第16話
それから数日。僕らは荻原の部屋でだらだらと過ごした。だが次第にだらけることにも疲れ始め、出不精のはずの荻原が出かけようと言い出した。
そして、電車に揺られて一駅。僕らの街からほど近い場所に、畑しかない田舎町がある。こういう場所は得てして土地が安いのか、大型のショッピングモールが建っている。周辺に住む人々はここしか遊びに行く場所がないので平日も休日もここに集う。その三階。その一角にある書店へ僕と荻原はやって来ていた。
荻原は他所行き用のワンピースに、小さなショルダーバッグをかけている。
「おお。人、並んでますね。大丈夫ですかね……?」
「遅れたからな。ま、とりあえず並ぼう」
本屋は普段とは違う賑わいを見せていた。それもそのはず。今日はここで、香月文乃のサイン会が行われるのだ。
香月文乃とは『黒猫ソランの推理』の作者だ。今日はその四巻が出る日であり、それを記念してこの書店でサイン会が行われることになったのだ。
ネットでそれを知った荻原は、場所が近いので行ってみないかと僕を誘った。どうして都内でなくこんな田舎町で? という疑問はあったが、とにかく僕も興味があったし、行ってみることにしたのだ。
ネットで事前に予約した本と整理券を受け取る。荻原は四巻だけ。僕は、ちょうど良い機会なので、借りて読んだ分も含めて全巻買い揃えた。
並ぼうとすると、
「神崎さん。お先どうぞ。わたし……言うこと考えときますから」
えらく緊張した面持ちで荻原に言われ、前に押し出された。作家なんて言ったって同じ人間だ。必要以上に肩肘を張ることはないと思うが、まあ、どうでもいいか。
列は長く、先の様子は伺えない。暇なので、買ったばかりの四巻目を捲った。
荻原に借りて、三巻までをすべて読み終えていたが、どれも面白かった。
本を読む面白さとは、話の出来だけではないと時々思う。本は言葉の保管庫だ。一冊の、胸ポケットに収められるだけの文庫本の中にだって、数万の文字が収められている。文字は物語を綴るが、同時にそれを生み出す人の癖や人格というものが否応なく漏れ出てくる。本を読むことを通して、人は、その奥に潜む作者の人柄に触れることができる。本は、書き手の心を伝える。
『黒猫ソランの推理』を読むとき、僕はそのミステリものとしての話を楽しむと同時に、そこに綴られた作者の感性や人柄に触れた。そしてその感性を気に入った。好きな作者というのは、そうやって生まれるのだと思う。
サイン会に行くことにしたのは、もちろん一番の目的は荻原の気分転換ではあるが、ついでに、香月文乃という人間の顔を拝めたら楽しいかもしれない、という考えがあったからだ。
考え事をしているうちに、順番が来た。前の若い女が退いて、僕は顔を上げる。香月文乃が座っているブースへ近寄ろうとして、立ち止まる。
「……神崎さん?」
前に出ない僕に、荻原がどうしたのかと目で問いかける。スタッフの男が怪訝そうな顔をした。僕は驚きのあまり声も出ない。
荻原が脇に体をずらして、僕の身体越しに前を伺った。香月文乃の姿を発見し、「あ!」と声を上げる。
座っていた作家の香月文乃もまた、僕らを見て目を見開いた。
香月文乃はとても若い女だった。どう見ても僕らと同じくらいの年。長い黒髪に、不安そうに曲がった背中、伏せがちの目。その顔に、僕は見覚えがあった。
荻原が、驚きから回復しないまま、掠れた声で呟く。
「久我山……さん?」
パイプ椅子に腰掛けていたのは、以前図書室で顔を合わせた、久我山文香その人だった。
*
夕暮れの帰り道。駅から荻原の家まで続く住宅街を二人で歩く。
話題になったのは、当然、久我山文香のことだった。
「びっくりしましたねー……」
「ああ」
「どういうことなんでしょう?」
「どうもこうもないだろ。若きミステリ作家、香月文乃の正体は、同じ学校の久我山文香だったわけだ。そう言われると、名前も似てる」
「あ、ほんとだ」
自分の文香という名前を分解して、ペンネームに利用したのだろう。
香月文乃としてサイン会に登壇していた彼女は間違いなく久我山文香であった。とはいえ、僕らは結局、本人の口から久我山文香だと聞けたわけではない。サイン会なので、多少は作者と僕ら読者が会話できる時間はあったにもかかわらず、久我山は終始俯いたきり、機械的にサインをするだけで一言たりとも言葉を発しようとしなかったからだ。そばにいた編集者とも思しき人間も困り果てていた。
久我山が香月文乃だったというのには驚いたが、よく考えてみると、僕らが顔を合わせたのは偶然ではないのかもしれない。もちろん、僕と荻原が『黒猫ソランの推理』を読んだのはまったくの偶然だが、僕らがサイン会に行くことにしたのは、場所がすぐ近くだったからだ。そしてそもそも、こんな都内でもない辺鄙な場所でサイン会を開いたこと自体、ここが久我山の地元に近かったからなのだろう。
「あのー、つまり、久我山さんは、プロの作家さんってことになるんですか?」
荻原は混乱しているのか、当たり前なことを訊いた。それはそうだろう、と頷くと「はー」と感嘆のため息をもらした。
「そんなことって、本当にあるんですね。わたし、まだ信じられないです」
「あるところにはあるさ。いろんなやつがいる」
……才能のある人間というのは、いる。姉さんのように。若くても、自分のイメージをはっきりとした形で世に放出することのできる人間というのは。驚きはするが、信じられないという気持ちはない。久我山文香もそういう人間の一人だったということだ。
俯きがちに歩きながら、荻原はぽつりと言った。
「久我山さん、本当にプロなんですね。同じ高校生なのに。凄いなあ……」
その表情に、一瞬暗い色がよぎった気がして、思わず問いかける。
「……荻原?」
「はい?」
だが、顔を上げた荻原はいたって平常と変わらない様子だった。僕は首を振り、「なんでもない」と答える。荻原は首を傾げたまま、「はあ」と怪訝そうな返事をした。
無意識で足を動かしながら、考える。僕は今、荻原がどう感じたと思ったのだろう。久我山文香がプロの作家だと聞いて、荻原の中に生まれたのは尊敬の念だろうか。自分と同い年の人間が、一人前のクリエイターとして働き、お金を貰っている。その現実に、驚き、憧れ、尊敬したのだろうか。
だがきっと、それだけではないと思う。仮にもこれから、漫画を描こうという人間が、同年代のプロを見て、抱く気持ちが憧れや尊敬だけですむだろうか。言ってしまえば、嫉妬や焦り、自分自身に対する劣等感というものを抱くのではないだろうか。
それが、うまく作用するなら良い。だが、変に気落ちして、漫画を描く意欲が下がってしまったら問題だ。
……いや。
僕は横目で、荻原の方を伺う。荻原は「猫ちゃん!」と叫ぶなり唐突に駆け出し、どこかの飼い猫を追い回していた。その脳天気な阿呆面からは、複雑な感情は読み取れない。
「怖くない、怖くないですよー……みゃっ!」
前方では、猫に絡もうとした荻原がみぞおちにタックルを食らって悶えていた。……阿呆だ。
だがすぐに立ち上がり、猫を引っ捕らえると「おりゃりゃりゃ」と撫で回す。無駄にはしゃいでいるようだ。
猫を可愛がり、満足したのか手を離す。哀れな飼い猫は悲鳴じみた鳴き声をあげてさっさと逃げていった。荻原はふうと息を吐き、額の汗を拭うと、こちらを振り返り言う。
「あ、神崎さん。さっきお母さんから連絡があって、おつかい頼まれたんです。だからスーパーに寄ってから帰ります。送ってくれなくて、大丈夫ですよ」
「……ん。そうか」
「はい。それじゃあまた!」
へらへらした笑い顔のまま、荻原はぺこりと頭を下げると駆け出した。夕暮れの空に、荻原の小さな背中が揺らいで消えて行く。
*
翌日。荻原から体調が悪いと連絡が来た。なので家には来るなということだった。久しぶりに外に出て、風邪を引いたようだと本人は言っていた。三日ほどそれが続き、荻原はずっと寝込んでいたそうだ。その間に、僕はサインをもらった『黒猫ソランの推理』の四巻を読んだ。期待通りの出来だった。
そうして、僕らのゴールデンウィークは終わった。
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