第33話

 久我山と別れた足のまま、荻原の家へ向かった。外はすでに真っ暗だ。インターホンを押すと、かなり待たされてから、返事がする。

『……はい』

「僕だ」

『……』

 声はなかった。門の前で立ち尽くしていると、ゆっくり玄関の扉が開いた。

「……どうぞ」

 憔悴した様子の荻原が顔を出す。僕は顎を軽く動かし頷くと玄関をくぐった。


     *


「親はまだ帰ってなくて」

「ああ。みたいだな」

 以前にも来た、荻原の部屋へとやってくる。学習机の上に学校の鞄が置いてある。蓋が開いていて、スケッチブックは机に出ていた。それ以外は特に変わった様子はない。中央にある背の低いテーブルの前のクッションに勝手に腰掛ける。疲れて客人にお茶を出すという発想が抜け落ちているのか、それとも僕のことを客と認識していないのか、荻原もそのまま対面へと座った。別に呑気にお茶を飲みに来たわけではないから構わないが。

「げっそりしてるな」

 荻原の頬は微かにこけて、眼窩も落ち窪んでいるようだ。別に本当に痩せたわけではないだろうが、心労が表情にまで現れているようだった。

「ええ。はい、まあ……。あの、神崎さん」

「なんだ」

「学校から帰ってからずっと考えてるんですけど…………もしかしてわたし……今日、告白されました……?」

 やはりお茶をもらうべきだったと思う。代わりにつばを飲み込んでから、答える。

「……まあ。当たらずとも遠からずか」

「やっぱり!」

 荻原はひっくり返りそうな勢いで叫んだ。

「や、やっぱりそうなんですね。わ、わたし……も、森園さんに……。ど、どうしましょう。何て返事をすれば。お、お手紙とか書いたほうが良いんですかね……?」

「落ち着け。そんなことは誰も望んでいないだろう。やつ自身、あれをお前に聞かれたのは事故みたいなものだ。わざわざ蒸し返すより、聞かなかったふりをするのがお互いのためだ」

「そ、そういうわけにはいきませんよ! だ、だってあんなにはっきり……」

「少し違う。やつは別に、お前からの返事がほしいとかそういうことを思っているわけではないだろう。あいつのお前に対する感情はもっと……」

 何と説明するべきか迷う。僕は、森園から直接話を聞いたけれど、そこに含まれるニュアンスをすべて荻原に伝えるのは難しいだろう。

 ……眉間を抑え、考える。問題点を整理するべきだ。

 僕の目的は、ただ一つ。荻原に漫画を描かせることだ。そのためには、荻原の気分を乱す要因を排除することも、仕事のうちだ。

 荻原芳子は、今、かなり混乱している。スランプの中で、気持ちが落ち込んでいるというのもあったはずで、さらにそこに加えて、森園の存在だ。

 荻原からすると森園の行動は意味不明だろう。漫画を投げつけられ、挑発するようなセリフを浴びせられ、恐らくは森園から敵意を向けられていると思ったに違いない。けれど唐突に聞かされた「荻原芳子はあたしのものなんだから!」という告白。混乱は最高潮に達したはずだ。

 必要なのはまず、誤解を解いていくことだ。疑問を一つ一つ解決し、荻原がすっきりとした気分で漫画を描けるようにする。それが、僕のやるべきことだ。

「聞け、荻原。森園のことだ」

「は、はい」

「森園はお前に、憧れている。それがやつの今までの行動の動機だ」

「は、はい……?」

「あいつは密かにお前のファンだったんだ。中学の時にお前の絵を見る機会があったんだ。覚えていないか」

「……あ。そういえば」

 思い出したようだった。聞けば中学二年の時、放課後に残って絵を描いていたところで森園と出くわしたことがあるらしい。それは、森園から聞いた話とも一致している。

「で、でも、そんな、おかしいですよ。だってあの後も、森園さんはわたしになんて話しかけて来なくて……。二年間、同じクラスになりましたけど、でも、ほとんど話すことなんてなかったんですよ。だいたい、森園さんとわたしじゃ全然タイプが違うから、向こうがわたしに興味を持つなんて……ありえない」

「うむ……。まあ、なんだ。向こうはそうは思わなかったということだ。それにやつは、恐らく、信じられないほどの不器用だったんだろう」

 ……二年以上の片思いだ。離れたところから眺めるだけで、まともに声をかけなかったくせに、荻原に憧れた気持ちだけはずっと消えなかったらしい。

 そして僕は、さらに説明をしてやる。ここ最近の森園の行動は、すべて荻原への憧れから来ていたこと。荻原が怪しげな男(僕のことだ。失敬な)とつるんでいるのを憂い、なんとか引き剥がせないかと模索した末にあのような行動に出たのだ。

 話を聞き終えると、荻原はすっかり放心したような表情で言った。

「……そんな。それじゃあ、ほんとに、森園さんはわたしのこと……」

「ああ。恐らくはお前のファン一号だ。良かったじゃないか」

「ぜ、全然良くなんかありませんよ!」

 混乱しきった顔で荻原は叫んだ。

「な、なんでそうなるんですか。わ、わたしに憧れる? あの、森園さんが? 綺麗でかっこよくて、頭も良くて、みんなの人気者のあの森園さんが? い、意味がわかりません」

「わからなくても、実際そうなんだ。あいつから直接聞いたんだから、間違いない」

「こ、困ります。そんなの……」

「何をそんなに慌てることがある。別に向こうは、お前に何かを求めているわけじゃないんだ。ただのファン。それがわかっただけで充分だろう。森園のことは気にするな。ファンでいてくれることだけを喜べばいい。お前のやるべきことは一つ。漫画を描くことだけだ」

「ダメなんです。ダメなんですよそれじゃあ……」

 荻原は膝をぎゅっと握って言った。

「だって、森園さんですよ。わたしなんかよりずっと、すごい人じゃないですか。わ、わたしはあの人と同じ中学だったから知ってるんです。あの人は本当にすごい人なんです。……ほら、いるじゃないですか。クラスで一人くらい、目立ってて、人気のある人。森園さんは綺麗だったから、自然にみんなが周りに集まるんです。それだけじゃない。あの人、すごく優秀で……勉強も運動もできて。クラスの中心にあの人がいるんです。そういうタイプの人なんですよ。学校とか、それに大人になってもきっと、すごく上手く生きられるタイプの人。そ、そんな人がわたしに憧れてるなんて変です」

「さっきも言っただろう。変だが事実だ。僕もこんなちんちくりんのどこが良いんだか不思議に思うよ」

「そうですよね……。ほんとにそうです」

「…………冗談のつもりだった」

 流石に気まずい。

「あいつは、お前の絵を描く姿が好きだと言っていたぞ。その姿に惚れたんだ。森園は自分が本当は空っぽなんだとも言っていた。やりたいことや熱中できることがない。だけどお前はそれを持っている。それが羨ましかったんだろうな」

 荻原はひどく歪な表情をした。口もとは弧を描き、笑っているようではあったが今にも泣き出しそうな目をしている。その目を見た瞬間、部屋の空気がしんと冷えた気がした。

「……意味わかんないですよ、ほんとに」

 さっきから何度も繰り返しているセリフだった。

「じゃああれは何なんですか。漫画、見せてもらいましたよ。わたしなんかのより、ずっとずっとうまくて面白いじゃないですか。それなのに、わたしのどこに憧れる要素があるんですか」

「いくら描いても、何かが違うと言っていた。本当の意味で、本気に絵と向き合うことができていないんじゃないかと、不安になるそうだ」

 ……なぜ、僕がいちいちやつの心情を解説せねばならんのか。僕は森園でないから、聞いた話をただ伝えることしかできない。その伝えた情報は、正確ではないだろう。森園が僕に話したことが、やつの心の全てであるはずがない。なのに聞いた話がまるで森園の心の全てであるかのように話すしかないから、どうしたって僕の語気は弱くなる。そしてその曖昧さに、荻原は当然ながらすぐに気がつく。

「わたしより上手いんですから、それで充分じゃないですか! だいたい、何ですか。本気になる? 絵に、熱中してる? そんなんじゃない。全然、そんなんじゃないですよ」

 興奮しているのか、荻原は立ち上がると手を横に振り、宙を薙いだ。

「わたしはただ、他に何もないだけです! 森園さんみたいに綺麗でもなければ人から好かれるものを持ってるわけでもない! 空っぽなのはわたしの方です! だから、これに縋るしかなかった!」

 荻原は学習机の方に置いてあったスケッチブックを取り上げると、床に叩きつけた。

「他に何があるっていうんですか? ちびで鈍くさくて頭も悪くて。ほんとにどうしようもない女に、他に何があるって言うんですか? これしかない。たいして上手くもない絵だけど、これ以外何も、取り柄なんてない! そうだったのに……」

 急に語気が弱くなって、荻原は嗚咽を噛み殺すと、膝から崩れ落ちた。顔を手で覆い、唇を噛む。乱れた髪が顔を覆い隠した。

「それなのに、その絵だって、森園さんの方がずっと上手い……。当たり前ですよね。わたし、馬鹿だったから……ほんとはもう、これしかないってわかってたはずなのに……その絵さえ真面目に取り組もうとしなかった。その間にきっと、森園さんは何倍も練習して……だからあんなに上手くなって……。だけどわたし、ずるいって思ってる。何でも持ってるくせに……それなのにまだ足りないのかって。わたしの最後の取り柄さえ、奪っていくのかって……。しかも……しかも……あんなに描けるのに……わたしよりずっと上手いのに…………本気じゃないって……。本気になれるものを探してるって……なんなんですかもう……意味わかんないですよ。わたしに憧れてる? ……それこそ、ほんとに……わけがわからない…………」

「荻原……」

「すみません神崎さん」

 荻原芳子は顔を上げないまま言った。

「わたし、無理です。もう描けません。漫画は描けません。絵は、もう描けません」

「荻原、聞け」

「描いたって意味がない。だってわたしなんかより、ずっと上手く描ける人はいる。子供の頃から練習してきたけど、後から始めて……でも、わたしなんかより真剣に取り組んできた人がいる。だったらもう、いいじゃないですか。なんの意味もない……」

「荻原。僕は……」

 机に手をついて、身を乗り出す。

「そうだ。森園さんと組んでくださいよ。森園さんならきっと、もっと上手くやってくれます。神崎さんと二人で組めば、きっとすぐにプロにだってなれちゃいます。ごめんなさい神崎さん。あなたの期待に応えられなくて……。わたし、だめだから……」

「荻原芳子!」

 立ち上がると、上から荻原の手を掴んで、引っ張った。荻原は無理やり立たされよろめく。その顔を隠していた手が離れた。赤くなった鼻と目尻。荻原は泣いていた。ぐしゃぐしゃになった顔で、僕を見返す。

「……ひどい顔だな」

「いや……」

 見ないでというように、荻原は子供みたいに首を横に振る。腕で顔を隠すために、僕の手を引き剥がそうとする。けれどさせない。強く握ったまま、僕は手を離さない。

「は、離してください」

「いやだ」

「どうして……」

「お前に漫画を描かせると決めたからだ」

「そんなの、わたしじゃなくても良いじゃないですか。わたしより上手くかける人なんていっぱいいますよ」

「……ああ。そうだな。お前はクズだ。才能もなければそれを補おうと努力しようともしない。そのくせ人を羨んで、不公平だと嘆いてる。お前は何もできないんじゃない。何もしようとしてないだけだ」

「そんなの……そんなのわかってますよ。でも、仕方ないじゃないですか。そういう性分なんですから。嫌なら放っておいてくださいよ。お願いですから」

「お前はクズで最低だ。どうしようもない女だ。ちびだ。アホだ。すぐに調子に乗るし、授業中に居眠りして居残りは食らうし、テストの点数は低いし……それに……なんだ。えーと、ちびだ!」

「それはさっきも言いましたよ!」

「む。そうか。……とにかくだ。お前はどうしようもない阿呆だということだ」

「わかってますよ。そんなの……」

「ああ、知ってる。お前も僕も、それがよくわかってる」

 ……森園に訊かれた。どうして荻原を選んだのかと。こいつの能力を認めたわけじゃないのに、どうして荻原だったのかと。

 たまたまだと、答えた。それは、間違ってはいない。僕が荻原を選んだのはたまたまだ。本当に偶然スケッチブックを拾ったからだ。

 けれど。

 けれど、一つ言っていないことがあった。

「荻原芳子。僕は、お前を選んだことを後悔したことはない」

 泣いていた荻原は、ほんの少しだけ顔を上げた。腕の抵抗が微かに弱まる。

「お前はクズで最低だ。でもだから、僕はお前を選んだんだ。お前が良いと思った。お前なら、きっと良い漫画が描けると思った」

「そんな……どうして……」

「知ってるからだ。お前とよく似たやつを知っている。人の才能を羨んで、けれどたいした努力もしなくて、世の中の不公平を嘆いてる。そいつは、自分が空っぽだって知っている。だから不安で、代わりに誰かを見下す。馬鹿にする。そうやるしか、まともに立っていられない。誰かを馬鹿にでもしていないと、この広い世界で自分に価値がないんだって、わかってしまうんだ。そいつはどうしようもない、クズで最低なやつだ」

 力が抜けて腕を離した。荻原は顔を隠そうとはしなかった。ただ僕を見上げている。その視線がたまらなく恐ろしい。喋っているうちに、脚から力が抜けて倒れ込みそうになる。自分の醜さを、空虚さを荻原に見透かされているのかと思うと怖くなる。けれど耐える。僕には他に何もない。荻原の心を動かす方法を他に知らない。本当の言葉。自分のことを語るしか、誰かの心を動かすことなんてできやしないのだ。上っ面の、どこかで聞いたような慰めでは意味がない。魂でぶつかるべきなのだ。荻原に、僕のすべてをぶつけることしか、こいつを立ち直らせる方法はない。もちろん、そんなことをしても届かないかもしれないけれど、他に僕が持っている術はない。

「でもだから、そいつは夢を見たんだ。自分と同じようにどうしようもない女。その女がものを作る。漫画を描く。そうやって自分の世界と向き合って、それを変えることができるなら。自分を嫌だと思ってしまう、自分を醜いと思ってしまう、自分の空虚さを自覚してしまう、そういう世界を変えることができるなら。それはそいつの希望になるんだ。人は、自らの力で世界を変えることができる。自分を支配する世界観と戦うことができる。それを知りたかった。そのために、荻原、お前を選んだんだ」

 ふっと息を吐いて、休みを入れると、本棚に顎を向けた。

「そこに『シャドウハンターズ』という本があるな」

「え? は、はい」

 僕は本棚からその本を取り出した。

「それは……ボーカロイドの楽曲が原作だ。それを、原作者自らがノベライズした。知ってるだろ」

「は、はい。音楽の方も、よく、聴いてましたから」

「その原作者はな、僕の姉さんなんだ」

「え……?」

 戸惑う荻原に、僕は深く息を吸ってから話し始めた。

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