第2話「弱者の村」

 気が付くと、凛は草原にいた。遥か遠くに、地平線が見えた。草原と平行して、青い空と雲が広がっていた。

「あれ、なんで草原なの?しかも、昼間?」

 空が青いという、ただそれだけの事実に気付いたとき、凛の心臓は激しく波打った。凛は、恐る恐る後ろを振り返った。その光景を見た瞬間、心臓が狂い始めた。今の今までいた雑木林が、なくなっていたのだ。心臓から、熱い波が全身に広がっていく。にもかかわらず、顔からは熱がサーッと引いていった。恐怖。正にこの二字が、今の凛の心境を表すのに最もふさわしい。

 周囲には、木一本見当たらなかった。唯一、草以外のものがあるとすれば、それは凛の足元にあった。雑木林の小さな空き地に佇んでいた、巨大なブルートパーズの原石のような岩であった。だが、ここにある岩には、明らかに人為的に彫られた、バツのような印が大きく刻まれていた。

 凛は慌てて制服のポケットから携帯を取り出した。時間は「18:03」となっており、圏外だった。使い物にならない携帯を再びポケットにしまい、その場にしゃがみ込んで頭を抱えた。必死で冷静さを保ち、様々なことを考え始めた。ここはどこなのか、雑木林はどこにいったのか、なぜ突然昼間になったのか、これは夢なのか…。

 

 タカッタカッ…ふいに、馬の蹄が地面を蹴る音と振動が凛の体に伝わってきた。凛は慌てて立ち上がった。地平線の方から、馬に乗った人影がこちらに近付いてくるではないか。

 それを見た凛の頭には、時代劇のように、弓矢と刀を持った厳つい男が鎧を身にまとい、馬にまたがっている映像が浮かんだ。殺される!凛はとっさにしゃがみ込み、再び頭を抱えた。

 馬に乗った人はどんどんこちらに向かってくる。凛は固く目をつむった。地面を蹴る音はますます大きくなっていく。そして、凛の真横に来るとそれは止まった。

「お前、誰だ」

 頭上から聞こえてきたのは、若い女の声だった。厳つい男に刀を突きつけられているとばかり思っていた凛は、その声に驚きを隠せなかった。恐る恐る目を開け、声の主を見上げた。

 予想もしなかったその光景を理解するのに、少し時間がかかった。そこにいたのは馬ではなく、顔は柴犬、体はサラブレッドでありながら、背中にはらくだの様なこぶが二つあるという、奇妙奇天烈な動物であった。それが、灰色の瞳で凛を興味深げに見下ろしていた。

 それにまたがっていたのは、凛と同い年くらいの、裾の短い着物のような服を着た少女であった。着物の色は、あらゆる蛍光色を無造作に塗ったような色で、決していい趣味とは言えなかった。少女は、赤みがかった長い髪をポニーテールにしていた。肌は浅黒く、肩までまくりあげた袖から、引き締まった二の腕がのぞいていた。茶色くて大きな瞳が印象的な、可愛いらしい少女であった。

「お前、戦に紛れて強者から逃げてきたんだろう。こんなところでふらふらしてると、また戦に巻き込まれて今度こそ死ぬぞ。ここはまだどの国の領土でもないからな、こぞって奪い合いをしているんだ」

 少女は言葉を吐き捨てるように話す。強者?戦?凜は彼女の言葉の意味を何一つ理解できなかったが、言われてみると確かに遠くから地響きが聞こえてきた。同時に、地平線に砂埃とたくさんの黒い影が見えた。

「ほら、言った通りだ。お前、死にたいのか」

 凛は首を振った。

「じゃあ、俺と一緒に来い。早く乗れ」

 凛が戸惑っていると、少女は無理やり凛の手首をつかんだ。

「何もたもたしてんだ。早くしないと、こっちに迫ってくるぞ」

 確かに、遠く地平線にあった黒い塊が、どんどんこちらに近付いて大きくなっていった。次第に、人の叫び声が聞こえてきた。黒い塊の周囲は、なぜか赤黒い光に照らされていた。

 強者とか戦とか、とんでもない場所にきちゃったみたい…凛がそれに見入っていると、少女は舌打ちし、凛の腕をつかみ、強引に自分の後ろに乗せた。奇妙奇天烈な生き物は、ちょうどこぶが背もたれとなり、乗り心地はなかなか良かった。

「どこまでも世話のやける奴だな。いいか、飛ばすからしっかりつかまれ」

 少女は、長い棒で動物の腹を叩いた。すると、耳障りな奇声を発して動物は走り出した。


 周りの景色がどんどん流れてゆく。だが、凛にはその景色を眺めている余裕などなかった。振り落とされないことだけ考えて、必死に少女にしがみついていた。凜の長い黒髪と、紺色のブレザー、青いチェックのスカートがパタパタと風になびいた。


 どのくらい走っただろうか。次第にスピードが落ちてきて、凛に周囲を見渡す余裕が生まれ出した。周囲の景色は、いつの間にか草原から森に変わっていた。動物はどんどん森の中に入っていった。

「よし、少し休もう」

 森の中をいくらか進むと、少女は動物を止めて、そこから降りた。

「バーク、ありがとな」

 少女は、バークというらしい、奇妙な動物の頭をポンと撫でた。

「おい、いつまで乗ってんだ。とっとと降りろ」

「あ、はい」

 凛はゆっくりバークから降りた…というよりも、それは「落ちた」に近かった。バークはその場にしゃがみ、荒い鼻息を立てた。

 森を見渡すと、木の幹は全てくねくねと奇妙に曲がっていた。頭上には黒い鳥や虫が飛び交い、どこからともなく、笑い声のような不気味な鳴き声が聞こえてきた。凛の体に、鳥肌が走った。

「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」

 バークの隣に座った少女が口を開いた。その無邪気な茶色い瞳を見ると、戦とやらから助けようとしてくれたし、少なくとも害を加えるような人ではなさそうだと凜は判断した。どこだかわからないこの場所に迷い込んでから張り詰めていた神経が少しほぐれ、凛は、へなへなとその場に座り込んだ。

「私の名前は、結川凛です」

「ユイカワリン?長いな、リンでいいだろ。よろしくな。俺は、弱者の村のスターター。この森を抜けたところに、弱者しかいない村があるんだ。これまで、強者から逃げてきたたくさんの弱者を受け入れてきた。だから、安心しろ」

 スターターは手を差し伸べた。凛は、やや戸惑いながらもスターターと握手をした。

「お前はどこの国の弱者だ?エルマドワ国か?」

 エルマドワ?そんな国あったかな…少なくとも凜の頭の中の世界地図には、そんな国名はなかった。言葉が通じている時点で、ここは外国ではないとも思えるのだが、日本でないことだけは間違いなかった。

「あの、ごめんなさい。さっきから強者とか弱者とか戦とか、全然話が分からないんです。ちなみに私は日本の東京から来たんですけど」

 スターターが思い切り顔をしかめた。

「ニホン?トウキョウ?そんな国聞いたことないぞ。というかお前、強者と弱者も知らないのか?」

 やっぱり通じないか…。凜は、この場所について考えることを諦めた。夢みたいで信じたくないけれど、どうやらいきなりパラレルワールドのような異世界に迷い込んでしまったと考えるのが、最も腑に落ちる。

「でも確かにお前、これまでに見たことのないヘンテコリンな着物着てるもんな。本当にこの世界のこと何も知らないんだな」

 服のことをあなたに言われたくないと凛は内心思いながら、素直に頷いた。

「この世界のことを教えて欲しいの」

 スターターは、ふぅとため息をつき、ゆっくりと話し始めた。


 この世界には、強者と弱者という二つの人種があるという。強者は、人を呪う魔力を持って生まれてくる。その魔力の強さによっては、たやすく人を殺すこともできる。一方弱者とは、魔力を持たない普通の人間のことである。

 弱者は魔力を持つ強者に逆らうことができず、どの国においても奴隷のように虐げられている。強者は、刀などの武器の代わりに、魔力を溜め、それを自在に使うことのできる「モダニア」という壺のようなものを使い、領土拡大といった私利私欲のために戦争を繰り返している。強者の奴隷と化した弱者は、その捨て駒として利用され、数多の命が奪われているという。

 スターターの村からは強者が生まれなかったようであり、強者にいまだ見つけられていないこの森の奥で、ひっそりと暮らしているようだ。

「人間が不平等に生まれてくる世界…」

 凛は思わず呟いた。この世界に絶望感を覚えたのだ。どんな人間も平等であることが今の世界のあらゆる思想の根本になっているような気がするが、その根本がひっくり返ってしまったように思えた。

「俺たち弱者は、まるで邪魔な虫を潰すように俺たちを殺してしまうあいつらを最も恐れている。だから、弱者は互いに助け合って生きるようになった。いや、そう生きなければならないんだ」

「それで、私のことも助けてくれたんだね。ありがとう」

 凛は頭を下げた。

「や、やめろよ、そんなことされるの慣れてないから」

 凛は顔を赤くして戸惑うスターターを見て、なぜか笑いが込み上げてきた。凛の笑顔を見て、スターターも一緒になって笑った。

「お前、本当に楽しそうに笑うんだな。悪い人間には見えないな。だから、村に連れて行く。よし、行くぞ!」

 スターターは颯爽とバークにとび乗った。

 凜も、スターターが悪い人間には思えなかった。どうせ何も分からない世界、信頼できる人と一緒にいた方が生き残れる可能性も高いし、とにかく今は色んな情報を得て、もとの世界に戻るヒントを得ることが重要だと凜は考えた。

 凛もぎこちなかったが、今度は何とか自力でバークにとび乗った。バークは再び走り出した。凛は気付かなかったが、青い空はいつの間にか赤く染まっていた。


 弱者の村の半分以上は畑で、ところどころに茅葺屋根の、質素な家が建っていた。

「スターターが帰ってきたぞ!」

 凛たちが村に着くと、外で農作業をしていた村人が、農具を持ったままこちらにやってきた。皆スターターのようなヘンテコリンな格好をしていて、誰一人として例外なく土にまみれ、手足や顔は黒くすすけていた。

 村の中でも、比較的大きな家の前まで来ると、スターターはバークから降りた。いつの間にか、凛たちを十人近くの村人が取り囲んでいた。村人は皆、興味深げに凛をのぞき込んでいた。凛はその視線に耐えられず、バークから滑るように降りて、スターターの背中に隠れた。そんな凛の肩に手を置いて、スターターは大声で話し始めた。

「こいつは、東の草原から連れてきた。リンって名前だ。仲間に入れてやってくれないか」

 村人の中から、ちょうど凛の親世代の、日に焼けて背が高く、がっちりとした体格の男が前に出てきた。

「俺はこの村の長だ。ここはこの世界で唯一弱者が平和に暮らせる場所だ。これからよろしくな」

 長は手を差し出してきた。凜もおずおずと手を差し伸べ、握手を交わした。長は、まじまじと凜を見つめた。

「それにしても、随分奇妙だがきれいな格好をしているな」

 この世界の人にとっては、そんなに制服が妙なのか…凜は少し顔をしかめた。

「おやおや、随分騒がしいじゃないか」

 村人たちのなかから、紫色のビロードのローブをはおり、真っ白な髪を一つに結わえた老婆が出てきた。その声はなかなかの声量で、杖をつき腰は曲がっているが、足どりはしっかりしているし、年齢不詳の老婆であった。老婆は、まじまじと凜を見つめた。

「可愛らしいじゃないか」

 老婆は、しわくちゃな顔にさらにしわを加えて、少し不気味に微笑んだ。

「この子はうちで面倒をみよう。リンといったかな、少し話をしようかね。家へおいで」

 老婆は、ゆっくり目の前の家の階段を上っていった。スターターもその後についていった。すると、老婆はキッとスターターを睨みつけた。

「お前はいい。皆と畑仕事でもしておいで」

「なんだよ、俺がいちゃだめなのかよ」

「だめじゃ」

「え、だめなの?」

 凜は思わずスターターを見つめた。スターターは少し頬を赤らめた。それを見て、老婆は大声で笑った。

「そうかそうか、スターターみたいなやつでもいないと心細いかね。わしはただの老いぼれじゃ、お前に害なんぞ加えられんよ。話が済んだらまたスターターのところにいけばいい」

「リンには俺がついてるからな。ババアにいじめられんじゃねぇぞ」

 スターターは、ふてくされて階段を降りていった。凛は思わずスターターを目で追っていたが、老婆に催促されたので、恐る恐る家の中に入っていった。

 

 家の中は、見た目よりも狭かった。二枚の煎餅布団が敷かれっぱなしで、中央に囲炉裏がある以外に、何もなかった。老婆は、囲炉裏の傍に静かに腰を下ろした。

「つっ立ってないで、そこに座りなさい」

 凛は老婆の隣に座った。

「どうかね、この世界はお前の世界とは随分違うじゃろう」

 凛の心臓はドクンと波打った。自分が異世界から来たことは、まだスターターにしか話していないはずだ。凛のこわばった顔を見て、老婆はにやっと笑った。

「そんなに緊張しなさんな。少なくともこの村には、お前に危害を加えるような奴は一人もいない」

「おばあさんは、この世界と私の世界のことを知っているんですか」

老婆はいきなり笑い出した。

「おばあさん?わしゃそんなきれいなもんじゃないわ。わしゃトールじゃ。トールばばあとでもお呼び」

 トールは一息ついて、再び口を開いた。

「しかし、困ったもんじゃ。呪いのせいで、また異世界から可哀相な者が迷い込んできてしまった」

「また?」

「呪いのことは、スターターから聞いたか」

 凛は頷いた。

「お前は、この世界が生まれたときから、人間がこんな風に不平等に生まれていたと思うかね。そんな訳がなかろう。もしそうであれば、この世界は始めから滅びるために生まれてきたようなもんじゃ。こんなに美しい自然や、動物たちをつくる必要なんてなかった」

「それじゃあ、始めは弱者と強者なんて存在しなかった…」

 トールは頷いた。

「しかし、愚かな人間は、領土の拡大と、資源の発掘を求め、様々な国どうしで戦争をしていた。戦争は次第に激しさを増していき、ついに、今からちょうど四百年前じゃ。事が起きてしまったんじゃ、この呪いの始まりが…」

 トールはため息をついた。

「呪いは、エルマドワ国の女王、モデア・エルマドワによって生み出された。彼女は、戦争を止めようと体を張って戦った。しかし、その甲斐むなしく、ついにはクニ・イムロクという、イムロク国の王の手によって命を奪われた。そのときの、彼女の人間の無力さへの激しい怒りが、強者という存在を生んだ。この呪いで、世界は少しずつおかしくなっていった。お前のような者が現れ始めたのも、その頃からだとわしは思っておる」

「この世界に迷い込んだのは、私だけじゃないんですか」

「わしは今まで、二人の異世界の者と出会った。おそらく、二つの世界の間に一方通行の道ができてしまったんじゃろう。お前の世界からこっちの世界には入れるが、その逆はできない。この世界から抜け出すことはできんのじゃ」

「そんな!」

 凛の体は震えだした。そんな凛の様子を知りながらも、トールは淡々と話し続けた。

「追い討ちをかけるようだが、事実を伝えておくと、わしが今まで出会った異世界の人間は、二人とも、しばらくして何の理由もなく死んだ。おそらく、二つの世界では空気が違うのじゃろう。それに体がついていけなくなるんじゃ。この前この村で亡くなったのも、まだ元気な女の子だったんじゃがね」

 この瞬間、凜の脳裏にあることが浮かんだ。

「あの、その女の子の名前って…」

「ユカリという名前じゃ。可愛らしい子じゃったよ」

 凜は血の気が引いていくのが分かった。連日ニュースを騒がせている、行方不明になったゆかりちゃんが、まさかこんなところにいたなんて…。

「ゆかりちゃんが亡くなったのは、どのくらい前なんですか」

「あれは確か、五十年ほど前かな」

 どう考えても「この前」じゃない!凜は心の中で激しく突っ込んだ。それにしても、凜の世界の一カ月が、こっちの世界では五十年になるなんて…浦島太郎のような現実を叩きつけられ、凜の顔は蒼白になった。

「私は、死ぬしかないんですか」

 凛のかすれる声に、トールは不気味な笑みを浮かべた。

「これはあくまでわしの勘じゃがね、お前にならこの呪いが解ける気がするんじゃ。呪いが解ければ、おそらくお前の世界への道が開ける」

「どうしてそんな風に思うんですか。私は受験勉強もろくにできていない、だめな人間です」

「お前はそんな物差しでしか人間を計れないのか。そんなくだらん物差しなんかでなく、わしの勘を信じた方が良いぞ。だてに二百年生きてるわけじゃないからのう」

「二百年!」

 凛は目を見開いた。

「わしとて、好きでこんなに生きているわけではない。強者の呪いを受けたんじゃ。不死身の呪いを」

 トールは話し始めた。まだ若かった頃、この村に来る前に住んでいた国の強者に襲われて、呪いを受けた。命こそ奪われなかったものの、永久に解けることのない不死身の呪いを受けてしまったのだという。

「今は普通に話せるし、歩けもするが、あと少しすれば、体が勝手に腐っていくだろう。そうなるのなら、いっそ殺された方がどんなに楽だっただろうと昔はよく思っていたんじゃ。だが、今となってはもうそんなこと思っちゃいないよ。呪いのおかげで、可愛いひ孫のひ孫である、スターターの顔が見られたからのう」

 よく見ると、トールのぎょろ目は、スターターのくりくりした目と似ていた。

「おいババア、まだかよ!腹減ったよ!」

 噂をすれば、外からスターターの声が聞こえてきた。

「おお、腹をすかせたクソガキが外で喚いておる」

 トールは、凛の助けを借りてゆっくり立ち上がった。

「実はな、呪いを解く方法が皆目見当もつかない訳ではないのじゃ。だが、それはまた時が来たら話そう。まずはこの世界に慣れ、精一杯生きなさい」

 トールは笑った。しわくちゃでどこか優しいその笑顔を見て、ようやく凛の顔から自然と笑みがこぼれた。

「分かりました、おばあちゃん」

 凛の心臓は落ち着きを取り戻し、体の震えも治まった。

「私は、生き抜きます」

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