第25話
「おい、しっかり歩け」
「うう、はーい……」
衝撃のあまり、病人のように動けなくなった荻原に肩を貸して、廊下を歩く。荻原は背が低すぎるので、こちらがかなり合わせてやらねばならず、動きづらいことこの上ない。いっそ背負ったほうが楽なくらいだ。
荻原がうんともすんとも言わなくなってしまったので、今日の会議は中止とした。仕方なく、引きずって帰ることにする。
「あ、あの。荻原さん。あまり、き、気にすることはないと、思いますよ。ひ、人は人、ですから」
先程から心配そうにおろおろして後ろを歩く久我山がそう励ます。
「は、はい。わかってます。心配かけて、ごめんなさい」
殊勝に頭を下げる荻原だが、まだその足取りはおぼつかない。
「そうだぞ。だいたい、お前より絵が上手い人間なんてごまんといるだろ。今更ショックを受けるようなことがあるか」
「そ、そうですけど……。やっぱりその、目の前に突きつけられると……」
「ふん。考えすぎだ。だいたい誰が描いたかもわからんのに、その見えない誰かと自分を比べて、勝手に落ち込むことほど馬鹿な話はないだろ」
「あうー。そうです……けど……」
荻原の表情は晴れない。忌々しい思いで、その顔から視線を外す。せっかく作業は順調に進んでいて、本当なら今日中にでもネームを切ってしまいたかったのに、うまくいかないものだ。さっさと気分が持ち直してくれると良いが……。
それにもう一つ、気がかりなこともあった。あの謎の漫画は誰が描いたかわからない、とは言ったが、予想がついていないわけではなかった。けれど、どうしていきなり荻原に漫画を送りつけるような真似をしたのか、その意図がわからない。
漫画を送りつけた主、あいつは、何が目的なのか。荻原に何のこだわりがあるのか。
考え込みながら靴箱の前にたどり着く。そして人の気配に気づき顔を上げ、愕然とした。
放課後の昇降口には人気は少ない。光量の少ない廊下の下、今朝と同じように靴箱に背を預け、腕を組み、そいつは待っていた。今朝と違うのは、その表情がどこか不敵なものに変わっていることだ。僕らに気がつくと口の端をつり上げ笑みを浮かべる。
「あら、今帰り? 荻原さん」
「森園さん……? ど、どうも」
森園美月は僕らを睥睨し、続けた。
「相変わらず仲が良いのね。──神崎貴」
その名前を呼ぶとき明らかに僕を睨みつけていた。もはや隠すつもりもないのだろう。この女は明らかに僕のことを敵視している。
「それに久我山文香さん。あなたもこの二人のグループに加わったの?」
「え? わ、私はその、お、お手伝いというか……」
「ふうん。……ま、何でもいいけど。あなたがどうして手を貸してるのかには興味ないし」
流石に、久我山が推理作家の香月文乃であることは知らないようだった。もっとも、知っていようが関係はなさそうだったが。この女の興味は、荻原と、そして僕へ向けられている。
「お前、何の用だ。まさかずっとここで待ってたのか。暇なやつだな」
「ふん。神崎貴。あなたに用はないのよ。さっさとここから立ち去りなさい」
「ずいぶんな言い草だな。声をかけてきたのはそっちだろ」
「あたしが用があるのは荻原さんだけよ。邪魔だから消えて」
「も、森園さん……?」
ここに来て、流石の荻原も森園の妙な態度に気がついたようだ。僕の肩から離れ、よろめきながらも一人で立つと、不安そうに僕と森園の顔を交互に見つめる。
いつの間にか、周囲の空気が張り詰めているようだった。久我山もすっかり怯えて、肩を縮こまらせている。
僕としては、この森園美月には何の恨みもなければ興味もない。だが、向こうがこちらに、突っかかって来るのだから、言い返さないわけにもいかない。
睨み合っていた僕らだったが、ふいに森園は視線を外すと、荻原の方を向いて、彫刻のような柔和な笑みを浮かべ、言った。
「ねえ、荻原さん。今、一生懸命漫画を描いているそうね」
「え!」
その一言で、荻原は明らかに動揺した。漫画を描くことを人に知られたくないと思っていて、しかもそれが、自分とはタイプの違う、派手な方の人間に知られていたというのが、かなりの衝撃だったようだ。
「ど、どうして、それを……。あ、いや! 違います。わたし、そんなこと、してません」
「隠さなくていいわよ。別に笑ったりしないし。むしろ、そう、嬉しいくらい」
「は、はあ」
「それで、読んでくれたかしら」
「え……?」
「漫画。あたしの描いたやつ、ロッカーに入れておいたでしょ」
「あ、あれ。森園さんが描いたんですか」
「そうよ」
「う、うそ」
「ほんとよ。正真正銘、あたしが、三日で描き上げた作品よ」
「み、三日⁉」
荻原は素っ頓狂な声を上げた。
「え、う、うそ。み、三日なんてそんな……」
「できるわよ。一日でネーム切って、すぐに作業に取り掛かって、昼間は学校があるから無理だけど、帰ったらすぐ作業。下書きして、ペン入れして、ベタとトーン貼って、セリフ入れて……とにかく、やる気と気合と根性さえあれば、できないことなんてないのよ」
「で、でも、だって、というかそもそも、森園さん、絵とか描く人だったんですか……?」
「ええ。……中学生くらいからね」
森園は答えるとき、微かに俯き、何かを思い返すように目を伏せた。けれど、すぐに顔を上げ、また、彫刻めいた笑みを浮かべる。
「で、どうだったかしら。あたしの漫画」
「え、それは、その……」
森園は一歩踏み込むと、荻原を見下し言った。
「面白かったでしょう」
「は……?」
荻原が驚いて顔を上げる。
「あたしの描いた漫画、面白かったでしょ」
「は、はあ。それは、まあ。……と、とても」
森園はふっと微笑みを浮かべ、髪をかきあげ満足げに頷いた。
「当然よね。このあたしが描いたんだから」
「……自信過剰な女だな」
僕の呟きを聞き咎めたのか、森園はこちらを睨んだがすぐに視線を外した。僕に興味はないってことか。
「ふん。いったいどういう神経をしていればあんなセリフが吐けるようになるんだろうな」
「え? あ、そ、そうですね……?」
久我山は目を逸らしながらえらく曖昧な返事をした。なんだ、その、お前が言うのかみたいな反応は。
「ねえ、荻原さん。荻原さんはいつから絵を描いてるの」
「わ、わたしですか? わたしはその、物心ついたときには……。保育園でもずっと、描いてましたし」
「ふうん。じゃあ、あたしよりずっと描いてた年数は上なんだ。それじゃあ、荻原さん」
「は、はい」
すっかり萎縮したまま、荻原は頷いた。びくびくと震え、まさに蛇に睨まれた蛙のような状態だ。そして当の蛇は、実に陰湿な、嗜虐的な笑みを浮かべ、ちろりと舌なめずりをすると言った。
「きっとあたしより、ずっとずっと面白い漫画を描くんでしょうね?」
「え…………」
立ち尽くす荻原を見下し、鼻を鳴らすと、森園は言うべきことは言ったというように背を向けた。軽く手を振り、一度だけこちらを振り向く。
「それじゃあ、楽しみにしてるわね。荻原さんの漫画」
そうして森園は立ち去り、その背中が徐々に小さくなって、完全に見えなくなると、
「……きゅう」
「あ、お、荻原さん……!」
荻原芳子は妙な鳴き声を残して今度こそ気絶した。
*
……それから、荻原芳子が使い物にならなくなった。
「おい、荻原。おはよう」
「あい」
朝、挨拶をしても上の空。
「荻原、ここ、解いてみろ」
「あい」
授業中、教師に当てられても、上の空。
「あ、あの。荻原さん。だ、大丈夫ですか……?」
「あい」
放課後の制作会議もまともに進まず、結局集まってもすぐに解散。
しばらく様子を見るしかないかと三日ほど放置してみたが、その三日目、とうとう荻原は決定的な一言を口にした。
会議に集まった僕と久我山。必死になって、荻原にネームを描かせようとしたが、一向にペンは進まない。荻原自身、やる気を失っているわけではないようで、ペンを取るのだが、どうしてもコマが先へ進まない。唸り続けて二時間近く。空は真っ暗になり、そろそろ下校時刻が近づきつつある。荻原は顔を上げ、憔悴した表情で一言、掠れきった声で呟いた。
「神崎さん。……面白いって、なんですか?」
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