危険な香り②

「あいつのことは目をつけてます。ただ、糸が出ているところを見たことがなくて、何を考えているのかさっぱり」


「糸が視えない──ってことは?」腰の後ろで手を組み、夕菜は咲馬の顔を覗き込んできた。幼い少女のごとく可憐な仕草。


「夕菜さんは答えを?」

「あたしが伝えたかったのはそれだけ。じゃ、あとは自分の頭で考えてー」自分の頭を指差し、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、そそくさと消えていった。


「糸が視えない……」


 席に戻ると、今度は十秋が寄ってきた。


「さっきの人、夕菜さんだよね。ねえねえ、何話してたの?」


 言葉でいう代わりに、咲馬は前のほうの席を顎で示してみせた。そこには黒神玲央がいる。


「ああ、黒神くんのこと」

「んなっ! こ、声が大きい。勘づかれたら調査できないだろ」


 読書に夢中なせいか、幸いにもこちらを振り向く様子はなかった。


 十秋はペロリと舌を出した後、咲馬の耳元に口を近づけ、「いつも剣術の本読んでるよね」と吹き込んできた。「剣道部だっけ?」


「違うと思う。誰かと関わり合いになるのを避けてそうだし、きっと帰宅部だろ」


「奇妙だよね。ああいうタイプは過去に人と接するのが嫌になる出来事があって、それ以来仲良くなりたくてもできない人が多いはず。だから、クラスで仲良さそうにしてると赤ノ糸が出ると思ったんだけど」


「さっき夕菜先輩からもあいつの糸が見えないのはなぜか? って言われてさ。経験上、感情を持たない奴はヤバい傾向にあるからな」


 うーん、と十秋は宙を見上げた。「糸が見えない。糸が見えない、か。確かにどういうことなんだろう……あっ、そっか、わかった!」


「だから声っ」

「ごめんごめん。閃くとつい興奮しちゃって」


「聞かせてくれないか」咲馬はぐっと十秋に顔を近づける。


 十秋は机に出しっぱなしの数学Aのノートを開き、シャーペンの先端を当てた。


「糸が見えないってことは──」女子らしい丸みのある字が連なっていく。1つ目、と十秋は走り書きした。「単純に何も思ってないパターン。でもこれは入学式での態度を見るかぎり、納得はできないよね」

「僕もそう思うよ。あえて機嫌の悪い振りをしてたとも考えにくいし」


 では2つ目、とノートに記して続けた。「こっちが本命ね。糸が視えないのは咲馬くんだから。いいかえると、他のREDやVISなら見られる」


「待ってくれ。VISの僕に見えない糸なんて──」


 そこまでいったところで、咲馬は気が付いた。背筋を冷たい液体が這うような感覚がした。


「まさか、糸が僕自身に向けられてる?」

「だから夕菜さんがわざわざ教えに来てくれたんじゃないかな」

「だけど1つ引っかかるな。夕菜さんはVISでもREDでもない、VIOLETだ。赤ノ糸について他人に警告するのは不可能だ」

「何となく察しただけかも? もし夕菜さんの勘が鋭くて、咲馬くんに向けられた糸だと予想した。でも本人にはそれに気づく術がないから、教えることにした。それなら筋が通るでしょ?」


「当たってそうだな……」

「どう? 前にあたしの推理力馬鹿にしたけど、ちゃんと役に立つでしょ?」ふふっと十秋は可笑しそうに笑った。


 すると教室の前のほうの扉から、にこやかな表情をした竜生が鼻歌を歌いながら入ってきた。若者の間で流行っている曲だ。


「よお、ちょっと目を離した隙にお前らはすぐいちゃいちゃすんだから、困ったもんだぜ」

「恋愛研の入部届を出してきたんじゃないか?」


 ぎくっと後ろにのけぞる竜生を見るかぎり、どうやら図星らしい。


「まあ、あれよ、ほら……ソルジャー部にばっかいたら、煮詰まっちまうだろ。それはよくねえと思うんだよ。息抜きがあってこそ、人は頑張れるってもんよ。どこかの偉人もそう言ってるって」


「僕はいいんだけどさ」咲馬は応えた。「羽野先輩にばれたら斧で首斬られるかもしれないぞ。ソルジャー部は兼部で務まるような部活じゃない、とかいってさ」


 くすり笑う十秋。「その言い方、ちょっと似てるし。あたしも同じこと考えてた」


「何だよ2人して。そんなに俺を不幸にしたいのか?」

「せいぜい頑張れよ。僕たちは助けてやれないからさ」


 チャイムが鳴り、十秋と竜生が自分の席についた後、咲馬は前のほうからふと視線を感じた。咲馬が気づくのと同時に、黒神が視線を逸らしたような気がする。今までのやり取りを聞かれていたか?


 それ以降、黒神玲央に不審な動きは見られなかった。


 窓の外で厚い雲が上空を覆っており、今にもパラパラと降り出しそうだ。降水確率は50パーセントだったか。無責任な数字だ。


       †


 その日、咲馬は放課後に担任の波瀬から呼び出しを受け、職員室まで出向いていた。宿題は一応、出すには出したはずだが……、どうしてこう職員室へ行くのは気分がそわそわするのだろう、特段悪いことをしたわけではないのに。


 波瀬先生に声を掛けると、どうやら事務作業をしていた最中らしく、スキンヘッドの頭がくるりと回転し、こちらを向いた。ただでさえ強面の教師が今日は頗る緊張の解けない様子を見るに、穏やかではない何かが起きたのかもしれない。


「学校生活はどうだ? 慣れてきたか? なんつーか、居心地の悪さを感じてないか訊きたくてな」

「羨望か畏敬の2択ですよ、昔から。敬遠されるのは慣れてます。ただ、久松や舞山さんが話し相手になってくれるんで、寂しい思いはないです」

「そうか。ならいいんだが」

「それで、用件は何ですか。まさかこんな話をするために僕を呼んだわけじゃないでしょう」


「勘のいいVISは嫌いだぜ」そう言って、波瀬はにやりと笑った。

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