第38話

 漫画制作の行程は、人によって、千差万別だろうが、それでも代表的なものを並べるとするならば、こうだ。プロット、ネーム、下書き、ペン入れ、ベタ、トーン、その他諸々……。

 つまりは、ネームなんてものは序盤の序盤であり、これからが本格的な作業ということである。

 そういうわけで……。

「ひー! もう無理です。寝ます。気を失います!」

「何を言ってる。まだ今日の分の作業が終わってないだろ。さっさと下書きを全部済ませろ! でないと泣きをみるのはお前なんだぞ」

「あーん、わかってますよお!」

 とか。

「あれ……あれ……あれれ。このペンタブなんか調子悪いような……」

「怖いこと言うな。買いに行く時間が勿体無いぞ」

 とか。

「すいません、こことこことこことここにトーン貼っておいてください」

「わかった。…………なぜ、僕が普通に手伝ってるんだ。漫画制作はお前の仕事だろ」

「文句言ってる暇があったら手を動かしてください!」

 というふうに、学校から帰ると荻原の家に籠もり、二人でひたすらに作画作業に打ち込んだのだ。

 そうして、僕らの地獄のような数日はまたたく間に過ぎ去っていき、五月三十一日の夜。

「…………ねえ、神崎さん。あと何時間ですか」

「データ入稿の準備を考えると……残り四時間ちょっとか」

「それで……残り三ページ………………。これは…………無理なのでは……」

「諦めるな。僕も手伝う。手を動かせ」

「はい……」

 この日は二人して学校を仮病で休み、朝から働き詰めだった。荻原の親が理解のある人で助かった。

 カーテンを閉め切って、換気も忘れていた部屋は淀んだ空気が溜まっている。荻原は学習机の上。僕は部屋の中央にある背の低いテーブルで、ひたすらにベタやトーンを貼る。この数日で、やたらとこの二つの作業が上手くなってしまった。作業環境はデジタルだから、ずっとパソコンの画面を睨んでいるせいで、いい加減目が痛くなってきた。

 ペンタブを叩く、コツコツとした音と、時々マウスを動かすカチカチという音、それに微かな息遣いだけが、静かな空間に響き渡る。

「……神崎さん」

「なんだ」

「わたし、この漫画が終わったら……ベッドに入って好きなだけ眠るんです」

「そうか。僕もそうしよう」

 基本的には二人共黙って作業を続けたが、時折思い出したように荻原が話しかけてくる。その切り出し方は決まって同じで、

「……神崎さん」

「なんだ」

 僕は振り向かないまま相手をする。別に本気で話がしたいわけではないのだろう。単に、軽い気分転換がしたいだけなのだ。その証拠に荻原も、ひたすらにペンを動かしている。……いや、それだけではないのかもしれない。確認しているのだ。すぐ後ろに、僕がいるかどうか。

「あと少しですよ」

「そうだな」

「あと少し……ちゃんと描けたら、わたし、きちんと漫画が描けたことになるんですよね」

「ああ」

「そしたら……わたしは、何か、変わるんでしょうか」

「……さあな。何も変わらんかもしれん。いやむしろ、きっとそうだろう」

 すぐにわかる変化なんて何もない。でもきっと、後から振り返って見たとき、あの日あの瞬間が、自分にとってとても大事な一瞬だったのだとわかる時はあるはずだ。

「そうですね。そういうものですよね」

 荻原は一人で、しきりに頷いている。


「……神崎さん」

「なんだ」

「よ、妖精さんが見えます。小人の妖精です。妖精さんが、わたしの代わりに作業を……」

「よし落ち着け十分だけ休憩だ!」


「神崎さん」

「……なんだ」

「ありがとうございました」

「……まだ終わってない」

「ふふ。そうですね」


「か、神崎さん」

「なんだ」

「…………終わりました」

「……………………………………なに?」

「つ、次のページがありません。作業、お、終わってました」

「……っ」

 五月三十一日深夜十一時半過ぎ。二人の歓声が部屋に響き渡った。ついに、荻原の漫画は完成したのだ。


 そして、それから二十分ほどが経って。もう少しで六月になろうかとする頃合い。

「おい。ちゃんとデータの確認はしたな」

「やりましたよ。ちゃんとページ番号も確かめて、誤字もチェックして……。か、完璧なはずです」

「よし。じゃあさっさとやれ」

「は、はい」

 荻原芳子の部屋。僕らはパソコンの前に向かい合って、ディスプレイを睨みつけていた。荻原の震える指先がマウスを動かす。表示されている雑誌の入稿ページ。ファイルも添付され、必要な情報を明記し、あとは送信を押すだけだ。

「……おい何してる。さっさと送れ」

「だ、だって、これで送ったら、わ、わたしの描いたやつがいろんな人に読まれちゃうんですよね。そ、そう思ったら緊張してきて……」

「阿呆め。そんなのとっくにわかっていたことだろう。だいたい、お前の顔を知らないやつらに見られたって別に問題はないだろ」

「そ、そうですけど。……あ、あの何か心配になってきました。セリフの入れ忘れとかなかったですよね? もう一回確認しないと……」

「時間がないんだ! ええいもういい貸せ!」

「あ、ちょっと!」

 僕は荻原の手からマウスをひったくると、さっさと送信のボタンを押した。少し間があってから、『送信完了しました』というページに移される。時刻は二十三時五十九分。ぎりぎりだった。

「ふう。これで終わりだな。……ん。なんだその目は」

「あうー……。わ、わたし自分で送りたかったのに」

「とろいのが悪い。それにちびだからな」

「それは関係ないでしょう!」

 憤る荻原を無視して僕は言った。

「……ま、なんだ。ようやく終わったな」

「……ですね」

 荻原も椅子に背中を預けぐっと伸びをする。

「ほんとに終わったんですねえ」

「そうだと言ってるだろ」

「いやあ。何かもう少し劇的に目の前が変わったりするかなーって何となく思ってたんですけど、そんなことないですね。当たり前ですけど。あ、でも、肩の荷が降りたっていうか、ちょっと頭はすっきりしましたね」

「そうだな。僕もようやく安心して眠れるよ。まったくお前は最後までハラハラさせてくれたな」

「……しょうがないですよ。わたし、だめだめですもん。でも、そういうやつだってわかってたから付き合ってくれたんですよね」

「……ん」

 曖昧に返事をしていると、荻原はくるりと座ったまま回転椅子を回してから、言った。

「神崎さん」

「なんだ」

「その……これからのことなんですけど」

「ああ」

 長い沈黙のあと、荻原は首を横に振る。

「……いえ。やっぱり何でもないです。今日はもうさっさと帰ってください。遅い時間ですけど、泊める気はありませんから」

「わかってるよ。……それじゃあな」

「はい。また明日」

 短いやりとりを残して僕は荻原の家を去った。

 深夜の路上はとても冷たい空気に満ちていて、一瞬身体を震わせたけれど、でもその寒さはどこか心地良いものだった。

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