第35話

 

「そう言われたって……」

 荻原は困ったような顔をして、崩した足をもぞもぞと動かした。

「そんなこと言われたって……困りますよ。わたし、できません。そんなの」

「お前の意志など関係ない。僕は決めたんだ。お前に漫画を描かせると。だから、何が何でも描いてもらうぞ」

「わ。め、めちゃくちゃ……」

「そんなのはとうの昔に知ってるだろ」

「けど……でも……。何を描けば良いんですか。何をやったって意味がないような気がするんです。どんなに良いものを作ろうとしたって、上には上がいて……。だったら、わたしがやることに何の意味があるんですか。そんなの、誰にもわからないって知ってます。でも、何か、保証が欲しいんです。そうでもないと、やってられないですよ」

 荻原の様子が少しずつ変わってきているのに気がついていた。荻原だって、何とかしたいのだ。自分をだめだと思ってしまう、自分を囲む世界を変えたいと思っているのだ。さっきまではその重さに押しつぶされていたのかもしれない。だけど今は、ほんの少しだけ、前を向いている。

「どうして僕がこんな話をしたのか、わかるか?」

「何ですか、急に」

「久我山と話していたんだ。本当の言葉というのが、どこから生まれるのか。誰かに届く言葉は何なのか。それで思ったのは、結局、人が本当の意味で話せるのは、自分のことくらいなんじゃないかってことだ。……僕に話せるのは、せいぜいさっきの話くらいだ。あれくらいが、僕の全部だ。荻原、お前もそうだ。お前がお前のことについて描くとき、それだけは、他の誰にもできない、お前だからできることだ」

「……何ですか、それ。わたしだけが持ってるものなんて、なんにもないですよ。そんなの、知ってるじゃないですか。わたしだけにできることがないから、こんなに苦しいのに」

「ああそうだ。お前は何にも持ってない。だけど、だから、持ってるものがある。わかるか。僕もお前も、そしてきっとこの世界の誰もがひとりひとり違うそれを持っている」

 僕は息を呑み、言った。

「……それは痛みだ。お前の抱える苦しさや辛さは他の誰にも共有されることはない。お前が持ってる痛みだけは、お前の独自のものなんだ。何も持っていないというお前の痛み、いや、何も持ってないと思ってしまうお前の苦しみが、お前が持ってる唯一のものなんだ。それだけが、お前の武器だ。他には何もない。それだけを頼りに、やっていくしかない」

「……」

 荻原は呆然としていた。ただじっと僕の顔を見据えている。

「……な、なんですかそれ。めちゃくちゃですよ。だって……それは、つまり、何も持ってないから一つだけ持ってるってことで……。空っぽだから、空っぽだっていうことがあるってことで……。ああ、ちょっと、わけわかんなくなってきました。無茶苦茶ですよ、それ」

「ああ、知ってる。だけど筋は通ってる。そうだろう?」

「…………」

 長い沈黙の後に、

「……はい」

 荻原はこくりと頷いた。

「それを、描け。お前の持つ痛みを、絵に乗せて表現するんだ。下手でも構わない。面白くなくても構わない。どんなものであっても、それはお前にしかできない表現だ。他の誰と比べることのできない、お前だけが作れるものだ。この世界でたった一つの存在だ。誰かと比べて上手いとか下手とか、そんなことを気にすることはない。お前にしかできないことが、そこにある」

「…………はい」

 嗚咽が聞こえる。僕はその声の方を見なかった。ただ天井の方を見上げた。嗚咽はそのうちに大きな泣き声になった。好きなだけ泣けば良い。その涙がきっと、お前の道標になるのだから。


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