負の起源

「じつは僕も剣道やってたんです。小さいときにちょっとだけ」

「あらそうなの。うん、確かに体つきはしっかりしてるわね。うちの子と同じくらい」

「どんなきっかけで剣道を始めることになったんですか。ちなみに、僕は父親がやってたからだったんですけど、他の人はどうなのかなって。やっぱり親の影響ですか」不信感を抱かれぬよう世間話をする感じで咲馬は自然を装っていった。

「親は両方とも運動音痴よ」と梶尾の母親は自嘲した。「小学生のときだったかなあ。自分もソルジャーのように強くなりたいって急にいい出してね──って色々喋りすぎちゃったわね。ごめんなさい。顔も知らない相手のことなんか聞いても、どうにもならないわよねえ」

「いえいえ、気にしないでください」

「来週は『橙ノ弁当』がおススメよ。よかったら、また寄ってちょうだい」

 店を出て駅に向かって歩きながら、十秋に話を振ってみる。「うまく聞き出せたね」

「よく喋るおばちゃんだった。梶尾のお母さんとは思えないぐらい」

「羽野先輩のいうことは本当だった。あいつの親はソルジャーのことをよく思ってるみたいだし。こうなると、アプローチを変える必要があると思う。梶尾のことを探っても、おそらく何も出てこない。本人に聞いても白を切られるだけだろう。だったら裏切者をあぶり出すほうが早いと思うんだ。もし裏切者がソルジャー部に潜んでいるとして、そいつは絶対に梶尾のことを知ってる」

「咲馬くん……」十秋は急に立ち止まった。「入学式のとき、あたしは推理で梶尾のことを突き止めるっていったでしょ。じつはあたし……その……ううん、何でもない」

「そこまでいわれると気になるな」

「ごめん忘れて。間違ってたら嫌だし。話せる段階になったらちゃんというから」

「もしかして、裏切者に心当たりが?」

「まだ話したくないの」珍しく十秋は目を合わせてくれなかった。

「……わかった。とりあえず今は何も訊かないでおく。僕だって、変にその人のことを意識したくないから。十秋が話したいと思ったときでいいよ」

 やがて第二エリアまで帰還し、波ヶ丘高校の辺りまで戻ってきてから十秋と別れた。

 もうすぐ日が沈む。今日は疲れた。身体ではなく頭が疲れている。精神的に弱っているのかもしれない。真奈がカウンセリングは必要だと唱える意味がわかった気がする。今日も帰りに病院に寄れと強くいわれていた。ようやくそこまで帰ってくると、古くなって点滅している街灯の下──またあの老人がベンチに座ってパンジーの花壇を眺めていた。死んだ魚のような目で。年齢は七十を過ぎているくらいか。

 気味が悪いので通り過ぎて院内に足を踏み入れようとしたとき、「青年」としわがれた声で誰かに呼びかけられた。びくりと身体を震わせ反射的に振り向いた先に、あの老人がいた。彼は杖に体重を預け、ゆっくり立ち上がると、咲馬のほうを見つめてきた。そのとき、ようやく咲馬は気が付いた。老人の目は死んでいるのではなく、光を拒むかのように深い悲しみに満ちているのだと。

 すぐには返事ができなかった。

 老人は右脚を引きずりながら、咲馬のほうに近づいてきた。

「一緒に来てほしいところがある」咲馬の返事を待たずして、老人は一人で勝手に駐車場のほうへと歩き始めた。その歩調は極めて遅いが、どこかへ向かおうとする強い意志を咲馬に感じさせた。仕方がないので後を追う。

「あの、どこに行くつもりなんです?」

 老人は何もいわず、駐車場に停まっている一台のタクシーを指差した。あらかじめ予約していたらしい。二人で後部座席に乗り込むと、「第二エリア、ナグア化学工場」と老人が呟いた。

 運転手が了解の返事をすると、タクシーは動き始めた。ナグア化学ならついこの間行ったばかりだ。なぜそんなところへ。

「驚いているだろう。だがどうしても君と話がしたくてね。ここは老いぼれの願いを一つ叶えてやるつもりで」

「はあ」と曖昧に応えることしか今の咲馬にはできなかった。少なくともこの名も知らぬ老人は危険な人物ではない。それに、咲馬をナグア化学の工場地帯に連れて行こうとする時点で、ソルジャーの事情を少しは知っているかもしれないと思ったのだ。

「おじいさん、お名前は?」

「名乗るほどの者ではない」

「いつも病院のパンジー見てますけど、花が好きなんですか」

「心が安らぐ。紫を見ていると」

「僕もそうです。じつは──」

「ビスソルジャー、だろ?」

「知っているんですか」

「君のお母さんから聞いた話だ。ビスは何かと苦労するだろう。人の心が見えすぎて辛くなったり、周りから避けられたり……科学者たちに動物のような扱いをされたり」

「もしかして、あなたも──」

「ビスではないが、ビスの子どもとは会ったことがある。もう昔のことだ」老人は右脚を軽く擦り、窓の外に目をやった。それきり何も喋らなくなった。

 工場の付近まで来て、タクシーは停まった。工場見学のときに見た厳重なゲートは近くになく、少し歩けば埠頭があり、なかなか景色のいい場所だった。問題は、どうしてこの老人が自分をこの場所に連れてきたのかということなのだが。

 工場のフェンス越しに見えるのは式典ホールとその入口に設置されたタケノコ型のオブジェ。その方向を老人は見つめている。

「この間、ここが襲撃されたようだな。波ヶ丘高校の生徒さんもその場にいたと聞いたのだが」老人はフェンスから少し離れ、咲馬のほうを向いてきた。「両刃の薙刀をもったソルジャーを見なかったかい」

「両刃の薙刀?」

 ふと、咲馬は工場の従業員がいっていたことを思い出した。脱出する際、確かにそんなことを口にしていた気がする。自分は見ていないが目撃情報はあったようだと告げると、老人は何もいわずに再びフェンスの向こう側に目をやった。自分も同じ景色を見ているはずなのに、なぜかこの老人とは全く別の光景を目の当たりにしているような、変な感覚に陥った。

「とめてくれ……」ぼそりと老人はいった。

「えっ?」

「奴を止めてくれ。ビスである君にしかできないことだ。悲劇を終わらさなければならない。次なる被害者を出さぬためにも。今からいうことは、私と君の二人だけの秘密」

 老人が何をいいたいのか咲馬にはわからなかった。だが次の一言を聞き、咲馬は脳天を撃ち抜かれたような衝撃を味わった。

「奴の名は、シェイという。二十一年前にSEAに幽閉されていた《ビス・ソルジャー》だ。今の奴は、ブラックソルジャーを統括する代表だ」

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