第18話

 荷物を抱えた荻原が、教室のドアから顔を出し、そろそろと周囲を伺う。盗人のように足音を忍ばせて出ていこうとしたところに、

「おい」

 と声をかけた。すると荻原はしっぽを踏まれた犬のように悲鳴をあげて跳び上がる。

「ぎゃー!」

「どこに行くんだ。今日は放課後、会議をするぞと伝えておいたはずだぞ」

「あ、あれー? そうでしたっけ。すみません。携帯の電源が切れてて。へへ……」

 追い詰められた者特有の、卑屈な笑みを浮かべて荻原は答える。

「なら、今伝えたぞ。ほら来い」

 襟首を掴んで教室に連れ込もうとした所、サッと身をかわされた。忍者のように壁に張り付き、荻原は逃げ出そうとする。

「……待て。どこへ行く」

「あー、その。今日は気分がのらなくて……。また今度にさせて欲しいなって」

「だめだ。休み明けの最初の日だからな。ここで休むとそのままずるずると休み続ける可能性がある。特にお前のようにだらしのないやつはな」

「あうー……。見抜かれてる……!」

 僕は荻原に向き直り、ため息を吐いた。少し、攻め方を変えることにした。諭すように語りかける。

「荻原。何のつもりだ」

「な、何のことです?」

「今朝からの、お前の様子はおかしい。……いや、もしかすると体調が悪いと言い出した日からか? 僕を避けてるだろ」

「そ、そんなことないですよ」

 露骨に目を逸らして答える。わかりやすい。

「なら、さっさと来い。会議をするぞ」

 荻原はがっくりと肩を落とし、ついに観念したのか、「はい……」と頷く。

 教室に入り、電気をつける。真ん中にある自分の席に座って、前の座席の椅子を引く。荻原はおとなしく、そこに座った。

「ゴールデンウィークも明けたことだ。当初の予定通り、今日からまた本格的に漫画制作を開始するぞ。荻原よ。早速だが、流石にそろそろ、何か思いついたんじゃないか」

「い、いやー、それは、その……」

 荻原の返事は歯切れ悪い。スカートの裾をぎゅっと握り、

「それがまだ、全然っていうか」

「……本当か?」

「は、はい。ごめんなさい」

「……」

 腕を組み、しばし考え込む。ゴールデンウィークをわざわざ遊ぶためだけに使ったのは、間違いだったんだろうか。荻原は結局、何一つ考えつかないと言っているが……。

「ほ、ほんとにごめんなさい。わ、わたしってば、全然だめだめで。せっかくあれだけ遊んだのに、結局役立つことは何も見つけられなくて。でも、お話を作るって難しいですね。やっぱりどれだけ時間があっても、できない人にはできないのかな」

 早口でまくしたてる荻原は、無意味な言葉を積み重ねて僕の前に壁を作り上げようとしているようにも思える。

「荻原よ」

「な、何ですか」

「お前は、それで、何も思いつかないから、僕を避けていたのか?」

「え? あ、はい。そうですそうです。それです」

「……」

 僕は確信する。こいつは何かを誤魔化そうとしている。ならばそれは、何だ?

「久我山と会ったそうだな」

「へ?」

 急に話を変えたから、荻原は明らかに戸惑った。

「あ、はい。会いに行きました。サイン会のこと、聞きたかったから……。やっぱり、本当に作家の香月文乃なんですね。すごいですよね。誰にも言わないで欲しいって言われちゃいましたけど。わたしだったら、きっと、同級生みんなに自慢しちゃいます」

「いろいろと尋ねたそうじゃないか。話の作り方とか」

「あうっ。……そ、それは、そのー」

 人差し指をつつき合わせ、荻原は目を逸らす。

「別に隠す必要も誤魔化す必要もない。むしろ感心したぞ。やる気があるんだなって、嬉しくなったくらいだ」

「ど、どうも」

 僕は机に身を乗り出し、荻原の顔をじっと見つめて言った。

「お前がだめなのはよく知ってる。何も思いつかないからと言って、逃げ隠れする必要はない。変に構えず、だめならだめと話せ」

「……あ、で、でも」

「なんだ」

「いえ……。そうですね。ごめんなさい」

 荻原はしゅんとして頭を下げた。どこか釈然としないものを感じたままだったが、ともかく僕は頷いてみせる。

 さて次はどうしようかと思案する。ゴールデンウィークに遊び尽くせば、刺激を受けて荻原は何かアイディアを閃くのではと考えていたが、そう上手くはいかなかった。どうにか次の手を考えなくてはならない。それでふと、思いつくまま呟いた。

「スケッチブック」

「え?」

「何か新しく落書きでもしていないか。見せてみろ」

「あー……」

 荻原は明らかに渋った。膝の上に抱えたカバンを胸に抱きしめる。

「どうした」

「いやー、その、きょ、今日は家に忘れてきたっていうか」

「本当か?」

「は、はい。もちろん!」

 嘘っぽい。

「……荻原。さっき言ったばかりだぞ。お前がだめなのはよく知ってる。今更何をされたって、僕がお前に失望することはない。なぜならお前の評価は常に最底辺だからだ」

「あうっ。ひ、ひどい」

「わかったら、さっさとスケッチブックを出せ」

 渋々と荻原はカバンからスケッチブックを取り出した。僕はそれをひったくる。荻原は出来の悪いテストを親に見せる時の子どものような顔で、ちらちらと僕の方を眺めていた。

 ページを捲っていき、すぐに気がつく。以前より落書きの量が増えている。そして一番最後のページには、

「む……」

 大きく、少女のイラストが描かれていた。学生服を着た、ぱっちりとした目の女子だ。全身図が中央にあり、脇には表情のパターンがいくつか載っている。

 これは、キャラクターデザインだろうか。荻原のオリジナルのキャラに見える。

「ただの、落書きです」

 僕がどのページを見ているのか、察しがついているのか荻原は言った。それから、本当の意味で観念したように、ぽつりぽつりと語り始めた。

「ごめんなさい。体調不良って言ったのは、嘘です。本当は家で、ずっと、アイディアとそれでネームを描けないか、やってたんです」

 ……真面目に描く気になったのは、久我山文香が香月文乃だと知ったからだろうか。やはりあの日、荻原にも思うところがあったのだ。僕は驚いたが、何も言わず、話の続きを促す。

「でも、結局全然だめで……。だけど、せめてある程度ちゃんとアイディアがまとまってから、神崎さんには見せたいって思って」

 荻原の様子がおかしかったのは、ただ何も思いつかなかったから、ではないのだろう。一度は本気で取り組もうとして、けれど結局、上手くいかなかった。そのことを、恥じたのだ。

「何度でも言うぞ。僕ははじめからお前には何も期待していない。お前がだめなやつなのはよくわかっているからな。だから、何も隠す必要はないんだ」

 そう言うと荻原は少し笑った。

「神崎さん、ひどいです。でも、そうですね。わたしは、結局だめだめなのかも……」

 言葉というのを上手く伝えるのは難しい。放たれる言葉はどこまでも一方通行で、拾った言葉を人は、自分の思うようにしか解釈できない。荻原は、僕の言葉の一部分だけを拾い上げて、注目してしまった。

「だが、この絵は何だ」

「だから、ただの落書きですよ。アイディアとかお話は何も思いつかなかったけど、代わりに……」

「代わりに?」

「えーと、その、しゅ、主人公のつもりなんです。どんなお話にするのか考えてないのに、それだけ決めるなんて変ですよね」

「いや……」

 僕は改めてスケッチブックを見下ろした。感情豊かで、明るそうな女のキャラだ。

 荻原は結局何も思いつかなかったと言ったが、そんなことはなかったのだ。荻原は、何かを思いついている。けれどそれを伝える方法が、荻原自身にもまだよくわかっていないのだ。

 言葉だけが、自分のイメージを語る方法ではない。荻原は絵を描くことで、何かを伝えようとしている。

 ならばそれを、僕が見つけてやるべきだ。荻原が漫画を描くのを手伝うと決めた。そのために必要なことを今する。

「こいつの名前は何だ?」

「え、特に決めてませんけど……」

「そうか。だが、こいつは制服を着ているな。高校生か?」

「あー……たぶん、そうです。たぶん、高校一年生くらい」

 高校一年生の、少女。これだけでも荻原の描いたキャラクターのイメージが固まってくる。

 僕は重ねて尋ねる。

「好きな食べ物は?」

「し、知らないですよ、そんなの」

「思いつくままで良い。思い浮かべたものをさっと答えてみろ。何もないならそれでも良いが」

「えーと、ば、バナナ」

「嫌いなものは」

「に、苦いもの……とか?」

 戸惑った表情のまま、荻原は答えていく。

「趣味は」

「な、なんでしょう。……たぶん、友達とおしゃべりしたりすることとか」

「身長!」

「えーと、小さくも高くもなくて……中間くらい」

「体重!」

「ひ、秘密です! あの、なんなんですか、これ」

「イメージだ。お前の中にある、この女のイメージを訊いてる」

 尋ねれば、荻原は曖昧とではあるが、この主人公の女がどんな人間なのか、答えられる。それは、荻原の中に、この名もない少女のイメージがあるからだ。そしてそれは、きっとこの少女を通した物語へと繋がっているはずだ。ならば、僕のやるべきことは一つだ。荻原の感じていること、考えていること、荻原自身にもまだわかっていないそれを、僕が、引き出す。それをするべきだ。

「この名もない女について、考えよう。これは荻原、お前が作った人物だ。お前はこの女に、何をさせたいと思ったんだ? この女の生い立ちに何を見出したんだ?」

「し、知りませんよ。だってそれは、ただの落書きで……。何にも思いつかなくて困ってて、退屈で、手慰みに描いたものなんです」

「表現というのは、お前の無意識が持つイメージから生まれるんだ。それはつまり、どんなものであっても、お前が描いたものには、お前自身のイメージが反映されているということだ。僕は今まで、お前の持つアイディアやイメージを聞き出そうとしていた。それをもとに、漫画を描くことを目指したんだ。だが、その反対の方法を今から取る。お前が描いたものをもとに、お前のイメージを探し出す。そしてそれをもとに、漫画を描くのだ。だから荻原、構えなくても良い。ただ思いつくままでも良い。けれど答えろ。それが、お前の創作の第一歩だ」

「そ、そんなことで描けるようになるんですか?」

「わからん。だが何もしないよりはマシだろう」

 僕は机に腕をつき、尋ねる。

「──この女は、どんな性格だ?」

「それは、たぶん……」

 ゆっくりと荻原は言葉を紡ぐ。自分の胸の内側にある何かを、丁寧に、懸命に、拾い上げようとしている。

「あ、明るい子です。友達もそれなりにいて。勉強は、まあそこそこ。休みの日は、友達と電話をして、たまには一緒に遊びに行って。どこにでもいる、普通な子」

「……それで?」

「だから、そういう子なんです。たぶん」

「普通なやつというのは、いると思うか?」

「え?」

「どこにでもいる、普通なやつ。そいつは、何に悩み、何を思い毎日を生きているんだと思う?」

「さあ……。何も、ないんじゃないですか」

「悩みがないというのは、超人じみてるな。何もかかずらうことがなく何にも煩わされることのない生き方。それが送れるのは、むしろ普通ではないんじゃないか? ……いや、誘導するつもりはないんだ。ただ、単に疑問なだけだ。特別な個性のない、普通な人間。それは、客観的に、大まかなくくりをしてしまえば、僕も、荻原、お前もそうなるだろう。だけど僕は、僕を普通の人間だとは思ってない。荻原、お前はどうだ?」

「わたしは、普通ですよ。どこにでもいる、普通な人」

「だけどお前だって、思い悩むことくらい、あるだろう。それと同じことが、この名もなき女にも言えるんじゃないか? 毎日ある程度楽しく、暮らしてる。だけど、時々、考えることが、この女にだってある。もしそうならば、それは、何だ?」

「普通に生きてて、悩むこと……」

 荻原は俯いて、それから壊れたラジオが勝手に音を響かすようにぽつぽつと語る。

「きっと、何かを探してるんです。ありふれた毎日が好きだけど、でも、やらなくちゃいけないって感じる何かが、きっとどこかにはあるって、漠然と、思ってる。それをずっと、探してる……」

「それで、どうなるんだ」

 僕は、尋ねる。

「その女は、何かを探してる。それならきっと、何かを見つけるはずだ。一体、何を見つけるんだ」

「わかんないです。まだ、思いつかない」

「そんなことはない。もう知ってるはずだ。何を見つけたんだ。どこか違うと感じる自分。このままじゃいけないと思う自分。何かが違うと感じるこの世界を変えるものを、そいつは見つけたはずだ。何と出会った? 荻原。何を見つけたんだ? その女は」

 気がつくと、僕は椅子から立ち上がっていた。

「それは、きっと」

 顔を上げた荻原と目が合う。荻原の瞳は微かに濡れて透き通り、どこまでも透明で、煌めいていた。

「……絵と、出会うんです」

 荻原は続けた。

「何にもないと思っていた自分を変えるような出会いをするんです。絵と出会って。絵を描きたいって心の底からそう思うんです。絵を描いて、空っぽだった自分の中に、何かを、見つけるんです……」

 僕は、音を立てないようゆっくりと、椅子に座り直した。そして脚を組む。

「できたじゃないか」

「え……?」

「ようやく見つけたぞ。それが、お前に眠っていた、お前の世界の一部だ」

 僕の言葉を荻原はまだ理解しきれていないようで、目を瞬かせていた。だが、これは前進だ。アイディアも描きたいことも、ちゃんとあったのだ。荻原はそれを、きちんと思いついていた。

 今のが僕らの漫画制作の根幹をなすものだ。これをベースに僕らは漫画を作る。その第一歩を、この日、ようやく踏み出すことができたのだ。

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