二人の約束

 一人で帰路についていると、色々とマイナスなことを考えてしまう。あの事件以来、咲馬は毎晩のように悪夢に唸らされるようになった。糸を斬られる直前の十秋の悲鳴が今も鼓膜から離れない。そして、不吉に笑う梶尾のことも。

 空を見上げると、どうしていつもこう天気は心の状態と正反対なのだろうと思う。誰かが意図的にやっているのではないか。雲一つない快晴が、これほど虚しいと感じる人は他にいるのだろうか。

 誰も守れない自分なんかが、ビスとして生まれてきてよかったのか。

 そんなことを考えているうちに、家のすぐ近くまで帰ってきた。このまま目の前の横断歩道を渡れば自宅だが、咲馬の足は別のほうを向いた。家に帰る前に寄っておきたい場所があるからだ。

 少し歩いた先の駐車場に、『高岡心療内科』の看板が掲げられており、そこで咲馬の母親の真奈がカウンセラーとして勤務している。人が目の前で殺されてトラウマになり心に傷を負う者が世の中にはいる。それと同じで、糸を斬られた人を間近で見て、それがトラウマになる人もいる。世界中で問題視されていることだ。

 その個人病院はこじんまりとした一階建てで、院長夫妻が診察と経営をこなしている。咲馬が子どものときから存在する病院で、昔からよく世話になっている。駐車場の花壇にはパンジーが植えられており、これも長年の間、維持管理されている。

 紫パンジーが植えられた花壇の近くに木製のベンチがあり、そこに一人の老人が腰掛けて鑑賞していた。杖をもっているところを見ると、どちらかの脚が悪いのだろう。単に休憩しているだけか、それともここの患者なのかはわからない。ふと老人の視線が咲馬に向けられたが、面識がないのでどうにもこうにも話しかけづらい。

 とりあえず老人の横を通り過ぎて病院の中に入る。待合室を一瞥すると、じつに半分ほどが埋まっていた。受付のすぐ横にある扉を軽くノックすると、どうぞ、と中から真奈の声がした。

 ノブを捻り中に入ると、咲馬は思わず驚きの声を上げてしまった。そこには真奈の他に意外な人物がいた。

「な、なんで十秋がここに……」

 患者用の丸椅子に座っていた十秋がくるりと回転し、こちらに体を向けてきた。

「あ、咲馬くん! もう恋愛研のほうは終わったの?」

「今日は色々とサプライズてんこ盛り出血大サービスだな」

「病院に行くっていったじゃん」

「ここの病院だなんて一言も……」

 すると、十秋と向かい合う位置に座る真奈が口を開いた。

「大きな病院で診てもらったら、舞山さんの受けた精神的なダメージはほとんどないらしくて、あとは小さな病院で経過観察をしていればいいっていう話になったのよね」

「そうです」と笑顔になる十秋。

「ここに来てまだ二回しか経ってないけど、まさか咲馬に彼女ができるなんてね、お母さん嬉しくて」

「ちょ、十秋! どんな話吹き込んだんだ」

 ふふっと十秋と真奈が同時に笑う。

「冗談に決まってるじゃない。ごめんね舞山さん、変なこといっちゃって」

「全然いいですよ」

 それは咲馬の彼氏になってもいいという意味か、はたまた真奈が冗談を言ったことに対する許しか。

「咲馬くん」

「うん?」

「顔、赤くなってる」

「うそっ、マジっ……」

 慌てて後ろを向いた咲馬に、またしても十秋がくすりと笑った。

「もう、ほんと冗談通じないんだから。でもそういうところ、あたしは好きだよ」

「二人とも心臓に悪いぞ」咲馬は壁際に置いてある予備の丸椅子を引っ張り出し、十秋の横に並んで座った。太い吐息が漏れた。

「二人とも、本当に仲がいいのね」真奈が微笑ましそうにいった。「これからも咲馬のことお願いね」

「頼まれました」と十秋は軽く礼をする。

 ふと、咲馬はさっき花壇の前で見た老人のことを思い出した。

「さっきそこのベンチに座ってた人がいるんだけど、ここの患者さん?」

「うん……、そうよ」

 なぜか真奈の声のトーンが少し下がった気がした。その微細な変化に気付けたのは咲馬だけのようで、今度は十秋が何食わぬ顔で質問する。

「パンジーが好きなのかな。あたしがここに来る前から、ずっと一人で見てたよ」

「そんなに長くいるんだ」咲馬は素直に驚いた。

 花が好きな人はいくらでもいるが、華やかなガーデンでもないかぎり、さすがに目が飽きてくるのではないか。さらに真奈がこう付け加えた。

「今日だけじゃなくて、昨日も、一昨日も」

「何か思い入れがあるんですか」十秋が訊いた。

「残念だけど、患者さんにはプライバシーがあるの。私から話せるのはここまで」真奈はパソコンのデスクトップ画面にあるフォルダを選択し、目的のファイルを開くと咲馬のほうを向いた。

「さあ、ここからは咲馬のカウンセリング」

「別に大丈夫なんだけどなあ」と強がってみるも、あっさり却下された。

「国の定めた法律だから、ちゃんと報告しないとお母さんが怒られちゃうの」

「それなら仕方ない、か」

 毎度の質問、学校での生活および夢で見る内容など事細かに真奈に伝えた。家ではいえないことでも、なぜかこの場では滑らかにいえてしまえるのが自分でも驚きだ。心の声を十秋にも聞いてほしいという想いの表れなのかもしれない。

 カウンセリングが終了すると、そろそろ家に帰ると十秋がいった。

「真奈さん、今日もありがとうございました。咲馬くんの苦しみが前よりわかった気がします」

「こちらこそ」と真奈は十秋のさらさらな髪を優しく撫でる。「ありがとね」

 十秋が室内から出て咲馬もそれに続こうとしたとき、真奈に呼び止められ、こんなことを伝えられた。「十秋ちゃんから、あなたに向かって緑ノ糸が伸びてる。斬られる前は橙ノ糸だったんでしょ。失った感情が何なのか彼女すごく不安がってるけど、しっかり支えてあげなさい。あと、ほら、お付き合いのほうもしっかり」

 まだからかうのか、という言葉は飲み込み、咲馬はカウンセリング室を後にした。それにしても、どうして紫ノ糸しか視えないヴァイオレットである真奈が緑や橙ノ糸に言及できたのだろう? 誰かソルジャーに教えてもらったのか。

 外に出ると、まだあの老人は花壇に目を落としていた。花が好きなのか、はたまた眺めながら全く別のことを考えているのか、咲馬には知りようがない。

「あたし、頑張るからね」

「十秋……」

「ブラックなんかに負けない。梶尾のことだって絶対許さない。咲馬くんをこんなに傷つけておいて、ただじゃ済ませないんだから」

「ありがとな。僕も負けない。つらいけど、今は歯を食いしばってやり抜きたい。真実を知りたいんだ。自分のため、仲間のため──そして十秋のために」

「咲馬くん……」

 普段は明るく振る舞っている十秋だが、このときだけは目が赤く充血していた。

 何だか見てはいけないような気がし、咲馬は違う場所に目を移した。その視線の先にあの老人がいた。彼はじっと咲馬たちのことを見つめている。仲睦まじい高校生の男女を見守る目、というより、その瞳の奥から発せられるものに咲馬は鳥肌が立った。

 死んでいる。あの老人の目はきっと死んでいる。だが老人から話しかけてくる気配はなかった。

「ソルジャー部にはちゃんと復帰するんだよね。嘘じゃないよね」十秋が念を押すように訊いてくる。

「ああ、必ず戻る。約束する。十秋のおかげで、ちょっとずつ元気出てきたから」

 ん、と十秋が小指を突き出してきた。「約束するときは指切りでしょ」

「そんなことしなくても、僕が十秋との約束を破るわけないだろ。まあ、でも一応」

 咲馬も小指を出し、指切りげんまんを交わした。

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