。強者が戦争をやめて、もっと人間が賢くなれば、あの先にも行けるようになるのかもしれないな」

 凛は、思わず感心してスターターを見つめた。そして、一緒になって微笑み、頷いた。

「古い話によれば、この草原はもともと砂漠だったみたいだ。だけど、何千年も前に降ったリュウリンによって、大地に生命が蘇ったんだってよ」

「リウ…何だって?」

「リュウリンだよ。今から何千年も前、人間がやっと国みたいなもんをつくり始めた頃、世界的な旱魃が起きて、深刻な食糧難になった。自分の国の食糧を確保するため、森を切り倒して武器をつくり、領土と食糧を奪い合う戦争をし始めた。それによってさらに世界の砂漠化が進み、人類は滅亡の危機にさらされたんだって。

 そんなとき、ある若者が、体を張って戦争を止めようとした。そうすると、不思議なことに、小さな石の粒が空から降ってきたんだって。それは若者の願いを叶え、世界から全ての争いをなくし、砂漠に再び植物を生やして、人類を救ったんだとさ。その石の粒が、リュウリンだ」

 ここまで話すと、スターターは来た道を戻り始めた。凛もそれに続いた。

「その若者は、リュウリンによって世界を救った神の化身といわれた。その子孫が、今のエルマドワ国の王家といわれてる。だから、エルマドワ国では、王家は神の血を引く者として崇められ、絶対的な存在として君臨している」

 二人が森を抜け村に戻ると、「おーい」と手を振りながら長がこちらにやってきた。

「スターター、何しにあんな何もない所へ行ってたんだ。ごめんなリンちゃん、変なところに連れて行っちまって」

「いいじゃないか。リンにリュウリンの伝説を教えてたんだ」

「あんなエルマドワ国のおとぎ話、リンちゃんが知る必要ないだろう」

 スターターのふぐの様なふくれっつらに、凛は吹き出してしまった。そんな凛を、スターターがギロリと睨んだ。

「そんなことよりスターター、明日の狩りの話し合いだ。明日は少し遠くまで行くから、しっかり計画を立てなきゃならん。今すぐ俺の家に来い」

「分かったよ。リン、悪いけど先に行くな」

 スターターは、長と一緒に小走りで長の家に向かっていった。

 この村の男たちは、三日に一度くらいの頻度で、「死の森」を抜けて狩りに出る。昼過ぎに出かけることもあれば、早朝から夜までいないこともある。このときふと、スターターはなぜ毎回男たちに混ざって、紅一点で狩りに出かけているのだろうと凛は疑問に思った。これまで、その疑問すら抱かないほど、スターターが男たちといることが自然だったのである。

 家に帰り、夕食を作っているトールを見たとき、凛はこの疑問をトールぶつけてみようかと、喉の辺りまで言葉が出かかった。しかし、トールにスターターそっくりの大きな目でギロリと睨まれると、何故かその言葉はお腹の奥まで引っ込んでしまった。スターターはあんな性格だ、気の合う男たちと一緒に狩りをしている方が楽しいのだろう…そんなことを考えながら、凛はトールの手伝いを始めた。


 翌朝、凛が目を覚ますと、もうスターターの姿はなかった。凛はいつものように、寝間着から制服に着替え、村外れの井戸まで水を汲みに外に出た。辺りはまだ薄暗かった。

 外では、早くもトールが畑をいじっていた。年のせいか、トールは異様に早起きである。

 いつもと変わらぬこの光景は、その日の夕暮れ時に起きた出来事によって一変してしまうのであるが、このとき凜はまだそんな事を知る由もなく、腕まくりをして農作業に取り組み始めた。


 何事もなく一日が終わろうとしていた夕暮れ時、他の人が皆家で夕飯の支度をしている中、凛とトールは畑の草むしりをしていた。畑は、死の森のすぐそばにあった。

 ふいに、死の森の方からカサカサと物音が聞こえてきた。二人は思わず顔をあげた。すると突然、見知らぬ少年が森から飛び出してきたのである。

「あ!人がいる!お願い、助けて!」

 少年は凜とトールを見つけるやいなや、駆け寄ってきていきなり凜の腕をつかんだ。

 少年を見て、凜は哲生を思い出した。少年はちょうど哲生と同じくらいの年齢と思われ、大きめな瞳がまだあどけない、少し茶色っぽい髪はぼさぼさで、粗末な身なりをした華奢な少年だった。凜は少し胸が痛くなった。

 少年は、その瞳に涙を溜めて、凜の腕をひっぱった。

「僕の命の恩人が森の中で死にかけているんだ。お願いだから助けて欲しい」

 凜とトールは顔を見合わせた。

「ここは弱者しかいない弱者の村じゃ。弱者が互いに助け合って生きておる。わしは家に戻って手当の準備をしよう」

 トールのこの言葉に凜は頷いた。

「その人のところに案内して。私も一緒に行く」

 少年と凜は走り出した。少年に手を引かれ、森の中をしばらく走り続けた。


 どのくらい走っただろう。元陸上部の凜もさすがに息が上がってきた頃、少し先に人の姿が見えた。それは、木の幹にもたれかかり、ぐったりと地べたに座っている男であった。男は全身をすっぽり包む濃紺のマントをはおり、頭にはテンガロウハットのような、黒くてつばの大きな帽子を深くかぶっており、少し長めの黒髪がつばの下からのぞいていた。その腰には刀が携えられていた。

「この人を助けて欲しいんだ」

 凜は男に近付きその顔をのぞき込んだ。男は意識を失っており、顔色は蝋のようであった。それにもかかわらず、その男の顔は、どうしようもないほど美しかった。美しいと思えるような状況でないにもかかわらず、そう思わざるを得ないほど、男の顔は整っていた。目を覚ましたこの人の顔を見てみたい…凜は思わずそんな衝動に駆られた。

 そんな凜をよそに、少年は男の口元に手を当てた。

「大丈夫だ、まだ生きてる」

 凜は我に返り、男の腕を自分の首に回した。

「一緒にこの人を村まで運ぼう」

 少年は泣きそうな顔で頷き、二人は男を背負って村に向かった。男は長身であったが、華奢であったため思いのほか軽く、足を地面に引きずりながらではあるが、何とか森を抜け、トールの家まで運び込んだ。凜と少年は、トールが用意してくれていた布団の上に男を寝かせた。

「この者は…」

 男の顔を見るなり、トールはただでさえ大きな目をさらに見開き、絶句した。少年は、トールを見て必死に首を振った。

「そうなんだ。だけど、この人は間違いなく弱者なんだ。そして、戦で捨てられた僕を助けてくれて、故郷まで送り届けてくれた、僕の命の恩人なんだ。それなのに、こんな目にあわせてしまって…お願い、僕を信じて。この人は本当に優しい人なんだ!」

 少年は涙を流して叫んだ。少年はその名をジュンタといい、死の森の近くにあるエルマドワ国領土の弱者だという。そこでこの男は大怪我を負ったそうだ。

 トールはしばらく考え込んでいた。凜はトールがなぜ早く手当てをしないのかただ不思議だった。

「分かった。お前を信じよう。ただ、この男のことが他の者に知られるとまずい。じきに村の男たちも帰ってくる。この男は、そうじゃな…西の草原にある洞窟の中で手当てしよう。あそこなら近付く者はいまい。リン、悪いが洞窟までこの男を一緒に運んでくれぬか」

 凜はわけが分からなかったが、この切迫した空気を察し、何も聞かずにトールの言うことに従った。


 洞窟の中にムシロを敷き、その上に男を寝かせた。トールは慣れた手つきで男の服を脱がし、傷の手当てを始めた。ジュンタも手当ての心得があるようで、トールと一緒に薬を塗ったり、包帯を巻いたりしていた。

「ひどい傷じゃな。これは何人かの人間にやられたか。それに、古い傷跡や火傷の跡もだいぶある…」

 トールが独り言のように呟くと、ジュンタは泣き出しそうな顔で、ぎゅっと唇を噛みしめていた。

 

 一通り手当てが済んだようで、トールは男に服を着せた。このまま安静に寝かせていれば、そのうち意識を取り戻すだろうとトールは言った。

「本当にありがとう」

 洞窟の中で、ジュンタは凜とトールに頭を下げた。

「ジュンタといったかね。お前もしばらくこの村にいなさい。お前が寝るくらいのスペースはあるじゃろう。少し狭くなるが、リンもそれでいいな」

「それはもちろん。でもあの、おばあちゃん。この人は一体何者なの」

 凜は眠っている男をじっと見つめた。

「わしにもよく分からんのじゃ。いや、男の正体は分かっておる。わしが理解できないのは、この男が弱者であるという事実じゃ。その事実と男の正体は、決して重なってはいけないはずなんじゃ」

 トールはちらっとジュンタを見た。ジュンタは慌てて首を振った。

「僕もそれは全然分からない。だけど、この人は弱者なんだ」

「安心おし。ジュンタを疑っているわけではないよ」

 トールは立ち上がった。凜もつられて立ち上がる。

「この男の正体を知ることは、非常に危険なことじゃ。リンは知らないままの方がいい。この男のことは、決して村の者に言ってはならぬ。もちろん、スターターにもじゃ」

 凛は頷いた。脳裏に男の美しい顔が浮かんだ。トールは少し笑った。

「お前は賢い子じゃ」

 

 三人が村に戻ると、ちょうど男たちが帰ってきたところだった。トールは、皆にジュンタのことを話した。「ただでさえ俺の家は狭いんだ。寝相が悪かったら承知しねぇぞ」スターターは軽口を叩きながらも、今日収穫したばかりの肉をジュンタに嬉しそうに食べさせていた。出会ってから初めて見たジュンタの笑顔に、凛も自然と笑みがこぼれた。


 何事もなく数日が過ぎた。凛は毎日洞窟に行って、トールやジュンタから教わったばかりの方法で、男の看病をしていた。看病をしているうちに、男の傷は目に見えて良くなっていった。だが、時々男は汗をびっしょりかいて、ひどくうなされていることがあった。しばらくして、男が再び静かに眠り始めると、凛は男の汗をきれいに拭き、その寝顔をじっと見つめてから、洞窟を後にするのであった。

 

 今晩も、凛はこっそり家を出て、洞窟に向かった。「リン、僕も行く」後からジュンタがついてきたので、一緒に洞窟に入った。

 男は静かに眠っていた。安堵のため息を漏らしてから、凛は男の体を拭き、包帯を取り替え始めた。それが終わると、男の顔をじっと見つめた。

「リンは、どうしてこんなに一生懸命この人の面倒を見てるの」

 ジュンタは凜を見上げた。どうしてと改めて聞かれると…凜は少し考えた。

「だって、この人はジュンタの命の恩人なんでしょ。だったら恩返ししないとなぁって思って。私ね、ジュンタくらいの年の弟がいるの。だからかな、ジュンタと初めて会ったときから、どうしてもジュンタを他人と思えなくて」

 ジュンタは少し顔を赤らめた。

「僕も、リンみたいなお姉ちゃんが欲しかったな…」

「あら、そう言ってくれて嬉しい」

 凜はにこっと微笑んだ。二人が立ち去ろうとすると、突然男がうなされ始めた。拭いたばかりの体は、あっという間に汗にまみれた。男の右手が宙を掴んでは離し、離しては掴んでいた。凛は、思わず宙を掴む男の右手を両手で握り締めた。

「大丈夫…」

 凛が声をかけたそのとき、急に男の目が開いた。男はしばらくの間、まだ荒い呼吸で、凛の存在にさえ気付かずに、呆然と天井を見上げていた。

 男が目を開いたとき、凛の心臓はドクンと波打った。それは、突然男が目を覚ました驚きからだけではなかった。男の目は切れ長で、深く美しい青色だった。こんなに綺麗な目は見たことがない…思わず吸い込まれそうな不思議な魅力がその目にはあった。

「良かった。目が覚めたみたいですね」

 その声を聞いて、男は初めて凛の存在に気付いた。

「ここは、弱者の村です。ここには、あなたに害を加えるような人はいません」

凛は笑った。だが、男は凜を睨みつけ、自分の体に巻かれた真新しい包帯に目をやり、周囲を見渡した。そして、凛の傍にいたジュンタに視線が釘付けになった。

「お前…どうして…」

 ジュンタの体がわずかに震えていた。ジュンタが何か話したがっているが、凛に気を遣って躊躇しているように凜には感じられた。

「あ、そしたら私、何か食べるもの持ってきます」

 凜は慌てて洞窟を出た。家に帰り、少ない食糧の中からできる限り栄養のある食材を組み合わせ、手早く雑炊を作った。もちろん、味見も欠かさなかった。納得のいく味に仕上がると、それを持って再び洞窟に向かった。ちょうど、ジュンタが洞窟から出てくるところだった。

「もう話は済んだの?」

 ジュンタは頷いた。その顔は、どこか悲しそうであった。凜はジュンタに何も聞こうとせず、そっと頭を撫でた。

「これ、食べてください。少しでも栄養とってくださいね」

 凜は男の枕元に雑炊をそっと置いた。男は壁の方を見たまま、何も言わなかった。

「お腹空いてなくても、食べた方がいいですよ」

 しばらくしても何も言わない男に、凜は「また来ますね」と言って立ち上がろうとした。

「それは食べない。今度は毒で俺を殺すつもりか」

 凜は耳を疑った。次第に、悲しみとも怒りともいえるような負の感情が湧き上がってきた。

「毒なんて!どうしてそんな風に思うんですか」

 男はその美しい目で、凜を睨みつけた。

「俺は誰も信じない」

 男は、脇に置いてあった刀をとって起き上がった。

「まだ動いちゃだめ!傷口がふさがっていないの」

 凛は肩をつかみ、立ち上がろうとする男を押さえた。次の瞬間、男は刀を引き抜き、凛の首筋に当てた。

「どけ。邪魔をすると斬り殺すぞ」

 首筋に感じる冷たい感触に、鳥肌が凛の全身を駆け抜けた。凛はごくりと唾を飲み込み、体を震わせながらも、男の目をまっすぐ見据えた。

「嫌です。あなたは私を殺さないって、信じているから」

「なぜ俺を信じる。お前は俺の何を知っている」

「あなたのことなんて何も知りません。でも、ジュンタがあなたのことを命の恩人だから助けたいって言って、泣きながらこの村まで助けを求めにきたんです。それって、余程のことだと思うんです。そんな人が人を殺すなんて思えません。そもそも、人を信じるのに理由なんてありません。同じ人間どうしじゃない、助けて当然です」

「その同じ人間どうしが、今憎み合い、殺しあっている。お前の言葉は、世の中を何も知らない奴の綺麗ごとにすぎない」

凛は、ぐっと唇を噛みしめた。なぜか、目から涙が溢れてきた。

「えぇ、知りません。この世界のことなんて、何にも知りません!」

 男は変わらず凜を睨みつけていたが、その涙に少し戸惑いを示した。

「でも、理由もなく人を助けたいと思うことだってあるんです。この村の人たちがそうやって生きているのを、私はこの目で見てるんです。実際に、私もこの村の人たちに助けられました。だから私も、そうやって生きたいんです。この気持ちは綺麗ごとなんかじゃなくて、ここに確かにあるんです」

 男はしばらく凜の涙を見つめていた。そして、ゆっくりと刀を離した。すると、急に顔を歪ませ腹をかかえだした。包帯に、赤い染みがみるみる広がり始めた。

「大丈夫、今薬を塗るから」

 凛は男を寝かせ、丁寧に包帯をとり、覚えたての治療を施した。その間、男はじっと宙を見つめていた。

「これで大丈夫。傷がふさがるまでは、安静にしてて下さい。あとこれ」

 凜は枕元の雑炊を手に取り、自ら一口食べた。

「毒なんか入ってません。ちょっと冷めちゃったけど、美味しいですよ」

 凜は再び雑炊を枕元に置いた。男はそんな凜を見上げた。

「また来ます。おやすみなさい」

 凛はゆっくり立ち上がり、洞窟を後にした。出るときに、一度だけ男の方を振り返った。暗がりの中、男が横になっている影だけが見えた。さっきここで会ったとき、ジュンタが悲しそうな顔をしていた理由が分かった気がした。でも…凜は男を憎めなかったし、放っておけなかった。男は、心に分厚い鎧を着ているような感じがした。見た目からすると、凛とそんなに年も変わらないくらい若いのに、なんでそんな鎧を身にまとってしまったのだろう…凜は、男のことが気になり始めた。

 ふと空を見上げると、見事な満月が浮かんでいた。満月の優しい光が、そっと凜を照らした。

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