泡女

ふぐさんま

第1話 泡女

私は大人の男に弄ばれた

私はあの夏を決して忘れない












「いらっしゃいませー。おタバコはお吸いになられますかぁ?」

「吸いません」

「それでは、こちらの席にどうぞー」


また空振りだ。あの人ではない。いつもの流れだとそろそろ来るはずなんだけど。

レイナは店内の角席を見つめた。いつもは月曜の十五時に来るのにな。店内の壁掛け時計を確認すると十五時三十分だった。

「今日は来ないのかな・・・」

大学の夏休みから始めた喫茶店のアルバイトはとても新鮮だった。初めてのアルバイトで緊張したが、生まれながらの恵まれたルックスと人懐こさで、レイナはすぐに常連客やスタッフのアイドルとなった。


その男は十五時四十五分にやってきた。

「いらっしゃいませ。お煙草はお吸いになられますか」

「はい。吸います」

「それでしたら、こちらにどうぞ」

男は颯爽と喫煙エリアに歩いていき、いつもの角席に座った。

男の残り香を吸い込み、レイナはうっとりした。大人の雄の匂い。真っ黒で軽くウェーブのかかった肩までの髪、広めの額に無精髭、高身長で筋肉質、知的な縁無し眼鏡、イタリア人のような服の着こなし。ああ、なんて素敵なのだ。お仕事は何をしているのだろう。平日のこの時間に私服で来られるということは社長さんかしら。もしくはデザイナー。

三週間前に初めて彼を見たときに一瞬で恋に落ちた。それからは彼が来店する度に日時を記憶した。規則性があったのは月曜の十五時に来店し、二時間ほどパソコンを使用して何かの作業をしているということだ。レイナは今日こそ話し掛けようと決意していた。

「すみません」

この低くダンディーな声はあの人だ。他のスタッフが向かうよりも早く、男のテーブルに駆け寄った。

「ブレンドとミックスサンドをお願いします」

よし、話し掛けるぞ。私は美人。大丈夫。私に話し掛けられて喜ばない男など居ない。

「かしこまりました。あの、今日はいつもより遅かったですね」

男は私の目の奥を見つめた。なんて、素敵な目でしょう。こんなにまつ毛が長かったのね。

「ええ。今日は事務作業が押してしまいまして。昼食もまだなんです」

「まぁ、お忙しいんですね。失礼ですが、どのようなお仕事なんですか?」

「作家をしています」

「えー、凄い!凄いですね!どのような作家さんですか?」

「そうですね、主にミステリーを書いています」

「えー、私、ミステリー小説大好きなんです!本当に失礼ですが、作家名を聞いてもいいですか」

男はレイナの目をジッと見つめながら答えた。

「モリバタコウセイです」

「モリバタ!モリバタコウセイさん!私、モリバタさんの小説いっぱい持ってます!猿タラバガニ合戦なんて五回も読み返しました!」

「はっはっは。ありがとう。あれはとても時間が掛かって書き終えた作品で思い入れも深いです。読んでくれてありがとう」

口元から除いた白い歯が素敵だった。

「もしかして、この店でも生まれた作品があるんですか?」

「たくさんね。この店にはお世話になってます」

素敵素敵素敵!私はモリバタコウセイと話をしている。夢みたい。

「夏目さん、そろそろコーヒーと食事を持ってきていただけますか?また、お話しましょう」

男は言い終えると小さくウィンクをした。

「あ、失礼しました。すぐにお持ちします!」

もうダメ。立ってられない。抱いて。モリバタさん、私の名前を知っていた。きっと私の胸元のネームプレートを見たんだわ。その時に私の自慢のEカップも見たはず。しかも、ウィンクをしてくれた。私に気があるのかもしれない。フラフラとした足取りで厨房に向かって、オーダーを伝えた。厨房からこっそりとモリバタのテーブルを覗いた。モリバタはいつもと同じゴーヤのマークが特徴的の世界的に有名なメーカーのノートパソコンを開いて、モニターを睨んでいた。

凄い凄い凄い。モリバタの作品が生まれる瞬間を目の当たりにしている。私はパセリを手に取りハート型になるように葉を毟った。これを、このパセリを食わせよう。モリバタ。私のハートを食べて。厨房担当が用意したサンドイッチに添えられてあるパセリを厨房の床に捨てて、ハート型のパセリをセットした。サンドイッチとコーヒーをトレイに乗せてモリバタのテーブルに向かった。

「お待たせしました。ブレンドコーヒーとミックスサンドです」

モリバタはニッコリと笑って礼を述べた。

私に何か話し掛けてちょうだい。モリバタさん。

私の念が通じたのかモリバタは口を開いた。

「夏目さん。もし、ご迷惑でなければ夏目さんを私の物語に登場させてもよろしいですか?」

「えっ、えっ、えっ、私ですか!本当ですか!ぜひ!是非お願いします。嬉しいです!」

「ありがとう。実は一目見た時から君のことを書きたいと思っていました。すぐに場面が頭に浮かんできました。こんなことは今までに一度も無かった。きっと良い作品になるでしょう」

言い終えるとモリバタはパセリを手に取り、瞳を閉じてパセリの香りを嗅いでから、舌先でハートの谷間の部分を舐め回してから口に入れた。

「今日のパセリ、いつもより美味しいね」

いつもより一層低い声だった。外は晴天なのに稲妻の雷鳴が聞こえた。こんなことがあっていいのだろうか。あの、モリバタコウセイの作品に私が登場するなんて。しかも、後半の発言も意味深。私はきっと好かれている。倒れそうだ。気をしっかりしなくては。

「絶対に買いますから、作品のタイトルを教えてくれませんか!」

モリバタはレイナの体を上から下まで舐め回すように見た。

「そうだね。まだ構想段階だが、濡れ悶える女子大生、というのはどうかな」

「素敵です!それがいいと思います!」

「はっはっは。じゃあ、それで決定」再び小さくウィンクをした。

「ご、ご、ごゆっくりどうぞ」

もうダメだ。腰が砕けて立っていられない。必死に厨房へ向かった。

しばらくしてからモリバタは会計に立ち上がった。レイナは滑り込むようにレジに立った。

モリバタはヘビ柄の長財布から黒色のクレジットカードで支払いを終えた。

「執筆に専念したいからしばらくは来られないと思う」

「わかってます。作品と・・・モリバタさんを待ってます!」

「モリバタは何も言わずに小さくウィンクをして店を去った。その日は仕事にならなかった。

家に帰っても悶々としていた。ベッドに仰向けになり、瞳を閉じた。モリバタの作品といえば、見事な推理劇も人気の秘訣だったが、必ず描写される濃厚なラブシーンにも密かにファンが多かった。レイナもその一人だった。

濡れ悶える女子大生って、完全に私のことだわ。ということは、ラブシーンに登場する女性って私じゃん!もうダメだ。耐えられない。スマートフォンを手にし、手頃な男を探して電話を掛けた。二時間後、レイナは男と泡風呂に入っていた。

月日は流れ、合コンの帰りに電車に乗っていると、中吊り広告が目に入った。

モリバタコウセイの珠玉の最新作、濡れ悶える女子大生

先ほどまで、しこたまシャンパンを飲み、ズキズキと頭が痛んでいたが、痛みは一瞬で吹き飛んだ。ついに作品が完成したのだ。私はスマートフォンのカメラを起動して広告全体と発売日を撮影した。その後、両親、知人、友人、元カレに自分が登場することを宣伝しまくった。喫茶店のアルバイトに行くと本の発売日とその翌日のシフトを猫撫で声を使い、他の男性スタッフと変わってもらい本を読む期間を作った。そして、ついに発売日が訪れた。

起床後すぐに化粧をして書店に向かった。自動ドアをくぐると店内の一番目立つ場所に特設コーナーが設けられ、モリバタコウセイの最新作がピラミッド型に積み上げられていた。レイナはジャンプをしてピラミッドの頂点にある一冊を掴んだ。表紙は白色のカバーに水滴と血がついたデザインだった。素敵。

濡れ悶える女子大生 モリバタコウセイ

ついに、この日が来た。さっさと支払いを済ませ、全ての信号を無視して家に帰った。どの部屋で読もうかと悩んだが、ベッドで読むことにして、ドアにはしっかりと鍵を掛けた。うつ伏せでベッドインして表紙をめくった。

《この作品を通じて出会った君へ モリバタコウセイ》

これ、アタシ。一文を指してシシシと笑った。胸の高鳴りを抑えて読み始めた。




老人は散歩を日課としていた、しかし、この老人は二度とこの散歩コースを歩くことはなかった。


刑事の奄美翔斗はマンションの寝室で眠っていた。サイドボードの上の携帯電話が、けたたましく鳴った。こんな時間に一体誰だ。奄美は壁掛け時計の時刻を確認した。五時十五分だった。

「はい・・・奄美です」

「悪いな。寝てたか?」

「そりゃ、そうでしょう」

「悪いが、すぐに現場に向かってほしい。変死体が発見された」

「寝起きに変死体の確認ですか。最高ですね。朝飯は食わないで行ったほうが良さそうだ」

「いや、普段控えてるコレステロールたっぷりの飯を食って行け。どうせ、海に吐き出すだろうからな」

「海?現場は海ですか?」

「ああ。海岸で水死体が発見された。すぐに現場に向かってくれ」

「わかりましたよ。行きますよ」

奄美はベッドの下に落ちていたワイシャツとネクタイを拾い、ベッドで寝ていた裸の女の尻を叩いて寝室を出た。リビングのソファーの下に落ちていたスラックスを履き、シャツを羽織り、ネクタイを締めて、マンションを出た。

地下の駐車場に停めてある奄美の愛車のアストンマーチンに乗り込み、エンジンスタートボタンを押した。

ガオオオオオムブルルルルルルルルブロロロロロロロロロロロロオロロッロオロロ、オロロロロロロロ、ヴオオオオオン、ヴオオオオオオン

地下駐車場でアストンマーチンの咆哮が響く。マンションの管理人が箒を持ち、何かを叫びながら奄美の車に近付いてきた。奄美は舌打ちをして車の窓を開けた。

「奄美さーーん!困りますよー。こんな早朝にーーー」

奄美は助手席に置いてあるワルサーPPKを手に取り、管理人の足元の地面を撃った。

「行ってきます」

管理人は微動だにしなかった。しかし、ズボンの股間の部分は徐々に濡れていった。

時速二百キロでハイウェイを飛ばし、二十分と掛からずに現場に到着した。海岸の駐車場には新人刑事の和歌山健が両手にカップのコーヒーを持って奄美を迎えた。

「奄美さん、おはようございます。近くのコンビニのコーヒーですが、どうぞ」

「おう」

奄美はコーヒーを受け取ると、咥えていた煙草を和歌山のコーヒーカップに入れた。

「おい。あの爺さん誰だ」奄美はブルーシートが掛かった砂浜の近くに体育座りで座る老人に視線を向けた。

「あれは、第一発見者のお年寄りです。朝の散歩中に水死体を発見したようです。朝から水死体を発見するなんて気の毒ですよね。また、この前みたいに第一発見者を発砲しないでくださいよ」

「大丈夫だ。今日は既に弾切れだ」

「えー。誰を撃ったんですか・・・」

「おい、シートをめくれ」

和歌山は慎重にシートをめくった。

「ああ。良い香りだ」奄美は深呼吸をした。

「おかしいんじゃないですか!ベテランになると水死体でさえ良い香りに感じるんですか」

「俺はな。退官したらブドウ畑を買って水死体の香りのするワインを作りたいと思ってるんだ」

和歌山は必死で吐き気を抑えた。

「おい、お喋りは終わりにして、さっさとガイシャの情報を」

「被害者は夏目レイナ。職業は売春婦です」


本を閉じる音がした。

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泡女 ふぐさんま @fugusanma

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