街の象徴1/3

「えーっと、なんだ、思い出せないなあ。あーもう何だっけ。右手に見えますのは、ナグア化学工業っていう大きな会社の工場でーす。皆さんが来ている服の原料とかも作ったりしてるそうでーす。あと、スポーツウェアとか、そんな分野にも強いそうでーす」

 若い女性のバスガイドが右手の窓から見える巨大な工場を指差し、口元にマイクを近づけていった。厳重なゲートがあり、何人もの警備員がその前に立っている。単なる工場にしてはちょっと数が多い気もするが。こういうものなのだろうか。

「このバスに乗ったときから思ってたんだけどよ」と通路側に座る竜生がぼやく。

「どうかした?」咲馬は訊いた。

 竜生は神妙な面持ちでこう告げた。

「あのバスガイドさん、超絶タイプだわ。やべえ」

「どうせそんなことだろうと思った」

「あ、お前、紫ノ糸使ったろ」

「使うまでもない。事実、僕はずっと工場のほうを見てたし。竜生が真剣そうに話すとわざとらしく聞こえちゃうからさ。それと、綺麗な人に一秒で惚れるその性格。バスガイドさん、竜生のタイプなんだろうなって最初から思ってたし」

「いつから読心術まで使えるようになったんだか」

 軽口を叩くが、竜生が何気なく自分を気遣ってくれる思いはしっかり受け止めているつもりだ。今だってちょっと元気づけようとしてくれたのだろう。

 へえ、と背後からクラスの女子の声がした。倉田というクラス委員長だ。「あんた、ああいうのがタイプなんだ。胸が大きいから? 今度みんなにいいふらしちゃおっと」

「うわぁ、てめえ聞いてたな!」

「それだけでっかい声で話しといて、どこが秘密話よ」

「由香里ちゃんのいう通り」と彼女の横に座る十秋がいった。「胸が大きくて、とにもかくにも胸の大きいあのバスガイドさんみたいな人がタイプなんだろうけど、もっと中身も見てあげないと女子は近寄ってこないよ」

 すると、場が静まり返った。

「あのう、十秋……」咲馬は後ろを振り向き、呟く。「声が大きい」

「あっ……」と十秋は慌てて口を塞ぐが、時すでに遅し。

 バスガイドの女性は顔を赤くし、自分の胸を両手で持ち上げてみせる。

 そんなフレッシュな光景に男子が釘付けになっていると、ごほんと前の席にいる波瀬が咳払いした。意図的に俯いているが、バスガイドに向かって鮮明な橙ノ糸が出ている。あれも葛藤の糸である。担任の名誉のためにもここは見なかったことに。

「ま、まもなく、工場に到着でーす!」

「田宮さん」と前のほうにいる成績優秀なインテリ眼鏡が不意に手を挙げた。田宮というのはバスガイドの名字だ。

「は、はい。質問とかですか」と彼女はマイクをインテリ眼鏡に渡した。

「色々と工場の知識を話していただき、ありがとうございました」さすがは男子クラス委員長。場をまとめるのが巧い。「質問してもよろしいですか」

「ええ、どうぞ」

「大変わかりやすい説明だったんですけど、wikipediaの情報まんまですよね。僕、前日に見て内容覚えてるんで」

「あちゃー、ばれちゃったか。やっぱし波ヶ丘はレベルが高いなあ」

 クラス中の男女から笑い声が上がる。担任の波瀬もこれには笑いこけている。

 ただ一人、微塵も表情を変えずに窓の外に虚ろな眼差しを向けているのは梶尾だ。学内にいる間は全くといっていいほど彼と関わり合いになることはない。お互いに避けているからだ。戦うのは夜の繁華街で出会ったときのみ。それ以外はいわゆる休戦状態にあるのかもしれない。

「ではみんな、行ってらっしゃーい」

 目的地に着き、バスガイドの田宮に見送られ、全員がぞろぞろとバスから降りていく。咲馬も地面に立つと、前後にも何台かバスが停まっているのを確認した。一年生と、あとは他学年の希望者が参加している。ソルジャー部のメンバーもここに来ているらしい。

 辺り一面の敷地には、似たような施設と倉庫が所狭しと並び、その一方で煙突はまばらに存在している。白煙が吐き出されているのがここからでも鮮明に見えた。

「咲馬くん、あの看板って」十秋が指差した先に、宣伝用と思われる立て看板が設置されており、近づくと次のようなことが書かれていた。

『いよいよ来月、竣工式。研究所長に任命された、蓮岡聡一先生が挨拶に訪れます。』

 蓮岡聡一──聞いたことのある名前だ。思い出すより先に、十秋が続けた。

「確か、うろ覚えだけど、日本のソルジャー研究の第一人者だったような」

「かつてSEAの代表だった人?」咲馬は訊いた。

「うん。前に咲馬くんのお父さんがいってたけど、SEAってかなり闇の深い組織だったんだよね。あたしもネットや専門書で調べてみたけど、ソルジャーに関する取り決めが整備されていなかった当初、ソルジャーの子どもたちを実験台にしたとか」十秋は改めて看板を見つめる。「そんな人が、この街に来るんだね」

「今みたいな時代を待ち望んでたのかもしれない。芸能人の自粛がわかりやすい例だ。炎上したら一旦身を隠すけど、ほとぼりが冷めたら何食わぬ顔で戻ってくる。まるで過去のことなんか忘れて」

 そのとき、「貴堂」と近くで芯のある声がした。振り返らずともわかる。

「羽野先輩。それにみんなも」

「僕はほんとは来たくなかったんだよ」稲葉が乗り気でなさそうにいった。「この工場なんか臭いし」

「化学だからじゃないですか。物を燃やしたときの臭いとか?」咲馬は適当に応える。

「子どもの頃、合成皮革の工場の横をよく歩いてたんだけど、あれは死ぬほど激臭がしたのを覚えてるよ。まあ、あれよりはマシだけどさ」

「広い! 走り回りたい!」と周りを見渡して華麗なステップを繰り広げる夕菜先輩。やっぱり子どもっぽい。

「おっと、佐奈島先輩」そういったのは竜生だ。「今日も相変わらずお美しいです」

「んもう、冗談が上手なんだから」にこやかに、そして上品に返す佐奈島。

 すると、羽野が咲馬のほうに接近してきた。その表情はどこか真剣身を帯びている。

「学校、いや警察のほうから新たな情報が提供された。そのことを伝えておく」

「情報って?」

 咲馬が訊くと羽野は一同の顔を見渡し、こう続けた。

「三月の末頃から付近の地域で続いている人間狩り。被害者のことを徹底的に調べた結果、あることがわかった」羽野は一呼吸置いてから続けた。「被害者の約三割が、ナグア化学の関係者、またはその家族ということらしい」

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