入学前夜①
夜の繁華街は物騒である。
貴堂咲馬の住む地域では、日夜酔っ払いのサラリーマンや柄の悪い男たちが素手で殴り合い、警察も治安を改善すべくパトロールを強化していた。
派手な照明つき居酒屋の前で、拳の殴り合いを繰り広げる中年男性2人。
どうして高校の入学式前夜に街を巡回せねばならないのかと、咲馬はその情けない大人たちを傍観して嘆いた。2人の男から、それぞれ赤ノ糸が伸びて互いに繋がっている。周囲の人間はまるで他人事というように、素早く脇をすり抜けていく。
「咲馬、入学前の最終試練だ。あの2人を止めなさい」父の悦治は自分のスレッドソードを抜く気はないらしく、静かな目をしていった。
「本当は斬りたくないんだけどね。特に無駄な争いのためになんか」
「お前は明日から虹ヶ丘の生徒だ。推薦入試で入った身分として、入学の前日も街を守っていたとなれば、学校側の評価も高くなる」
「それに、本来人の糸はそんな簡単に斬っちゃいけないと思う。だから──」
「甘えだな」悦治の声は低く、よく響いた。「お前は選ばれた存在だ。《Vis:Soldier》は希少だ。ならば、その才を極める義務があるのは当然だ」
「僕は望んでないし認めない。虹ヶ丘に受かったのも、僕に力があるからじゃなくて、生まれ持った才能に目をつけられたからだ」
「裏を返せば、推薦のルールを捻じ曲げてでも、お前の能力を買いたいと思った。わかるだろ、いかに社会がお前の力に期待しているかが」
何もいい返せなかった。どうして自分はこんな能力をもって生まれてきたのか。責務がどうとか、勝手に使命を押し付けないでほしかった。
人の糸は簡単に斬るべきでない。それが咲馬の出した答えだ。たとえ怒りを表す赤ノ糸だったとしても、その怒りは誰かに生き甲斐を与え、時には成長させるのに必要な原動力だと思っている。人がもつ全ての感情には意味があるのだ。
「斬るのか、斬らないのか。決断しなさい」
咲馬は大きく息を吸い、鞘に手を当てた。スレッドソードの冷たい感触が伝わってくる。
「やればいいんでしょ、やれば」
「父さんはここから見ている」
咲馬は裏通りを出て、居酒屋に近づいた。喧嘩は収まるどころかヒートアップしている。
「かいがいはごめんだって、あれほろいっはろーによ! どくしんのおまえとはなあ、こっちはせおふものがちあうんやよ!」
「しらへえ、んなこと!」
互いにネクタイを掴み合っている。呂律が怪しいが、翻訳すると会社に海外転勤を命じられ、2人のうちどちらかが行く羽目になった。そんなところだろう。
気が進まないが、咲馬は間に割って入った。
「なんら、このガキ!」
「喧嘩はやめてもらえませんか、繁華街です。周りの人の目もありますし」
「どいうもこいうもめいへいばっかひややって!」
今にも殴りかかってきそうな勢いだ。
咲馬は抜刀した。そんな光景、見慣れているといわんばかりに人々が足を止めることはなく、また目の前のサラリーマンたちも変わらず威圧的な態度を崩さない。
「これ以上騒ぎを大きくするなら、あなた方の糸を斬ります」
「やっへみろほー、おらおら」落とし穴に嵌った獲物を嘲笑うかのような下品な笑みだった。
ソードを振り上げる──だが、本当に斬ってもいいのか。この人たちにだって事情がある。家族がいるから海外に行きたくない、それは誰かを守るための怒りといえる。一瞬の迷いを突かれ、咲馬は胸ぐらを掴まれた。
「よふも、いっへくれるなあ」ガキのくせに生意気な、とでも訴える目だった。
次の瞬間、男の間に素早く太刀筋の軌道が走った。もちろん咲馬のソードは腰に預けたままである。隣にいたのは、陰から見守っているはずの悦治だった。
溜まった水が抜けるように、男はあっけなく咲馬の襟から手を離した。
男たちは互いに見つめ合うと、今度は仲がよさそうに肩を組んだ。金輪際、彼らが『家族を守るための怒り』をもつことはない。
「なんれおれはち、けんはしとった? まあいいは〜、かへるかあ」
「そっすねえ、さっさとかへりまひょ〜」
愉快そうな様子で、2人は繁華街の奥へと消えていった。
「父さん、どうして……」
「見るに耐えなかったから以外に、説明を求める気か?」
ソルジャーは自分に向けられた糸を直視することができない。だから、悦治が自分に失望し、糸を発しているのかを確認する術はない。
「あの人たちには家庭がある。それを守るための怒りを、僕なんかが勝手に斬っていいはずがない」
「情けが正しいとは限らん。放置していたら、彼らはさらに暴れ、他者に怪我を負わせた可能性もある。細部ではなく、大局を見ろ」悦治はスレッドソードを収め、歩き出した。
その父を咲馬は呼び止めた。
「《Vis:Soldier》の果てに、父さんは何が待ってると思う? 希望か、それとも絶望か」
「凡人には、その頂きにたどり着ける僅かな可能性さえ与えられないことを、決して忘れるな」悦治は振り返ると、「希望を見たいんだろ? 明日から虹ヶ丘のソルジャー部に入って、新たな世界を探してきなさい。その果てにきっと──」
父は自分に期待しているのだ。VIOLET──紫ノ糸を視る才をもつソルジャーがいれば、確信が得られるのだが。
そのとき、背筋が凍りつくような殺気を咲馬は感じた。咄嗟に振り向いたが、そこには誰もいなかった。気のせいだったのか……。
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