第32話

 教室に戻ると、久我山が一人だけぽつねんと席に座っていた。所在なさげに何度も廊下を確認したりしてはまた机の方に視線を戻している。怯えたその動作は捨てられた子犬のようで、僕は早足で教室に入った。

 扉の開く音で久我山は僕に気がついて顔を上げる。ほっと安心した様子でため息を吐いた。

「か、神崎さん。良かった……」

「少し話をしていてな。……荻原はどうした」

「きょ、今日は先に帰るって。よ、様子が変でした。いえ、その、気落ちしていたのはここ最近はずっとなんですけど……。でも、それだけじゃないみたいで。わ、私訊いてみたんですけど、こ、答えてもらえなくて」

「うむ。そのことなら……まあ、少しな」

 森園の話を入り口の前で盗み聞きしていただろう荻原は、予想はしていたがやはり、先に帰ったようだった。

 ならば行く先は一つ。荻原の自宅に向かうしかない。そう考えて荷物をまとめていると、久我山が恐る恐ると話しかけてきた。

「あ、あの。今日の会議は、中止、ですか……?」

「荻原が帰ってしまったからな。呼び出しておいて悪いな」

「い、いえ。それは、良いんです。けど……」

 黙り込む久我山の表情に違和感を覚えて、僕は荷物をまとめる手を止める。

「ごめんなさい……」

 久我山は唐突に謝った。

「何の話だ?」

「わ、私何もできなくて。せ、せっかく神崎さん達が、誘ってくれたのに。たいしたこと、言えなくて……。荻原さんはとても困っているのに、私、何もできない……」

「別にお前のせいではないし、それにお前はよくやっているだろう。プロット作りだって、お前はプロの作家として、充分な助言をした」

「だ、だけど私、もっとお役に立ちたかったんです。せ、せっかくお二人が私の能力を認めてくれたのに……。はじめてだったんです。私、今までずっと一人で……。会議のためだって、わかってましたけど、でも、放課後に、お二人と遅くまでお話をしたり、たまに、帰りに寄り道をしたり、お昼をご一緒させていただいたり……そういうの全部、はじめてで、とても、嬉しくて……。だけど私は、お二人のお役には立てなくて。お話を作るくらいしか、脳がないのに。それでもあまり、手助けできなくて……」

「……」

 僕は、少し考えた末、荷物を放り出し、手近な椅子を引いて座った。前の座席を顎で指す。

「座れ」

「……は、はい」

 久我山は戸惑った様子だったが僕の言うことに従った。

「やっぱり、会議をするぞ」

「え……でも……」

「別に荻原はいなくても、あいつの漫画を進めるための話し合いはできる。……そうだな。まず状況を確認するぞ。今、荻原芳子は危機に瀕している。スランプだ。ついでに五月はもうすぐ終わり。今日を入れてあと六日しかない。僕らが決めた締め切りまであと六日ということだ。僕らの漫画制作もまた、危機に瀕していると言っていいだろう。さて、問題なのはどうやって荻原を立ち直らせるかだ。久我山、お前は何か考えはあるか」

「……わ、わかりません。どうしたら、荻原さんに元気になってもらえるのか、ぜ、全然……」

「うむ。実はな、僕もだ」

「え?」

「さっきまで森園と話していてな」

 僕は軽く先程あったことを説明した。森園がどうして荻原に拘っていたのか。もちろん、あいつが荻原をどう思っていたのか、完璧に伝えることはできないだろう。なので軽く、荻原に憧れていた、とだけ説明する。それからその話の一部を荻原は聞いたこと。様子がおかしかったのはそのせいだろうとも説明する。

「そんなことが、あったんですか……」

「ああ。……で、森園には得意げに任せろと言ったが一切考えはない。さて、どうしたものかな……」

「そんな……。神崎さんが諦めたら……」

「諦めてはいないさ。特に考えがないだけだ。お前こそ、本当に何か考えはないのか」

「わ、私は。……ごめんなさい」

 それっきり久我山は黙り込んでしまう。僕も腕を組んで考えていると、しばらくして久我山は口を開いた。膝の上でぎゅっと拳を握り込みながら、ぽつぽつと話す。

「む、昔から、こうなんです。言いたいことを、言えない……。大事なことは何一つ、言葉にできない……。上手く、喋れなくて、伝えられなくて……。何を言っていいのか……な、何を言ってあげられるのか、ぜ、全然わからない……」

「そう落ち込むな。何もできていないのは僕も一緒だ」

「……ち、違うんです。私は昔から……こうで……。人と話すのが、怖くて。怯えて、逃げて、それにいざ話そうって決めても、目の前に立つと結局、何を言えば良いのか、わ、わからなくなってしまうんです。荻原さんに、何かあったのはすぐにわかりました。け、けど、私は、何も言ってあげられなくて……いつも、いつもこうなんです」

 唇を噛み、嗚咽するような声で久我山は語る。彼女はきっと、ずっとその悩みに囚われて来たのだろう。それが、荻原がスランプに陥ったこの一件で顔を出したのだ。人と話すのが苦手で、うまく喋れない彼女だから、誰よりも深く言葉について考え、言葉と格闘し、そして言葉を使い続け、本を書いてきた。話すこと、思っていることを口にすることの難しさを誰よりも実感し、悩み続けているのだ。

 ……ふと思う。荻原もまたそうなのかもしれない。いや、荻原だけではない。僕も、そして多くの人間がそうだ。自分の感じること、思っていること、それを言葉にすること、形にすることはとても難しい。それでも、少なくとも久我山はそれをしてきた。小説という形で。

「そう落ち込むことはない。お前はできているよ。お前のやり方で、気持ちを伝えることが」

「で、でも」

「そのために、本を書いているんじゃなかったのか。うまく喋れないから、その分、文字にして、伝えようとしてるんじゃないのか。お前の本を読んで、誰かが励まされることだってあるかもしれない。お前はやれることを立派にやっている」

「ち、違います」

 久我山は首を振って否定する。

「そんな、立派なことなんかじゃ、ありません。だ、誰かを励ましたいとか、そんなことを考えて、書いたことなんて、一度もありません……」

 ただ、と絞り出すように続ける。

「ただ、ただ、他にやれることがなくて。できることが、何もなくて。誰かのためにとか、誰かを元気づけたいとか、そんなことじゃなくて、私は、私のためだけに、本を書いてるんです。助けたいのは、私だけだから。じ、自分のことにしか目が行かない。人を手助けする余裕なんて、ぜ、全然ない。だから、な、何も言ってあげられない。困ってる人が、目の前にいるのに、わ、私は臆病だから、何もしてあげられない。臆病で、自分勝手だから……」

「……」

 ずっと不思議でならなかったのだけれど、久我山はプロの作家であるにもかかわらず、いつも怯えておどおどとしていた。けれどその理由が今わかった気がした。久我山は自分のできることの少なさを恥じていたのかもしれない。何かができるようになったって、それは自分の狭い世界の中だけで完結しているように思えて、誰かのためになることを何もできていなかった。その不徳やいたらなさというのを恐れていたのだろう。

 誰かのためじゃなく、自分のためだけに本を書いている。久我山はそう言った。久我山自身がそう感じているのだから、それは正しいのかもしれない。だけど、本当にそれだけだろうか。

 僕は久我山の書いた本を読んだ。それを面白いと思った。それはつまり、久我山の書いた言葉に、僕の心を動かされたということだ。久我山の紡いだ一つ一つの言葉によって心が軽くなったということもある。僕は久我山文香に助けてもらったのだ。

 久我山はただ自分のためだけに本を書いたのかもしれない。けれどだからといって、それが誰かの助けにならないなんてことはないのだ。それを教えてやりたい。そう思う。

「お前はどうして本を書くんだ」

「他に、何も知らないんです……。どうしていいのか。何ができるのか。何も、全然……」

「本を書けば、何ができるのか、わかったのか」

「ち、違うと思います。でも、少しだけ、楽になれた。自分にも、一つくらい、意味があることができるんだって、思えて……。でも、それは、全部、自分のためで……」

 それではだめなんだと、久我山は嘆いていた。けれど、そんなことはないのだ。

 荻原芳子を助けたい。荻原のスランプを解消させたい。荻原の心を動かしたい。そのために、どうすればいいのか。

「どうやったら、人に言葉を届けられると思う?」

 久我山は少しきょとんとして、それから首を横に振った。

「わ、わかりません」

「わからないなんてことはない。お前はすでにそれをやっているんだ。お前が書いたものは誰かの心を動かすことができているんだ。だから、お前はもう知っているはずなんだ。荻原を助ける方法を」

「そ、そんなの、わかりませんよ。だって私は、誰かを感動させようって思って書いたことは、ないんです。そんなの、難しくてできない。わ、私にできるのはせいぜい、自分のことを書くだけです。自分が抱えているものを解くように、少しずつ言葉にする。それしかないんです」

「……そうなんだろうな」

 僕は頷く。

「でも、きっとそれでいいんだ」

 言葉とはどのようにして扱われるべきなんだろうか。誰かを励ましたい、誰かを助けたいと思ったとき、どのように語ることが、一番その誰かのためになるのだろうか。

「誰かを思って言葉を使うことは、すごく難しいんだ。もしかすると誰にもできないのかもしれない。誰かを助けたいと願って、その誰かのために言葉を使っても、その言葉は上滑りしてどこにも届かない。言葉っていうのはきっと、自分のためにしか使うことができないんだ。久我山、お前が今までにしてきたようにだ。そして、そんなふうに使われた言葉は誰かの胸に届くかもしれない」

「そんな、こと」

「実際にそういうことがあると、僕は知っている。お前の本を読んだからだ。それに結局、他に方法はない。誰かの心を動かしたいと思うなら、適当な言葉ではだめなんだ。自分が確信を持って使える言葉でないとだめだ。もちろん、そんなものに興味はないと言われるかもしれない。届かないかもしれない。だけどきっと、それしかやり方はないんだ。自分のことを自分のために語る。そういう言葉は、もしかしたら、誰かの心に触れるかもしれないと期待することができる。僕がお前の書いた本を読んで心を動かされたように。僕が僕のために語る言葉が誰かの心を動かすかもしれない」

「神崎さん……」

「もちろん、そうはならないかもしれない。けれど、そう期待するしか他に方法はないんだろう」

 久我山の目を見て言う。

「お前のおかげだよ。久我山文香。お前が僕を助けてくれたんだ」

 久我山は口を閉ざし、ぼんやりとしたまま僕を見ていた。言われたことの意味がまだわかっていないのかもしれない。けれど彼女は頭の良い人間だから、きっとすぐに理解するだろう。

 ……荻原のスランプを解消させる方法がわかった気がした。

 誰かに届く言葉なんてない。ただ僕らは、自分のことを語るしかない。それが、人に届くかどうかはわからなくても、人を動かす本当の言葉はたった一つだけ。自分の本当の思いを語ること。それだけが、人の心を揺り動かす唯一の方法なのだ。

 ちらりと視線をやると、窓の外の夕焼けは熱く真っ赤に燃えていた。


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