人間狩り ──虹ヶ丘高校の糸斬り子

やすんでこ

プロローグ①

 目の前にある二つのベッドに、ひと組の親子が眠らされている。ベッドの間隔は人が歩けるほどに広い。片方は大人の女性で、もう片方は少女。


 静かな空間に、二人の寝息を立てる音だけが浸透していく。


 少女はフォスと同じ小学校低学年くらいの子で、その黒髪は普段から母親の入念な手入れを受けているためか艶光している。


「目の前に何が見えている?」


 フォスの背後にいる、白衣を纏った男が冷徹な声で訊いてきた。わかりきっているだろうに、いつもこの質問をしてくる。


「優しい糸。愛してるんだよ、きっと」

「色は? やはり紫か」

「それに、形状はS撚りで、諸撚り。とても硬くて丈夫で、この人は……」


 フォスは思わず女性から目を背けた。もうこんなことはしたくなかった。


 クリップボードに載せた調査ノートにボールペンで加筆する急かしい音がした。


「状態は?」

「ほつれなく互いに繋がってる。綺麗」

「それは、こういう状態かな」男はしゃがみ、タブレットの画面をフォスに見せてきた。映っているのは綱引きで用いるようなロープの画像で、くねくねと互いに絡まり合っている。


「もっと綺麗だよ」

「よし、よくできました」


 問題はこの後だ。この後にやらされることがフォスは苦痛で仕方なかった。


 男は近くの助手らしき女性から鋏を受け取り、それをフォスに渡した。普段折り紙を切ったりして遊ぶときに使っているものだ。フォスの見解を聞き、適切な鋏を選択したらしい。


「さあ、切ってみようか」


 すぐに吐き気に襲われる。ぶるぶると首を横に振り、助手の女性の脚にすがりついた。だが助手の女はフォスの頭を撫でることもなく、優しい言葉を掛けることもなく、ただひたすらにフォスを見下ろしていた。その目に温かな光など宿っていなかった。


「フォス」またしても男がしゃがむ。安心させようと笑みを浮かべるが、そんな見え透いた偽りの感情で心が安らぐはずもなかった。そっと頭に手を置かれる。「君は天才なんだよ。天才はその能力を発揮し、世界に貢献して命を燃やし尽くす義務がある。君も選ばれた1人なんだ。我儘をいってはいけないよ。この親子みたいに、平凡な者には世界を変えられない。だから、世界を変えるための被検体になることで、天才を引き立てる。それが彼らの仕事。さあ、何でも欲しいものを買ってやるから」


「いらない……帰りたいよ。お父さんとお母さんに会いたい」

「会えるさ。もう少しだけ我慢すれば。君がここで頑張れば、お父さんやお母さんは喜ぶぞ」

「ほんとに?」

「ああ」

「でも僕が糸を切ったら、また変なことになっちゃう。この女の子もいつもみたいに」

「フォスが考える必要はないんだ。ほら、持って」


 口調が荒い。強制的に鋏を持たされる。


 その場にいる誰もが口を開かなかった。フォスが親子を繋ぐ紫ノ糸を切らないかぎり、こうして何も進展がないのだ。時間が止まったかのように。


 フォスは見えない腕から先を操られるように、やがてその糸を鋏で断ち切った。


「フォス、糸の状態を教えてくれ」男が待っていたように口を開いた。


「切ったよ」


 涙が溢れてくる。


「本当に切ったな? 嘘はついてないな」

「ついてない……」親子の顔を見る気になれず、フォスは埃ひとつ落ちていないリノリウムの床に目を落とす。自分を支えているのは、小さくて無力な脚だった。


「えらいぞ、フォス。あとでご褒美だ。さあ、離れて。ニシモト君、被験者を起こしてあげなさい」

「はい」


 フォスと入れ替わりで、ニシモトと呼ばれた男が眠っている親子の肩を揺らし始めた。


「起きてください、終わりましたよ」


 先に目を覚ましたのは少女のほうだった。目を擦りながら、ゆっくりと起き上がる。母親も覚醒し、やがて2人は向き合った。


「お母さん」少女が安堵に満ちた顔になる。

「円華……」


 ベッドに横たわる前とは打って変わり、母親が娘を見つめる視線はどこか醒めているようだった。


 いつものことだ、とフォスは思った。母親のほうの瞳はやや紫がかっていた。


「実験は以上になります。お疲れ様でした」男が母親に説明している。「治験協力費用は三日以内に指定された口座に振り込ませて頂きます。何か問題がございましたら、こちらSEAまで連絡下さい」

「はい……あのう、新薬の治験ってことですけど、注射された様子もないですし、本当に行われたんですか」

「注射は皮膚表面の非常に浅い部分に打ちましたから、痕が残らないのは自然なことです。全然痛くないでしょ」


 男はフォスには決して見せないような笑顔を母親に向けた。


「気分が悪いなど、体調に変化はありませんか」

「ええ、今のところ大丈夫です」

「ではロビーの待合室に戻られて結構です。オオヤマ君、お2人を出口まで案内して差し上げなさい」

「はい、所長」男に鋏を手渡した助手の女が応えた。


 フォスは心臓が破裂しそうなほど緊張し、手先が冷たく震え出した。


 自分は悪魔だ──。


 人間(じんかん)を狩る魔物、この世に存在することを許されない。逃げたい、逃げて家族に会いたい、抱きついて思いきり泣きたい。ガクガクと膝が震える。


 本当に、あの約束は果たされるのだろうか。フォスは昨夜の出来事を思い返していた。


 昨夜、就寝時間をとっくに過ぎた真夜中のことだった。フォスが幽閉されている隔離部屋に『Vis : Code』の組織を名乗る男が職員に扮して入ってきて、「明日、必ずここから出してやる」と話しかけてきた。白髪がいくつか混じっており、若いという感じではなかった。周囲をかなり警戒しているようで、フォスと会話していたのはものの数分のことだったと思う。このことは誰にも話してはいけない、と最後に釘を刺された。


 男が語ったこの研究所から脱出できる条件──「明日、2番目の実験が終わったら親子が部屋を出るのに紛れて、君も全力で部屋を飛び出すんだ。廊下に出たらそのまま真っ直ぐ入口に向かって走りなさい。あとは俺たちが何とかする」


 そして、フォスの眼前ではまさに2番目の実験が行われた直後だった。


「お母さん、帰ろ?」


 繋いでこようとする娘の手を、母親は咄嗟に払いのけた。


「お母さん?」いつも手を繋いでくれるのに、とでもいいたそうな顔だった。


「繋がなくても帰れるでしょ」

「えー、繋ぎたかったのに……」


 無言のまま、母親は一人で実験部屋から出て行こうとする。


「待って、お母さん」


 その背中を追いかける少女。実験室に入ってきたのとは、まるで別の親子を見ている気分になった。幸いにも少女は泣き出す様子はなく、フォスにとってはそれだけでも救いだった。


 だが、動悸は収まらない。


 廊下へと続く──自由が待っている扉がゆっくりと開かれる。この親子は2番目の被験者だった。つまり、今この瞬間に飛び出せばこの施設から逃げられるということだ。


 扉が完全に開く。親子の姿が視界から消える。あと3秒で扉は再び閉じてしまう。


 大きく息を吸い、フォスは駆け出した。


「おい! 待てっ!」男の叫ぶ声がした。「捕まえろ!」


 親子の横を一瞬で通り過ぎ、久しぶりに見る廊下を無我夢中で出口に向かって走った。付近を歩いていた多くの研究員たちがフォスに不審な視線を寄こしてくる。


 正面の階段を駆け下りると、広い受付ロビーに出る。ここにも白衣を纏う人間が山のようにいた。着ている物が同じなら、向けてくる視線も同じだった。


 大きなガラス戸の向こうに、外の駐車場が見えた。


 やっと解放される──。あと10メートル。


 すると、急にロビーが暗くなった。照明がすべて落ち、周りの研究員たちが一斉に騒がしくなる。


「おい、停電かよ。聞いてないぜ」そんな声がどこからともなく耳に入ってくる。


 フォスが気付いたときには、もう遅かった。電子システムで管理されている扉はびくともしない。


「助けてっ! 助けてよっ!」ガラス扉を必死に叩き続ける。


 期待していた助けはどこにいるのか。2番目の親子の実験が終わったら飛び出して逃げろ、そのように告げたあの男はどこにいるのか。本当に助けに来てくれるのか。


「いたぞ!」


 男たちが迫ってきている。その様子を呆然と横から眺めているのは、さっきの2番目の被験者である親子だった。


「もう駄目だ……」


 フォスがその場にへたり込んだとき、バリンとガラスの割れる鋭利な衝撃が辺りの空気を裂き、重々しいエンジン音とともに黒いジープが研究所に突っ込んできた。


「フォス、早く乗るんだ!」


 後部座席を開けてこちらに手招きしたのは、昨夜フォスの部屋を訪れた、あの男だった。

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