エピローグ
第39話
いくつか、それからの話をしておこう。
まず一つ目。久我山に描きあげた漫画を見せた。
「……」
放課後の教室。居残りをした僕と荻原と久我山の三人は一つの席を囲んで向かい合っている。今までは制作会議と銘打って集まっていたが、それも終わりを迎えた今、この会議は何と呼ぶべきなんだろうか。一応まだ制作会議のままで良いだろうか。
それはともかく、久我山は荻原から渡された原稿のコピーに丁寧に目を通していく。僕以外の人間がその漫画を読むのははじめてだから、荻原はすっかり緊張した面持ちで座席に座っていた。
「……ふう」
しばらくすると久我山が顔を上げ、原稿を机に置いた。がたりと荻原の椅子が揺れる。
「あ、あの……」
感想を訊こうとしたが、舌がもつれてうまく声が出せないらしい。そんな荻原に向かって久我山は微笑んで、
「と、とっても面白かったですよ」
と言った。
その瞬間荻原の身体から力が抜けて、背もたれにぐでんと背中から倒れ込む。
「よ、よかったあ」
「はい……。本当に、素敵でした」
久我山の表情は柔らかで、お世辞を言っているような感じではない。荻原もそれを察したのか、ますます頬を緩ませている。
……もっとも、荻原の描いたものは贔屓目に見ても人物も背景も不安定で、とても褒められた出来ではないのだろう。けれどそれを差し引いても、久我山は「面白い」と感じたのだ。その感じ方を否定することは、きっと誰にもできまい。
「久我山さんにもいっぱい迷惑かけちゃいましたね。本当にごめんなさい」
「い、いえ。私の方こそ、あまりお役に立てなくて、すみませんでした。そ、それに……その……」
久我山は顔を赤くして、指を忙しなく動かしながら言う。
「お、お二人と一緒に過ごせて楽しかった、ですから……」
「く、久我山さん」
荻原は感動に打ち震えた目でそれを聞いて、唐突に椅子から立ち上がり久我山に抱きついた。
「久我山さん好きー!」
「え! あ、ええ⁉」
荻原はむしゃぶりつくように久我山の身体に頬をなすりつける。久我山はすっかり動転して固まっていた。僕は呆れてため息を吐く。
「おい。落ち着け」
「だ、だってえ。本当に良い人で、わ、わたし嬉しくって。久我山さんありがとうございます! うえーん! 大好きです!」
「は、はい。私も……あー……その……えっと……」
「照れるなら無理に言わなくていいぞ」
「は、はい……。すみません」
「それとちんちくりん。その辺にしておけ」
「えー? なんでですか。いいじゃないですか。スキンシップですよ。女の子同士の! 羨ましいんですか。だめですよ。神崎さんが入ったら犯罪ですから」
「入るか馬鹿。……そうではなくてだな」
僕は頬をかきながら、何とか説明しようとする。実はさっきから、背中が冷えるような視線を感じているのだ。
「……言いたいことがあるなら、入ってきたらどうだ」
「え。どうしたんですかいきなり」
荻原はきょとんとして、それから入り口の方に視線をやって……
「わっ!」
そして悲鳴をあげた。入り口からこっそり顔だけ出してこちらを覗いている女子生徒がいた。……森園美月だ。
「……す、すきって…………お、荻原さんにすきって…………し、しかもあんなに抱きつかれて……う、うらや……は、破廉恥だわ……犯罪だわ……あたしもして……違う……は、犯罪よ。犯罪よ……ゆ、ゆるさない……あの、女……」
ぶつぶつ何か言っていたが聞こえなかったふりをしよう。隣で久我山が恐怖に固まっているが、それも僕には関係のない話だ。
「も、森園さん……」
「っ!」
荻原に名前を呼ばれて、森園はびくりと飛び跳ねた。ぶつかった衝撃で教室の扉ががたりと揺れる。森園は一度廊下に出て姿を隠すと、ほんの少し間をおいてから、今度は堂々と教室へ入ってきた。優雅に髪をかきあげ、尊大な口調で言う。
「あら。お久しぶりね。それで、調子はいかがかしら。確か漫画を描いているんでしょう? もっとも、きっとみすぼらしいあなた達に相応しいみすぼらしい漫画なんでしょうけれどね!」
「いや、無理があるだろうその態度は……」
「うっさいわね! 黙ってなさいよあんたは!」
傲慢な態度は一瞬にして崩壊した。そんな彼女へ向けて、荻原は意を決したようにつばを飲み込み、震える足取りで近づく。
「……も、森園さん」
「お、荻原芳子……。じゃ、じゃなかった。荻原さん」
明らかに森園はうろたえる。
「あ、あの。良かったらこれ」
「え……?」
荻原が手にしていたのは、久我山に渡したのとは別の、原稿のコピーが入った封筒だった。いつの間にかもう一部、用意していたらしい。恐らくはじめから、森園に渡すつもりだったのだろう。
「わ、わたしが描いた漫画の原稿です。面白くないかも、しれないけれど、よ、良かったら読んでみてください」
「い、いいの?」
「はい……」
「だ、だってあたし、あんな酷いことばっかり言って……。荻原さんのこと、きっと傷つけて……。嫌なやつなのに、ほんとに……いいの」
森園は泣き出しそうな顔をしていた。荻原はためらいなく頷く。
「はい。森園さんに、読んでほしくて」
「……う、うん」
封筒を受け取ると、森園はそれを胸に抱きしめた。
「よ、読む。読むわ。大切にする。………………あ、じゃ、じゃなかった! 読んであげないこともなくってよ!」
「いや、そのキャラもおかしいだろ」
「あんたは黙ってなさい!」
指を突きつけ叫ぶと、森園は封筒を胸に抱えたまま教室を飛び出した。教室を飛び出す寸前、こちらを振り返って叫ぶ。
「こ、酷評してあげるから楽しみにしてなさい!」
やつが姿を消した後、僕は久我山と目を合わせ、言った。
「スキップしていたな」
「は、はい。すごい勢いでした……」
荻原は森園が消えた方の廊下をじっと見ていた。いつまでも、ずっと。
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