第1話「雑木林の奥」

 夕日に照らされた生徒たちが、昇降口から外に出ていく。どこかから、金木犀の香りが漂ってきた。そういえば、日もだいぶ短くなったな…そんなことをぼんやり考えながら、凜は一人昇降口に立っていた。

「お待たせ!お弁当箱教室に置いてきちゃってさ」

 ローファーをつっかけながら、悠子が駆け寄ってきた。凜はにこっと笑った。顔にえくぼができる。目は黒目がちで大きく、十七歳という年頃の割には輪郭がすっきりしていた。二人は並んで校門に向かって歩き始めた。


「なんか、凛と一緒に帰るの久しぶりだね。受験生しながらお母さんもやって、凜は本当に偉いわ。尊敬する」

「そんなことないよ。もう二年経つからね、料理も慣れれば大したことないよ。それに、最近はスーパーのお惣菜に頼りっぱなしで」

「今が正念場だもんね、仕方ないよ。それにしてももう秋かぁ…早いなぁ」

 悠子はため息をつきながら空を見上げた。


 凛と悠子は、進学校として有名な都立高校に通っていた。二人は小学校からずっと一緒の幼馴染で、凜が高校一年生の冬に部活を辞めるまで、部活も同じ陸上部であった。

 凜はちょうど二年前に、母を癌で亡くした。凜には十歳年の離れた弟がいる。家族は他に、仕事で毎日帰宅が遅い父しかいないので、小学校低学年の弟の面倒を見れるのは凜だけであった。不慣れな家事をするために、早く帰宅できるよう泣く泣く部活も辞めた。

 そうしてようやく家事にも慣れてきて、時間にゆとりができたと思ったら、今度は受験勉強に時間を割かなければならなくなっていた。


「そういえば、今日全国模試の結果返ってきたよね。凜はA大どうだった?」

 悠子が凜の顔をのぞき込んできた。凜は瞳をそらした。今最も触れられたくない話題を直球で投げてきた悠子に、少し顔を歪めた。

「よくないよ。この時期でD判定だよ。さすがに志望校変えようかな。悠子はどうせA判定だったんでしょ。羨ましい」

 二人は、学部は違えど、第一志望の大学まで同じであった。

「変えちゃうなんてもったいない。凜の法学部は私のとこより偏差値高いから、D判定くらいじゃまだ全然分からないよ。なんか、こんな話してごめん」

 悠子は俯いた。自分が思っていた以上に言い方に棘があったようで、凜は自己嫌悪に陥った。確かに悠子には母親がいて、凜がかつてそうだったように、家に帰れば夕ご飯が勝手に出てきて、家のことを何も気にせず勉強に打ち込める。悠子の方が恵まれた環境にあるかもしれない。だけど、環境を言い訳にして、本当は勉強に打ち込めていないだけの自分の弱さに気付かないほど凜は愚かではなかった。まだどこかで環境を嘆き、悲劇のヒロインぶっている自分の弱さが、凜は心底嫌だった。凜は、深いため息をついた。

「ううん。悠子は何も悪くないよ。早く受験なんて終わればいいね。終わったらさ、絶対ディズニーランド行こうよ」

 交差点にさしかかり、二人は足を止めた。

「それは約束。あーあ、私これから歯医者行って虫歯抜かなきゃいけないの。今は受験よりそっちの方が嫌すぎる」

 悠子はくしゃっと笑って手を振り、右に曲がっていった。凜も笑って悠子に手を振り、左に曲がり家に向かった。


「お姉ちゃん、大変だよ!ペペが逃げちゃった!」

 凜が家に帰るなり、弟の哲生が泣き叫びながら凜に抱きついてきた。哲生をなだめて庭に出てみると、確かに犬小屋に愛犬ペペの姿はなかった。ペペは何年か前に、哲生がどこかから拾ってきた捨て犬だった。柴犬に近い雑種で、確かに落ち着きのない犬ではあった。

「逃げたって、いつもは鎖で繋いでるんだから、哲生が鎖とっちゃったんじゃないの」

「違うよ!僕が帰ってきたら、ペペがすごく吠えてて、庭を走り回ってたから、散歩に行きたいんだと思って、向こうの山の方に散歩に行ったんだ。しばらく歩いてたら、いきなりすごい力で僕の手を振り切って、山の中に走って行っちゃったんだ。しばらくペペの名前を呼んで探したんだけど、全然見つからないんだ」

 哲生がいよいよ大声をあげて庭先で泣き出した。家の前を通る通行人が、怪訝な顔で家をのぞき込んでいた。凜はため息をついてしゃがみ込み、哲生の頭を撫でた。

「分かった。そしたら、お姉ちゃんがちょっと山の方を探してくるから、哲生は家にいなさい」

「やだ!僕も探しにいく!」

 涙をぬぐって走り出そうとする哲生の肩を凜は慌ててつかんだ。

「だめ!哲生は家にいなさい。最近この辺で、ゆかりちゃんっていう哲生と同い年くらいの女の子が一カ月も行方不明でまだ見つからないってニュースやってるでしょ?とにかく最近物騒なんだから、哲生は家で待ってなさい。ペペのことはお姉ちゃんに任せて」

 凜は半ば無理やり哲生を家の中に入れ、制服のまま、携帯と財布と家の鍵だけ持って出かけた。


 哲生の言う「山」とは、少し歩いたところにある小高い雑木林のことであった。ここは東京の郊外であり、まだこのような自然がまま残されていた。一応自然公園のようになっており、人が歩けるような道はあるが、住宅地から離れた場所にあり、訪れる人はあまりおらず、整備もほとんどなされていなかった。こんな場所に小学生が迷い込んだら、それこそ最近ニュースで騒がれている行方不明事件になってしまう。


「あれ、凜、どうしたの?」

 雑木林に向かって走っていると、道でばったり歯医者帰りの悠子に会った。心なしか、下あごが少し腫れていた。

 凜が事情を説明すると、悠子も一緒に探してくれるという。凜は慌てて首を振った。

「そんな、いいって。受験前の貴重な時間を無駄にさせるわけにはいかないよ」

「ううん、いいの。今歯の麻酔がまだ効いてて、物も食べられないし、気になってどうせ勉強も集中できないし。たまには気晴らしも必要だよ」

 悠子はにやっと笑って走り出した。

「悠子、ごめんね。ありがとう」

 そして二人は、雑木林の歩きにくい道を進んでいった。いくらか進むと、ちょうど道がYの字に分かれているところに差しかかった。

「ここからは二手に別れて探してみようか。あんまり奥まで進んで迷っても大変だから、十五分後にまたここに戻ってくるようにしよう。何かあったら、携帯に連絡して」

 そう言うと、悠子は右の方、凜は左の方に進んでいった。


 凜が少し進むと、道は急勾配の上り坂になり、もはや舗装されていない山道になっていた。さすがにこんなところにペペはいないよな…凜が引き返そうとすると、突然、坂の上の方から犬の鳴き声が聞こえてきた。それがペペのものと確信は持てなかったが、凛の足は自然と進んでいた。土に足を滑らせ、木の根に躓きながらも、道なき道を登っていった。


 どのくらい登っただろうか。ようやく視界が開けてくると、そこは小さな空き地になっていた。眼下には、紫色の空に染められ、光が灯り始めた街並みが広がっていた。妙に神秘的に感じられるその景色に、凛は少し息を呑んだ。

 辺りを見渡すと、左の方に、凛の腰ほどの大きさの岩が、草に埋もれてポツンと立っていた。その横には、一人がやっと通れるほどの細い道があった。それは、林の奥へと続いていた。凛は、何気なくその岩に近付いた。

「何これ…」

 よく見ると、岩のてっぺんが欠けており、その内部は、澄んだ水色の宝石のように輝いていた。まるで、巨大なブルートパーズの原石のようだった。美しかったが、こんなところに宝石のようなものがあること自体がひどく不気味に感じられた。凜はその岩から少し後ずさった。

 ふと、道の奥で何かが動いた音がした。凜が道を進むと、だいぶ先の方にひょこっと犬が現れた。

「あ!ペペ!」

 凜は駆け出した。それと同時に、犬もさらに道の奥に走っていったので、凜は慌てて追いかけた。いくらか進んでいくうちに、なぜかだんだん目の前が白んでいった。凛は走りながら目をこすった。しかし、白みは進んでいく一方であった。思わず凛は立ち止まった。それでも、景色はどんどん白んでいき、ペペを捕まえる前に、凛はついに何も見えなくなってしまった。

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