第30話

 子供の頃から、何不自由ない生活を送っていた。

 自分で言うのもなんだけどあたしは、要領の良い方だった。学校の勉強は簡単すぎたし、運動するのも得意。見た目だって、かなりのものだったし、人と話すのも嫌いじゃなかったから、自然にあたしの周りには人が集まってた。

 そんなふうに、誰かに囲まれるのが嫌いなわけじゃない。ううん、むしろ好きだった。誰も彼もがあたしを頼ってあたしのことをすごいって言ってくれる。それが当たり前でむしろ普通だった。

 お父さんもお母さんもどちらかというと仕事人間なところがあったけど、でも十分に愛情は注いでくれた。欲しいものは大抵買ってもらえて、お金に不自由したこともなかった。それに中学生の、思春期になるとあたしに干渉しすぎなくなったのも、子供ながらできた人たちだと思う。

 誰からも尊敬されて、何でもできて、満たされた、何不自由のない生活。でもあたしはきっと、どこかでそれでもなにか足りないって思ってたのかもしれない。でもあたしはそれを認めなかった。足りないものなんて何もない。だってこんなに与えられてるんだから、それ以上望むのはきっと贅沢なんだろうって思ってた。

 でも……。

 あたしがそれ──自分の中の足りないもの、ずっと欲しかったもの──に気がついたのは、中学二年生の春だった。

 ある日、たまたま忘れ物をして放課後に学校に戻った。夕暮れの教室。誰もいないと思っていたそこには、たった一人だけ、小さな女の子がいた。

 開いた窓から風が吹き込んで、そっとカーテンを揺らしてた。電気はついていなくて、薄暗い教下の隅っこで、その子は一人でずっと絵を描いてた。

 はじめは、誰かわからなかった。あんまり印象のない子だったから。地味で目立たないタイプ。だけどよく見てるうちに、同じクラスの荻原芳子だってわかった。

 ……綺麗だって思ったの。

 どうしてそう感じたのかはわからない。でも、人気のない教室で一心不乱にペンを動かす彼女の姿はとても綺麗であたしの目に焼き付いたの。

 あたしはじっと入り口のところに立ったまま、彼女を見ていた。忘れ物を取りに来たことなんて忘れていた。今ここで指先一つでも動かしたら、この綺麗な場面が壊れてしまうんじゃないかって思って動けなかった。

 でも、どうしたって息はしなくちゃいけなくて、あたしの気配は消えなくて、それで向こうが先に気がついた。顔を上げて、慌ててスケッチブックを隠して、何か「違うんです!」とか「違います!」とか喚きながら教室を飛び出していった。

 それから、荻原さんのことが気になるようになってた。自分でもどうしてそんなに惹かれたのかわからなくて、でもわからないからずっと見ていた。

 授業中、隠れて絵を描いてるあの子を眺めてた。友達と話しながらも、いつも気分は上の空で、教室の隅っこで小さくなって過ごしてるあの子の姿を盗み見ていた。ある日教室で、あの子が掃除当番から帰ってこないうちに、机に閉まってあったスケッチブックを見たこともあった。

 あの子の絵を描く姿が好きだった。誰にも見せずに、こっそり描き続けてる姿を見るのが楽しかった。

 地味で目立たない子だと思ってた。頭も悪いし運動もできないし、友達が多い方でもない。いつも教室の隅っこで隠れるように過ごしてる。

 あたしはそういう子たちが、どうして学校に来てるのかずっと不思議でならなかったんだと思う。だって、学校に来たって何の楽しみもなさそうなのに、いつも視界の片隅にぽつんといる。集団生活なんだから、いろんな人種がいるのはわかっているけれど、でも自分はああはなりたくないって強く思ってた。誰にも必要とされない、誰にも求められない、誰の役にも立たない、そんな立場になんてなりたくなかった。

 だから荻原芳子が絵を描く姿が本当に衝撃だったのかもしれない。何の取り柄もない子だと思ってた。何の楽しみもない子だと思ってた。誰からも必要とされなくて、誰からも求められてないのに、ずっと教室の片隅にいたあの子。でも彼女はきっと、あたしなんかよりずっと、本当の意味で生きていた。だって、誰からも必要とされなくたって、きっと彼女は自分で自分を必要としていたから。そういう彼女の凄さに、あたしだけが気がついているんだって思うと嬉しかったから、あの子が絵を描くことは、他の誰にも言わなかった。

 絵を描くとき、あの子は夢中でやっていた。背中を丸めてペンをぎゅっと握りしめて、机に向かい合って一心不乱にペンを動かしてた。集中力は長くは続かなかったみたいだけど、でも、あたしが見ていた限りでは、中学二年生からずっと、絵を描くことを止めたことだけは一度もなかった。

 中二、中三って同じクラスになったけど、でもあの子と話すような機会は全然なかった。向こうがこっちを苦手にしているのはわかっていたし、それにあたしもあの子と話すときだけすごく緊張するからだ。人と話すときに緊張するのって、自分に自信がないからだと思う。誰かと向き合うと、その誰かと自分を比べてしまって、自分の中にある惨めさを意識させられて、それで上手く話せなくなる。あたしは、どんな立派な人と話すときだって緊張なんて感じたことはなかったけど、荻原芳子の前に立つときだけは別だった。髪型とかメイクとか、そういうのがやけに気になりだすし、それに、あの子の目を見ていると、あたしの中の空っぽさを見透かされているようで怖くなった。

 そう。あたしはきっと、空っぽだった。何でも持っていたのに、何でも与えられたのに、でもあたしは、本当の意味で自分で望んだものは何一つ持っていなかった。熱中できること。心の底から欲しいと思えること。そういうものに出会ったことが一度もなかった。それはきっと、両親に相談しても買ってはもらえない。自分で見つけて、自分で掴むしかないものだから。

 荻原芳子はもうそれを持っているようだった。何にも持っていないように見えたって、あの子は一番大切なものを持ってた。それがすごく、羨ましかった。

 だからある日、ふと、あたしも、絵を描いてみようと思った。荻原さんみたいに絵を描くことに夢中になってみたかった。本気になってみたかった。

 それからたくさん絵の練習をした。絵なんて描いたことがなかったから、はじめは酷いものだったけど、でも、器用なところがあったから、コツさえ掴めばどんどん上手くなった。もちろん、それだけたくさん練習したけれど。

 客観的に見ても、あたしは充分上手くなったと思う。けど、どれだけ練習しても、どれだけテクニックを身につけても、まだ何かが足りないような気がしてた。荻原さんみたいに、本気になってるわけじゃない。どれだけ自分なりに本気で絵を描いてみたって、それは、この胸の空虚さを埋めるためのただの暇つぶしにしか過ぎないのかもしれない、と思ってしまって、時々すごく嫌になった。

 そのうちに高校生になった。進学先も運良く一緒になって、また彼女の絵を描く姿が見れると思うと嬉しくなった。

 生憎別のクラスになっちゃったけど、でも、同じ学校にいるのだからいつかは接点ができるだろうってそんなふうに呑気に構えてた。

 けど、そうしたらある日……。

 荻原さんは知らない男と一緒にいた。見るからに人を見下したような、高慢な目つきをした男だった。すぐにわかった。あいつは嫌なやつだって。

 …………黙って聞いてよ。うるさいわね。本当にそう思ったんだから仕方ないでしょ。誤解? いえ、今だってそう思ってるわよ。

 とにかく、荻原さんに何があったのか、ちゃんと調べようと思った。

 こっそり遠くから眺めて、聞き耳を立てたりしてるうちに、あることがわかった。どうやらこの高慢チキで嫌味な最低男は、荻原さんが漫画を描く手伝いをしてるんだって。

 それに気がついたとき、あたしは頭の中が真っ白になった。自分でも不思議なくらい、ショックだった。だって、荻原さんが絵を描いてるのは他の誰も知らない、あたしと荻原さんだけの秘密。そのはず、だったのに……。

 それが理不尽な怒りなことくらいは、自分でもわかってた。あたしが荻原さんが絵を描いてるのを知ったのは、本当に偶然だったし、もしかしたら荻原さんは仲の良い友人には絵を見せたりしてたのかもしれない。

 だけどそれでも、あの子の凄さを、絵にずっと向き合ってきた姿勢を一番よくわかっているのはあたしだっていう自負があった。だからどうしたって、その男のことが気になってしまった。

 あたしは、自分が勝手な怒りを覚えていることは知っていたから、懸命に何度も考え直した。もしも、その男の手助けで、荻原さんが本当に漫画を描けるようになるなら、それはきっと彼女にとっても良いことだ。あたしも祝福するべきことだ。本当なら、あたしがその手助けになれれば一番だったけれど、でも話しかける勇気もないんだから仕方がない。

 そう思い直そうとして、でもそれには、その男のことを知るのが不可欠だった。そのカマキリみたいに狡猾な顔をした嫌味な男が、荻原さんを本気で応援する気持ちがあるなら、あたしもおとなしく身を引こうって決めた。

 ……だけど。

 そいつは最低だった。そいつは、荻原さんのことを何もわかっていなかった。荻原芳子はどうしようもない女だ、何てとんでもないことを平気な顔で言う。あの子には何の才能も能力もないなんて本当に思い込んでる。しかも荻原さんを選んだのはたまたまだって言い切る。

 騙されてるって思った。荻原さんはこの男に騙されてる。早くなんとかしなくちゃって思った。

 どうにかして荻原さんとこの最低なクズ男を引き剥がしたかった。そればっかり考えていたけれど、方法が思いつかない。荻原さんに直接話すことはできない。あたしは緊張して何を口走るかわからないし、それにたいして仲の良くないあたしからの忠告を耳に貸すとも思えなかった。どうして良いかわからなくて、ずっと悩んでいるうちに、頭の中がぐちゃぐちゃになって、自分でもわけのわからない行動をとってた。

 必死になって描いた漫画を荻原さんに送りつけた。あれを読めば、あたしの気持ちがあの子に届くんじゃないかって思った。あの子に憧れて漫画を描き始めたあたしの気持ちを、荻原さんがわかってくれるかもしれない。確かに、荻原さんはそこまで絵は上手くない。でも、そんな怪しい男と一緒にいなくたって、前みたいに絵を描き続けることができるって、教えてやりたかった。そんな変な男なんていなくたって上手くなれるって知って欲しかった。

 それだけだったのに……。

 ここから先はあんたも知ってるでしょう。あたしはここ数日、ずっと熱にうかされたみたいな気分だった。だって、人生で一番長く、荻原さんと話していたから。それに何より、あたしの描いた漫画も読んでもらったから。漫画って、あたしの一番隠してた心の部分だ。あれを読まれたっていうのは、荻原さんにあたしの一番恥ずかしいところを知られたっていうようなもの。そう思うと顔が熱くなっていてもたってもいられなかった。頭は混乱してて、緊張はひどくなって、変なことばかり口走っていた気がする。

 荻原さんを挑発するようなことばかり言って、家に帰ってからずっと後悔してた。枕に顔を埋めて一晩中呻いてた。苦しかったけれど、でも、これでようやく荻原さんもあの男の魔の手から解放されると思うと安心した。

 けど……。

 そう。あんたは結局、離れなかった。荻原さんとまだ一緒にいる。あたしにはそれが、すっごく嫌で嫌でたまらないのよ……。

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