プロローグ②

 助けがきたんだ──。


 フォスはすぐに立ち上がり、鳴り響く銃撃音に耳を塞ぎつつ、死物狂いで走ってジープまでたどり着いた。息を切らせる暇もなく、ジープは急発進した。


「よく耐えてくれた。お前は勇気のある子だ」昨夜会った初老の男がフォスの頭を撫でた。「すまない、少々荒い登場だが、こうするより他なかった」


 男はフォスの右頬と手の甲にできた傷を見てそういい、頬を伝う血を人差し指で拭った。ジープが建物のガラスを破壊した際に破片が飛び散ったときに傷を負ったのだろう。自分では気づく余裕がとてもなかった。男の膝の上にはスレッドソード──糸を斬るための特殊な刀が置かれている。


「僕は平気だよ」

「強いな」安心したような表情を浮かべると、男は運転手に話しかけた。「セイゾウ、このまま突破できると思うか」


「俺の腕は信用できねえってか?」二人とも声質がよく似ていた。兄弟かもしれない。


「軽口が叩けるようなら心配無用だな。この子が怯えないように、あまり派手な運転はしないでくれよ」


「この惨状じゃあ、あと少し暴れ回ったところで変わらん。その子には悪いがな」運転手の男はルームミラーで後方を確認する。


 フォスも振り返ると、こちらに発砲してくる研究所員が数多くいた。弾丸がガラスに直撃し、罅が入った。


「伏せろっ!」


 さっきまでの温和な口調とは打って変わり、男は咄嗟にフォスに覆い被さる。直後、何発もの銃弾がジープの車窓を貫通せんとするのが音でわかった。


「大丈夫だ」


 きっと窓の外では多数の研究所員やソルジャー警備員が自分を捕まえるため、あらゆる武器を使用しているのだろう。


 どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。強制的に両親の元を離れ、毎日似たような実験をさせられる。日を増すごとにフォスの精神は衰弱していった。


 ジープが激しく揺れる。無理なハンドリングのせいだ。その度にフォスは小さく悲鳴を上げた。ずっと頬の辺りに手をやっていたせいで、掌にはべったりと血がついていた。


「くそっ! 囲まれた!」


 ジープがぴたりと止まり、フォスが顔を上げると無数の人間が自分たちを囲んでいた。白衣の者は1人もいない。灰色を基調とし、所々に青のアクセントが入った隊服を着ている。その軍隊を思わせる冷酷な視線が、フォスの恐怖を倍増させた。


 彼らからは赤ノ糸が伸びており、フォスの隣にいる男と運転手の男にも向けられている。経験上、今もっとも強く抱いている感情が糸の色に反映されているはずだ。赤ノ糸は攻撃性、2人の命を奪おうとする意思の表れだ。もしかしたら自分にもその糸が向けられているのかもしれない。


 彼らは、赤ノ糸を斬ることを専門とするソルジャー部隊。


「フォス」男が肩を掴んできた。「車を降りる。俺たちの身に何か起きても、お前は森を抜けて逃げるんだ。真っ直ぐ走れば山道に出られる」


 研究所は標高の高い位置に建設されているが、下りられないほどの急勾配ではない。


 男からは有無をいわさぬ威圧感が発せられていた。


「わかった……」フォスは小さく顎を引いた。

「賢い子だ。きっと報われる」


 それぞれが車から降りると、2人の男はフォスを挟んで守るようにして鞘を抜いた。構えられたスレッドソードが、その存在を訴えかけるように刃の銀色をぎらりと強調させる。


 あと少しで研究所の敷地に入るためのゲートにたどり着けたのだが、かなりの敵ソルジャーと味方ソルジャーが応戦しており、近づける状況ではない。


「斬れ!」敵の代表らしき人物が声を張り上げた。


「兄さんはフォスを連れて逃げろ! ここは俺が食い止める」

「お前を置いて、俺が逃げるとでも?」

「いいから、行くんだ!」運転手の男が2人の前で壁のように立ち塞がる。「この子を生きて返す。手段など選ぶ暇はない」

「……わかった。あとは任せる」駆け引きする余裕はないと判断したらしい。


 男に手を引かれ、フォスは森のほうへ駆けていく。背後で運転手の男が格闘する声がした。自分を守るために闘っている男は、その年齢を感じさせないほどに俊敏な動きで次々と相手の赤ノ糸を斬っていく。斬った瞬間、その人物からはフォスを捕えようとする激情が消え、2番目に強く抱いている感情が糸の色に反映される。フォスが監禁生活の中で見出した法則だった。


 斬られたソルジャーは首を傾げ、どうして周りの人間はこんなに騒いでいるのか、というような間抜けな顔をしている。だが追手は続々とフォスたちに迫っている。


「振り返るな! あいつは強い!」


 全力で走っているせいで、うん、とすら返せなかった。


 そのとき、いきなり背後で銃声が響いた。これには思わず男も立ち止まる。振り向くのとほぼ同時に、運転手だった男が腹の辺りを押さえながら地面に倒れた。


「セイゾウ!」


 だが運転手の男は最後の力を振り絞り、首を動かした。横に振り、こっちに来るなという意思を示したのだとフォスは悟った。


 その向こうに、発砲したと思われる白衣の男が拳銃を構えて立っていた。


「降参しやがれ。ったく、派手に邪魔してくれちゃって──『Vis : Code』の過激派どもめ!」実験室でいつもフォスに命令してくる、所長と呼ばれている人物だった。


「行くぞ!」男の決意に満ちた口調だった。


 またしてもフォスは強く手を引かれる。森まであと少し──だったが。


 再び銃声が鳴った。フォスを引く手がすっと離れた。男は腿の辺りを押さえながら、倒れ伏して悶え苦しんでいる。


「逃げるんだ、早く……1人で」

「でも……」

「きっとできる……、走れ。早く」


 フォスは目頭が熱くなるのを感じた。


「どうして、僕なんかのために……」

「ただ救いたいと願うからだ。俺たちの願望さ。ぐっ……!」弾丸を撃ち込まれた脚から大量に流血している。「生きてくれ──」


 フォスは正気に戻ると、運転手の男を制圧したソルジャーたちがこちらに走ってきているのに気が付いた。考えるより先に足が動いていた。


 深い森林に生い茂る背の高い植物やら蜘蛛の巣やら、普段なら触りたくもない自然の産物を進んで払いのけ、道なき道をひたすら突き進む。


 自分のために2人の男が殺されかけている。自分の『糸が見えるという能力』を守るために。涙が頬の切り傷に沁み、ひりっと刺激が走る。


 自分はどれだけの人を不幸にしてきたか。研究所のゲートで応戦していたソルジャーたちも、間違いなく命を落としている。自分の境遇を嘆くことに疲れ、逃げたいというより申し訳ないという気持ちで胸が一杯になった。


 だがこんな感情──殺さなくてはならない。自分のために犠牲になった人をいちいち弔っていては心がもたない。


 逃げ切れたところで、自分には幸せになる未来が待っているのだろうか。

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