第17話

 数日ぶりに学校に行く。荻原と会うのも数日振りだ。遊び尽くすはずだったゴールデンウィークは終わり、本格的に漫画を描く計画をスタートさせていく予定だが、果たしてうまく行くだろうか。

 このゴールデンウィークの過ごし方が荻原に良い影響を与えたと信じたいが、生憎最後の三日は顔を合わせていない。どんな調子か尋ねるべく、朝早くに教室に行ったのだが……。

 来ない。

 僕は苛々と腕を組み、貧乏揺すりをして待った。だが、いつまで経っても荻原はやってこない。電話をしてやろうかと思ったが、そのうちにチャイムが鳴った。騒がしかった生徒たちが、一斉に自分の席に戻っていく。

 担任教師が教室に入ってくるのとほとんど同じタイミングで荻原は教室に姿を現した。髪がはねていて、汗も浮かんでおり、相当急いで駆けつけてきたのが伺える。寝坊したのかもしれない。

 だが、僕と目が合うと、荻原は露骨に目を逸らした。

 その反応に違和感を覚えるが、問いただす暇もなく朝のホームルームが始まった。


     *


 その後も荻原は僕と会話をすることを避けた。休み時間になると、途端にどこかへ姿を消し、授業が始まるぎりぎりに戻ってくる。一体何のつもりか問い質したかったが、それができないのでもどかしい。

 放課後になるとすぐ、やつは教室を飛び出し姿をくらました。小さいだけあって、ネズミのようにすばしっこいやつだ。僕は教室を出て、荻原の姿を探す。

 すぐに学校を去ったのかと思い、靴箱のところまで行ってみると、外靴が残っていた。となると学校に居るはずだが、さて、やつがいそうな所はどこだろうと考える。それでふと、図書室に行ってみるのを思いついた。単なる勘だが、この間のサイン会のこともある。久我山文香と話をしに行ったのではないかと考えたのだ。

 図書室へ入ると、入り口のすぐ脇のカウンターに久我山文香は座っていた。図書委員の当番の日だったらしい。目があった瞬間、久我山は椅子を蹴って立ち上がると、こちらに近寄ってきて僕の袖を掴んだ。

「お、おい」

 どうしたのかと戸惑っていると、久我山は袖を掴んだままずんずん歩き出した。力はそこまで強くなく、振り払おうと思えばできたが、普段おどおどしている久我山が、今は取り憑かれたような表情をしている。その異様さに圧倒されて、僕は腕を引かれるがまま、久我山の後に続いた。

 カウンター当番は良いのかと思ったが、久我山は黙ったまま二階の書庫に入り込む。重い扉を閉めて鍵をかけた。書庫の中は薄暗くじめじめしている。大量の古びた本が並ぶこの場所は、本来なら司書の人間しか入ってはいけないはずだ。なので、僕らの他に人はいない。

 久我山は書庫の奥へと僕を連れてきて、その壁に押し付けた。思ったよりも強い力に圧倒される。久我山は俯いたきり、声を出さない。

「……」

「…………」

 どうして良いのかわからず、僕は黙ったまま、目の前の彼女を見下ろす。久我山文香──若きミステリ作家、香月文乃──は僕の制服の袖を掴んだままだ。その腕が微かに震えているのに気がついた時、久我山が顔を上げた。

 濡れたような瞳が、上目遣いに僕を見上げる。互いの吐息さえ感じる距離。久我山は熱い息を吐きながら、泣きそうな声で言った。

「だ、誰にも言わないでください」

 何のことかは、すぐに察しがついた。

「……小説のことか?」

「っ……」

 久我山は息を呑む。その手が震えたまま、力なく落ちる。

「な、なんでも……しますから……」

「なに?」

「お願いだから、誰にも言わないでください。秘密に、したいんです」

「ああ……」

「ひ、秘密にしてくれるなら、わ、私どんなことでも、します」

「おい待て」

「で、できるだけ……頑張りますから……」

「いや、別に頑張らなくても良いが……」

「は、恥ずかしいのはその、いや、ですけど……。でも、やらなくちゃいけないなら……」

「待て!」

 僕は慌てて久我山の身体を引き剥がした。

「人に聞かれたら誤解されるようなことを言うな! 小説を書いてることだろ。お前が、香月文乃だってこと、知られたくないんだな?」

 久我山はこくこくと頷いた。

「何故だ。別に隠すようなことでもないだろう」

 ふるふると、久我山は首を横に振る。

「は、恥ずかしいです、から……」

 うーむ、と僕は考え込む。久我山は明らかに人見知りをするタイプだ。小説を書いていることを知られ、しかもそれでプロになっているのだというのがバレたら大騒ぎだ。それで、注目を浴びるのが嫌なのかもしれない。

「だが、だったら何故サイン会などやったんだ。顔が露見するのはわかっていただろう」

「へ、編集者の人に、言われて……。断れなくて。き、気がついたら。でも、もう、絶対、やりません……」

 そこまでムキにならなくても良いと思うが……。ともかく久我山が誰かに小説家であることを知られるのが嫌なのは理解した。

「わかったわかった。誰にも言わん。絶対だ。約束する」

「ほ、ほんと、ですか?」

「ああ。僕を信じろ。嘘はつかん」

「よかった……」

 久我山は安心したようだった。胸に手を当て、ほっと息を吐く。書庫の中に満ちていた緊張が解けたようで、僕もそっと息を吐いた。

「……それにしても、驚いたぞ。まさかお前が香月文乃だったとはな」

 荻原を探しに来たという当初の目的も少し忘れ、僕は話した。

「あ……こ、この間は申し訳ありませんでした。せ、せっかく来てくれたのに。何のお話もできなくて」

「まあ、お前も驚いたんだろう。知り合いが来て」

「は、はい。とても……」

 久我山の僕らを見かけた時の驚きと絶望感は、さっきの切羽詰まった様子を見ると、察するにあまりある。

「いつから、作家になったんだ?」

「ちゅ、中学生の時に……。ほ、ほんの気まぐれで書いたものだったんです。誰かに見せるつもりなんて、全然なくて。だ、だけど書き終わったら、誰かに読んでもらえたらって、少しだけ思って。そ、それで、たまたま見かけた賞に応募して。そうしたら、とんとん拍子に……」

「そしてデビューか。流石だな」

「い、いえ……。たまたま、です」

「謙遜する必要はないさ。……そうだ。この間は言えなかったから、今言うぞ。お前の書いた小説、どれも楽しく読ませて貰ったぞ」

「……」

 久我山は妙な反応を見せた。瞳孔が微かに収縮し、僕を見つめる。そしてきゅっと下唇を噛むと、胸の前に置いた手をそっと握り、頭を下げた。

「あ、ありがとう、ござい、ます」

「礼を言われる理由はない。僕の素直な感想だ」

「は、はい……。でも、とても、嬉しいです」

 久我山が熱心に頭を下げるものだから、僕の方が気恥ずかしくなって目を逸らす。その空気から逃れるため、それに丁度良いので、話を変えることにする。

「それより、荻原を見なかったか。荻原芳子。この間、本を借りるときに会ったあのちんちくりんだ」

「あ……それなら」

「会ったのか?」

「は、はい。さっき……それに、お昼休みにも来て……。いろいろとお話をしました」

「本当か。ちなみに、どんな話だ?」

「えっと、私が、小説を書いてることを訊かれて。……あ、荻原さんにも、誰にも言わないようお願いして……。そ、それから、お話の作り方を、尋ねられました」

「なに?」

 驚いて、問い返す。

「荻原さんは、悩んでるみたいでした。お話の作り方や、アイディアの考え方。わたしは、うまく答えられなくて、でも、お礼を言ってくれました。もう少し、上手なアドバイスができたらよかったんですけど……。わ、私は、喋るのが得意ではなくて……荻原さんには、申し訳なかったです」

「……荻原は、創作のアドバイスをお前に求めたんだな?」

「は、はい」

「ふむ……」

 口に手を当て考える。まさか荻原がそんな熱心に漫画を描こうと行動していたとは。だがそれならそうと、話せば良い。何故あいつは、急に僕のことを避けるようになったんだろうか。

「……荻原は、さっきまでお前と話していたんだったな。その後、どこに行ったかわかるか?」

「え? さ、さあ。でも、忘れ物を取りに行くとは言ってました」

 教室に戻ったのかもしれない。急げば間に合うだろうか。僕は礼を言って書庫を飛び出した。


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