4章
第26話
面白いとは何か。
それは、古今東西、過去から現在、そして未来永劫、プロからアマチュアまで、創作するすべての人々を悩ます問題だ。
……面白いとは、何か。
それを尋ねるとき、その創作者の精神は危機に陥っていると言って良い。面白いとは、何か。そんなもの、誰にもわかるはずがないのだ。わからないけれど、自分が面白いと信じたものを、必死になって形にしようとするのだ。形になるまで、それが面白いかどうかなど、人には絶対にわからない。どうすれば良いのか。その答えはただ一つ。面白いと信じるのみだ。
けれどそんな説法は、それを尋ねた創作者自身、嫌というほどわかっているものだ。面白いかなんて、人にはわからない。だからせめて自分だけは面白いと信じるほかない。それがわかっていて、それでもなお、人に尋ねずにはいられない。「面白いって、なんですか?」面白いの基準。今自分がしていることが、本当に面白いのか。意味があるのか。価値があるのか。その保証をしてほしい。面白いって言ってほしい。
だからその問いに答えることには、意味がなかったりする。仮に僕が、何かしらの面白いの基準を持っていたとして、それを説明してやったとしても、訊いた方はけして納得しないだろう。不安になって、また尋ねてくるはずだ。「本当にそれで、面白いんですか」と。なぜなら、その当人はそれを信じることができないからだ。問題なのは、面白いのかどうかではなくて、創作者が自分の作っているものを面白いと信じられる精神にないという所にあるからだ。
つまり、それを尋ねてくる荻原芳子は今、危機的状況にあるわけだ。
「お、荻原さん。これ、お箸です」
「あい」
「あ、あとこれ、お茶です……」
「あい」
「お、荻原さん! そ、それはソースです! おうどんに、い、入れるんですか……?」
「あい」
昼休み。僕と久我山と、そして荻原芳子は学食へとやってきていた。僕と荻原はうどんを頼み、久我山は家から持ってきた弁当箱をひろげている。その久我山に介護されるようにして、荻原は機械的な動作でうどんを一本一本摘み、口に運んでいる。
ここ数日。荻原はすっかりこんな有様だった。漫画を描けなくなってしまっただけでなく、日常生活のメリハリさえなくなってしまっている。
「……おい荻原。もっと気をつけて食べろ。制服に汁が飛ぶぞ」
「あい」
「……」
暖簾に腕押しとはこのような状態を言うのか。何を言っても無駄な気がする。僕は忌々しい思いで視線を外した。久我山はおろおろと心配そうに荻原の様子を伺いながら、自分の弁当へ手をつけ始める。
どうしたものか……。
今度ばかりは頭を抱えてしまいそうだった。今までの、イマイチやる気がない状態とは違う。荻原自身、漫画を描こうとする意志はあるのだ。こいつは今でも毎日かかさず、制作会議に顔を出す。僕と久我山が今日は止めようと言っても、無理に教室に居残ろうとするくらいだ。
けれど、描けない。いくらペンを取って何時間唸っても、まともにネームは進まない。多少無理にコマを進めても、何かが違うと感じるのかそのページを破り捨てようとする。
純然たるスランプだ。それも、原因はわかりきっている。
──森園美月。あの女に言われたことがプレッシャーになっているのだろう。
『楽しみにしてるわよ。荻原さんの漫画』
自分より圧倒的な画力を見せつけられたうえでの、あのセリフ。それで、荻原は完全に打ちのめされてしまった。自分と同じ年齢で、自分より遅くに絵を描き始めた人間が、自分より圧倒的に上手く漫画を描ける。それなりに真面目に取り組もうとしていた分、受けたダメージは大きかったようだ。
しかし気持ちが回復するまで待っていようなんて甘えたことは言っていられないのだ。今日で、五月の末まであと一週間になった。下書きも始めなくてはいけない時期をとっくに通り越している。
……締め切りを伸ばしてしまえば良い、という意見もわかる。だが、それは絶対にしたくなかった。今のまま締め切りを破ると、そこで、荻原のやる気の糸がぷっつりと切れてしまうような気がしたからだ。荻原はまだ、やらなくてはいけない、という意識を持っている。けれど、締め切りを破り、一度でも無理に急いで漫画を描く必要がないのだと思ってしまえば、もうずっと漫画を描くことをしなくなってしまうかもしれない。これは、アマチュアの仕事だ。プロのようにそれで金をもらうわけでもない。誰に強制されたわけでもなく、ただ自分がやりたいと思うからやっている。だからこそ、締め切りなど自由にして良い……わけではないのだ。むしろ逆。誰に強制されたわけでもないからこそ、自分達だけは、締め切りはきっちり守らなくてはいけない。そうでなければずるずると引き伸ばしきっといつまでも完成しないだろう。
「……あら。三人ともお揃いみたいね」
ふいに嫌な声がした。僕と久我山がはっと顔を上げる。荻原も遅れてのろのろと首を向けた。
すぐそばにいつの間にか女が立っていた。森園美月だ。
「何しに来た」
「別に。たまたま食堂に寄ったらあなた達がいただけよ」
そうだろうか。やつは弁当を手にしている。教室で食べれば良いものを。わざわざ学食に来る理由はない。見たところ、やつの友人と思しき生徒の姿もない。
「それで、調子の方はどうかしら」
機械的にうどんを食べていた荻原の手が止まった。びくりと肩が震え、うどんの汁をじっと覗き込んだ姿勢で固まる。
「……お前には関係ない」
「そんなに邪険にしなくてもいいじゃない。ただの世間話なんだから。まあでも、その調子だとうまく行っていないみたいね」
「……」
黙り込んでいると、森園の声の調子が変わった。こちらを嘲笑するような声音から、何か諭すようにして言う。
「ねえ、神崎貴。もうやめなさいよ。こんな真似」
「何のことだ……?」
「荻原さんに、漫画を描かせようとすることよ」
「妙なことを言うんだな。なぜお前にそれを咎められなければならない」
「あんたには、無理よ」
「なに?」
「あんたがいたって、荻原さんが漫画を描けるようになったりはしない。あんたと組んでも、彼女にメリットなんてない。もうやめなさい。やるだけ無意味だから」
「質問の答えになっていないな。お前にそんなことを言われる筋合いはない」
「あたしはただ、忠告をしてやってるだけよ。実際、うまくいってないじゃない。全然進んでないんでしょう? さっさと解散して、お互い別々に取り組めばいいじゃない。その方がきっとうまく行く」
「ま、待って、ください!」
急に口を挟んできた久我山に、僕らはともに驚く。久我山は顔を真っ赤にして、何度か詰まりながらも、はっきりとした声で言った。
「そ、そんなことは、ないと、思います。お、荻原さんと神崎さんは、とても、良いコンビです。き、きっとお二人なら良い作品を、作れると、お、思います」
「……あんた、どうしてそんなことが言えるの? 荻原さんの描く漫画を読んだことがあるの?」
「そ、そういうわけじゃ、ないですけど」
「だったら適当なこと言わないでよ。引っ込んでなさい」
「あ、ご、ごめんなさい……」
……こいつ、だんだん物言いが乱暴になってきたな。なぜだか知らないがこちらを敵視しているから、言い方が荒れてきているだけなのかもしれないが。けれど、どちらかというとこれくらいが素のように感じる。プライドが高く、高慢で、他人を見下したような言動をとりがち。それが森園美月の本来の性格なのだろうか。
「ねえ、荻原さん。あなたも、そう思うでしょう?」
森園はわざとらしい、優等生のような仮面を貼り付けて、荻原に声をかける。
「きっとこのままでいたって、あなたは漫画を描けるようになんかならない。諦めて、その神崎貴とかいう男からは離れることね。それが、お互いのため。わかるでしょ?」
「あ……」
荻原が泣きそうな顔をして呻く。僕は、トントンと机の端を指先で叩いた。
「引っ込むのはお前の方だぞ。森園美月」
「何よ。言いたいことがあるの?」
「僕らはただ、昼食を取っているだけだ。お前の戯言にこれ以上付き合う義理はない。さっさと消えてくれ」
「あたしの言うこと、否定できないからって、負け惜しみは格好悪いわよ」
「ふん。馬鹿め。お前の言うことがあまりに頓珍漢だから相手をする気力も出なかっただけだ。いいかよく聞け森園美月。荻原が今のままでは漫画を描けないだと? 組むのをやめろだと? そんなことはな、とうの昔に承知の上なんだよ」
「……なんですって?」
森園の眉がぴくりと揺れる。
「荻原芳子はな、どうしようもないやつなんだよ」
「は?」
戸惑った様子を見せたのは、森園だけではなかった。荻原も僕の方を見ている。
「こいつは、別に絵はうまくないし、面白い話が作れるわけでもない。それでいて、やる気があるわけでもないんだ。漫画を描きたいとか、そういうのを強く思ってるわけじゃない。他にたいした取り柄もないくせに、その唯一の取り柄である漫画にも真剣にならない。そういうどうしようもないだめなやつなんだ。家に変えれば録画したアニメを見るかネットサーフィンをするか、それとも買い漁った漫画を読むか。休日はだいたい昼まで寝てるし外にも出ない。本当に芯まで腐ったクズ女だ」
「ちょ、ちょっと、言いすぎじゃない……それ?」
「いいや言いすぎなものか。もうすぐ一ヶ月近く、こいつに付き合ってきたからわかる。荻原芳子は、どうしようもないダメ女だ!」
指を突きつけ、言ってやる。
「……けれど、それがわかっていて僕はこいつと組むと決めたんだ。このどうしようもなくダメな女を引っ叩いてでも甘やかしてでも、とにかくありとあらゆる手段で持って漫画を描かせる。そう決めた。だから森園美月、お前の目的が何なのかは知らないが、僕は絶対に荻原を見捨てるつもりはない。いいか、僕はな、この荻原芳子という女にはじめからなんの期待もしていないんだよ。期待をしてないから失望もしない。今更少しくらい描けなくなったって、僕が落ち込むようなことは、何もないんだ」
「ぐ……」
森園は歯を噛みしめ、何か言おうとしたが声は出ない。言葉にならない悔しさを、代わりに僕を睨みつけて埋めようとする。
「わかったなら、さっさと帰れ。僕らはお前に用はない」
「……お、覚えてなさい。神崎貴」
「ふっ。三下は捨て台詞まで三下だな。ほら、失せろ」
シッシッと手を払うと、森園は足音を鳴らして学食から立ち去った。本当に、僕らの様子を見るためだけにここに来たのか。暇なやつだ。
食事に戻ろうとすると、荻原がじっとこっちを見ていることに気がついた。
「あの……神崎さん」
「……なんだ」
「一発、蹴って良いですか?」
「だめだ」
すねを蹴られた。痛かったが、まあ、それだけ気力が戻ったということで、今回ばかりは許してやろう。
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