第37話

 スケッチブックを落としました。

 気がついたのは、家に帰ってからでした。鞄を開けて、いつもみたいに寝る前に落書きでもしようと思って、だけどどこにもそれはなくて……。鞄の中を探している間頭から血の気が引くのを感じました。もしもあれが誰かに拾われたりしたら……。それで中を見られたら。そう思うといても立ってもいられませんでした。あそこには、誰にも見せたことのないはじめて描いた漫画があったから。どこに置いてきたのか必死で考えて、結局学校以外にないと気がつきました。

 忘れ物をしたと言って家を飛び出して、学校へと向かいました。机の中に置きっぱなしにしていただけなら、誰かに見つかったりはしないでしょうけど、でも、もしもどこかへ落としてしまっていたら。

 嫌な予感というのは得てして当たるものです。教室の扉を開けると、そこには一人の男子生徒がいました。

『……これ、お前のか』

 夕焼けをバックに立つ彼の印象は、ちょっとかっこいいけれど怖そうな人だな、というものでした。目もとが細く、きりっとしていて、物怖じしない性格のようで、私が苦手なタイプでした。

 そして実際、その予感というか予想も当たっていたんです。

 私の落としたスケッチブックを覗いて、彼はこう言ったんです。

『お前、下手くそだな』


 ……絵を描き始めたのは特に深い理由があったわけではありません。ただなんとなく、昔からずっと描いていて、楽しいとか楽しくないとか、改めて考えたこともありませんでした。授業中に暇になったりすると、手慰みにノートに落書きをするのが好きでした。誰に強制されたわけでもないのに描いていたのだから、やっぱり好きなのかもしれません。

 でも別に、本気でプロの漫画家やイラストレーターになろうなんて考えていたわけではないんです。私にはそこまでの才能がないってわかっていましたし、強いて努力する気もありませんでした。時折思い出したように、描きたいと思ったときにだけ描ければ良かったんです。そりゃ、もっと上手くなれたら、なんて思うことはありましたけれど、それは、もっと背が高かったらなあ、と思うのと同じくらいの本気度でした。

 だから、漫画研究部、なんてものに入ったのも友達に誘われたからで、本気で漫画家になろうと思っていたわけじゃないんです。ただ、放課後にだらだら絵を描いて、ついでに同じ漫画好きの人と仲良くなれたら良いなあって思っていただけなんです。

 ああ、けれど、その目論見は失敗だったと言わざるをえません。

 漫研の部室に足を踏み入れると、その部屋の奥に彼はいました。

『む。来たのか。下手くそ女』


 本来なら回れ右をしてさっさと帰ってしまうべきでした。けれど友人に押し切られ、私は入部してしまうことになるのです。ついでに言うと他の先輩方が優しかったのもあります。

 漫研は私のような女にとって大変居心地の良い場所でした。先輩は優しく、お菓子もくれるし、放課後は備品の漫画を読み放題。経費だと言って、部費で漫画が追加されることもあります。夢のような場所でした。……たった一つの例外を除いては。

『おい、下手くそ。うるさいから黙って話せ』

 そんなふうに滅茶苦茶なことを言ってくる部員がいるのです。そうです。私の絵を下手くそ呼ばわりした彼です。

『下手くそだから下手くそだと言ったんだ。何が悪い。文句があるなら上手くなってみせろ』

 ……こいつさえいなければ夢のような場所なのに。そんなふうに思いながら、私は毎日だらだらと放課後は漫研で過ごしていたのでした。

 

 彼のことを少し説明しましょう。名前は……口にするのも苛々するのでこの際省きます。

 ともかく彼はとても嫌なやつでした。自信家で、それだけなら良いのですが、人を見下したような態度ばかりをとるのです。それだけでもむかつきますが、本当に腹が立つのは、彼はとても絵が上手いということです。それもそのはずで、放課後の漫研は基本的にだらだらお喋りをする場所になっているのですが、彼だけはせっせと隅っこでいつも絵の練習をしているからです。それを知っているから「下手くそ」だと罵られてもなかなか強く言いだせないのです。

 彼はもしかしたら、本気でプロになりたいと思っているのかもしれません。もしそうなら、こんな姦しい場所に律儀に顔を出さずに、家で一人で練習していれば良いのに、と思ったこともあります。けど、流石に口にするのは憚られました。客観的に見て、漫研で漫画の練習をする彼の行いは正しいからです。もっとも、その口の悪さからつい反発したくはなるのですが。

 私は初対面で下手くそ呼ばわりされたこともあって、彼を避けていましたし、向こうも特別私に興味はなかったようなので、たまに早く部室に来すぎて顔を合わせる以外は、特に関わることもない日々を送っていました。

 それが一変したのは、文化際を目前にしたある日のことでした。


 基本的にだらだらしている我ら漫研ですが、一年に一度の文化祭の日くらいは働いているところを見せないと部費を切られてしまいます。なのでこの日のために、漫研全員で原稿を持ち寄って、部活の会報を作ることになっていました。

 ……とはいえまだ一年生の我々は、一人では漫画を作ることは難しいだろう、ということになって、二人以上のグループを作って原稿を仕上げるよう命じられました。期限は文化祭間際の日、約一ヶ月後です。

 問題だったのは、私がこれを聞いたのは、部員たちにその指示が出された数日後だったということです。私は風邪で休んでいて、久しぶりに顔を出した部活でこのことを聞かされたのです。仲の良かった子たちはすでにグループを作っていて、私は一人ぼっちになっていました。

 ……いえ、その言い方は正しくありません。私と同じようにまだどこのグループにも属していない部員はいたのです。そう。彼です。

 彼は、生来の口の悪さが災いして、その実力に反して組もうとする部員は誰もいなかったのでした。そうして私は、拒否権もなく、彼と一緒に漫画制作をすることになったのです。

 怯えながら挨拶をする私に、彼は、偉そうに脚を組んで言いました。

『せいぜい足を引っ張るなよ、下手くそ』

 むっかー、って来ますよね?


 最初は最悪の結果になってしまったと落ち込んだ私ですが、もしかするとこれは逆にラッキーだったのではとその晩お風呂の中で思い直しました。

 だって彼は、めちゃめちゃ絵が上手いのです。そして一人でずっと描き続けていました。会報用の原稿だって、きっと一人で描くはずです。そして彼は、私のことを下手くそだと認識しているのです。つまり、私は何もしないでだらだら漫画を読みふけっていても、彼が勝手に原稿を仕上げてくれるのです。これは超楽です。

 ……甘かったです。

 彼はスパルタでした。放課後になると漫研の部室で、私を鬼のように働かせました。

『下手くそでも、トーンくらい貼れるだろ』

 そう言って私をこき使うのです。ネームや実際の作画はほとんどお任せしていましたから、私には文句を言えるはずもなく、おとなしく従うほかありません。けど、やれ、トーンがずれてる、ベタはもっと丁寧にしろ、などというのを一回一回文句を言われ、さらには「阿呆」「下手くそ」「どんくさいやつめ」などという暴言が続けば腹を立てるなという方が無理です。

 それでも私は彼に付き合い続けました。原稿は出さねばなりませんから仕方ありません。

 驚いたのは、彼がとにかく完璧主義者だと言うことです。苦労して描き上げたページを翌日になって破り捨ててやり直す、なんていうことは一度や二度ではありませんでした。

 神経質な彼の態度に辟易し、何度か尋ねたことがあります。どうしてそんなに拘るんですか。所詮は学校の、しかも小さな部活の出し物です。誰もそんなに優れたものは求めていません。みんなだって、適当に描いて提出するはずです。せいぜい身内にちょっと受ければ良いだけのもの。それなのに、どうしてそんなに拘って良い作品を作ろうとするんですか、と。

 彼は、答えました。

『漫画を描いて、世界を変えたいからだ』と。

 私には意味がわかりませんでした。漫画を描く事と、世界を変えるというのが全然結びつかなかったからです。しかもそう答えたときの彼は、大真面目な顔をしていて、冗談を言っている雰囲気はありませんでした。私にはますますわけがわかりませんでした。だって私は漫画を、そんな大袈裟に捉えたことはなかったからです。

 彼の真意はよくわからないまま、私は彼の漫画制作を手伝い続けました。


 締め切りは、もう一週間前に迫っていました。なのに、原稿はまだ全然仕上がっていません。いえ、一度は仕上がったんです。けれど彼はそれを全部破り捨ててしまったんです。彼は漫画をすべてアナログで描いていましたから、予備なんてありませんでした。もっとも、仮にデジタルだったとしても、パソコンのハードディスクごと壊しかねない勢いでしたけれど。

 締め切りが近づくにつれて、私は泣きそうな思いで何度も尋ねました。どうするんですか、と。

 彼は何の問題もない、任せろ、と言い続けました。その唇が微かに青いことにもっと早くに気がつくべきでした。


 彼は風邪でぶっ倒れました。相次ぐ漫画制作がもたらした徹夜が体力を奪い、病原菌に対する抵抗力をなくしてしまったのです。締め切りまであと一週間を切った時点で、原稿の進捗はほぼゼロ。動けるのは、私だけになってしまいました。私は自分が描くしかないのだと、腹を括りました。

 ベッドの中でも漫画を描こうとする彼を無理やり寝かしつけようとして、彼が何かうわ言を言っているのに気が付きました。

『……面白いって何だ』

 泣きそうになりました。

 要するに彼は、ずっとスランプになっていたようです。原稿が遅れに遅れたのも、それが原因で間違いないです。自分が描いたものが面白いのだと信じられなくて、何度も何度も原稿を破り捨ててしまったのです。

 困ってしまうのは私のほうです。これから漫画を描くぞと決めた瞬間に、そんな質問をされてしまってはつい考えざるをえません。面白いって何か。私が描こうとしているのは面白い漫画なのか。これを描く事に何か意味があるのか。

 ネームさえ進まない期間が続きました。一日が過ぎ、二日が過ぎ、私は進まない漫画制作に焦りを募らせました。

 ……面白いって何なのか。

 それは、漫画を描くとはどういうことなのか、というちょっと哲学的な問題にまで足を踏み入れてしまうことでした。好きだから、描く。楽しいから、描く。それで充分じゃないかとも言われました。けど私は、改めて問われると迷ってしまうのです。自分の描くものが好きなのか。楽しいと思って描いていたのか。

 だって私はそんなに絵が上手いほうじゃありません。私は私の絵が好きではありませんでした。それに、漫画の制作って楽しいことばかりじゃないです。むしろ思っていたよりずっとずっと大変でした。その労力に見合う楽しさがあるのかどうかも、私はまだ知りません。好きなわけでも、楽しいわけでもないのに、何をもって漫画を描くというのでしょう。

 私が漫画を描く理由。それを見つけないといつまで経っても先に進めないような気がしました。それがわからないと実際線一つ満足に引けないんです。けど、それが何なのかわからない。いえ、本当にそんなものがあるのかどうかさえ、怪しいんです。

 漫画を描く理由がわからない。そして、何を描けば良いのかもわからない。

 考えているうちに、ふと、思い出しました。彼が以前に言っていたことをです。

『漫画を描いて、世界を変えたいからだ』

 あの時は、全然意味がわからなかったけれど、今ならほんの少しだけ、それがわかるような気がしました。

 私は、私のことが嫌いです。いつもだらだら遊び呆けて、時間つぶしをするだけで、何か明確な目標があるわけでもない。人より優れたことがあるわけでもないのに、何も努力しようともしない。それでも良いって、そういうふうに生きることに誇りを持っているなら、別に良いんです。けど私は違う。私はただ、私の胸の中にある空虚さから目をそらして、ただ日々を消化していたに過ぎません。そんな自分が嫌だって、どこかでわかっていたのに、何も手を打とうとしなかった。必死になって目を逸らしていた。

 だけど。だけどもし、私がきちんと漫画を描きあげることができたら?

 ……私にとって、漫画は特別です。感動を与えてくれて、時に笑わせてくれて、時に泣かせてくれて、時にキャラクターと一緒になって怒ったりもします。漫画を読むことは私にとって、とても大切な事でした。人から見れば漫画を読むのは遊びの一環でしょうが、でも、私には漫画だけがこの世界で本物の価値を備えているように思えたんです。

 だから、漫画を最後まできちんと描く事ができれば、私は私の中で特別なことを成し遂げたことになります。この世界で一番誇れる立派なことを成し遂げたことになります。それは、今までの空虚な自分を否定する行為でした。漫画を描けば、私は私を好きになれる。そんな気がしたんです。

 私より絵が上手い人はたくさんいます。私より優れた人はたくさんいます。それでも、私は私で漫画を、描かなくちゃいけないのです。それがたった一つ、私が私を好きになる方法でした。

 私は一体何を描けば良いのか。それも少しずつわかってきました。この世界で私が、ただ一つ、誰とも違うとはっきり言える持ち物。それを武器にして描くのです。それは痛みです。私の悩みや苦しみは、他の誰にも共有されないただ一つのものです。これだけは他の誰にも描く事ができない。私がやるしかない、私がやるべきことでした。

『漫画を描いて、世界を変えたいからだ』

 そう言った彼の気持ちが私にはわかりました。漫画を描く事でしか、自分を好きになれないのだから、私はそれをするしかなかったんです。

 やるべきことは、はっきりしていました。私は、私の痛みを武器に、ネームを描きあげ彼に見せました。

 彼は病気から回復したばかりの身体を引きずってそれを見ると、鼻を鳴らして言いました。

『……ま、悪くはないな』

 相変わらずむかつく物言いでしたけど、私はちょっと笑ってしまいました。


                       【タイトル未定】作・荻原芳子

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