第14話

 ゴールデンウィークがやって来た。その連休初日から僕は荻原の家を訪れた。

 荻原の家は一軒家だ。インターホンを鳴らすと陰気な顔をした女が現れる。荻原だ。

「どうも。……ほんとに来たんですね」

「そういう予定だったからな」

「……じゃ、来てください。部屋に案内しますから」

「うむ」

 荻原の後に続いて、二階にある彼女の部屋へと向かう。

「どうぞ。散らかってますが」

「本当だな」

「本気で言ったわけじゃ、ないんですよねえ……!」

 荻原芳子の部屋は、概ね予想通りの装いをしていた。ベッド、クローゼット、学習机、テレビ、といった基本的なものが置いてある。サブカル好きらしく、本棚は普通より大きめで、漫画が可能な限り詰め込まれていた。一部ではあるが、ライトノベルなどの小説もある。テレビの横には配線がごちゃごちゃになったゲーム機もいくつかあった。

 一人娘らしく大切にされているようで、部屋は広めだ。僕が加わり二人になっても、まだ余裕がある。

「そこ、座ってください」

 中央にある背の低いテーブル脇に、クッションを敷いて座る。荻原は一度出ていって、盆に麦茶を載せて戻ってきた。

 麦茶を配り、僕の対面に座ると、落ち着いて話す空気になってくる。

「で、今日はどうするんですか?」

「言っただろう。遊ぶぞ!」

「それがよくわかんないんですけど……。どうして急に?」

 荻原には、遊ぶと決めて、ゴールデンウィークに僕が家へ行くことしか伝えていない。荻原は僕が家に来ることをはじめ渋ったが、最終的には了承した。抵抗するのを諦めた、とも言えるかもしれない。

「……無論、僕たちの第一目的は漫画を描くことだ」

「だったら──」

「だが、創作というのは、どうしたって思うようにいかないことがある。アイディアを思いつこうといくら必死になったって、何も出てこない時もあるし、それが突然閃くことだってあるだろう」

「はあ。まあ、そうですね」

「つまりだ、やろうと思ったからと言って、すぐにやれる作業ではないということだ。我々には不可知の、できるようになる瞬間というのを待つことが、時には必要なのではないだろうか」

「はあ……なるほど?」

 麦茶を手にしたまま、荻原は曖昧に首を傾げる。

「荻原、お前は現状、描きたい漫画のアイディアがないんだろう?」

「は、はい。すみません……」

「本当に何も、万に一つも、思いつかないのだな?」

「そう言われると、考えちゃいますけど……。うーん、でも、中々思いつかないんですよね……。一枚のイラストを描くっていうだけなら、今までもやってましたけど……。ちゃんとしたお話を考えろって言われると、何が描きたいのかよくわからなくなっちゃって……」

 それは、ここ数日間荻原から聞いていたことと同じだった。漫画を描くとは決めたが、描きたい話を持っているわけではない。いや、本当は、あるのかもしれない。だがそれに気づくことができない。明確に言葉にすることができない。そもそもストーリーを作るとはどういうことなのか、どうやるのか、わからない。それが、今の荻原の状態だ。

「うむ。それは、仕方ない」

「あれ、優しいんですね」

「僕はいつだって親切だ。ま、そこでだ。しばらくの間……少なくともこのゴールデンウィークの間は何の気兼ねもなく、遊び明かそうということだ」

「遊んでいるうちに、何か思いつくのを待つと?」

「そういうことだ。……どうした。浮かない顔だな」

 荻原は口もとに指を当てて冴えない表情をしている。もっと喜ぶかと思っていたから意外な反応だ。

「いえ……その。良いのかなって」

「何がだ?」

「だって、漫画を描くって、一応決めたわけですし……。けど、はじめから結局、全然進んでなくて。それなのに、いきなり休息期間みたいなのを取るのはずるいような……」

「妙なことを言うな。お前はそもそもゴールデンウィークは遊ぶ予定だったんだろ?」

 それを僕が完全に認めてやったというだけだ。

「そうなんですけど。でも、遊んで良いって言われると逆に不安になって改めて考えちゃうって言うか。お母さんに宿題やりなさい、って言われると絶対いやっ! って思うんですけど、宿題なんてやらなくていいのよ、学校もいかなくていいのよ、って言われると、『そんなことで大丈夫? 生きていける?』って不安になっちゃうような……」

「わかるような、わからんような例えだな……」

 荻原はもしかしたら本当にそんなことを言われたことがあるのかもしれない。

「お前、思ったより真面目に漫画を描く気があったんだな」

「……え? あ、そうなんですかね? そうかもしれないですね」

 荻原は自分でも驚いたというふうに、目を瞬かせている。

「お前の不安はわかる。……だが、現実問題として、現状何かアイディアがあるのか?」

「……う。ない、ですけど」

「そうだ。遊んでいて不安、と感じるのはある種良いことと言えるかもしれん。やる気がある証拠だからな。だが、不安を感じたままでは目一杯遊ぶことは不可能だ。今は忘れろ。遊んでいれば必ず、お前は何かアイディアを思いつくことができるはずだ」

「そうですか? わたし、今までだって散々遊んできたわけですけど、なんにも思いついてないですよ」

「それは、描こうという意思を持っていなかったからだ。今は、それがある。しかしそれを一時忘れた状態で、遊ぶのだ。忘れるが、お前の無意識は必ず漫画を描くということを覚えている。忘れるが、忘れない。だから必ずアイディアを思いつける」

「そういうものですか……?」

「不安か?」

「そりゃあまあ……。わたし、自分のことそんなに信じてないですし……。描きたいって気持ちはあります。でも、遊んでいたらどんどんそれが遠ざかって行っちゃいそうな気がするんです。わたしは、いつか……っていうふうに、未来の自分が漫画を描いてる姿を思い浮かべることが上手くできません」

「ふむ……。なら、僕を信じろ」

 腕を組み、断言する。麦茶の氷が溶けて、カラリと音を立てた。戸惑う荻原に、僕は語る。

「言っただろう。僕は必ずお前に漫画を描かせる。五月の終わりまでには絶対に一つ仕上げるとも誓った。僕は何がなんでも、どんな手段を使ってもお前に漫画を描かせる。お前が漫画を描くのを忘れたらひっぱたいてでも思い出させてやる。だから、お前は何も心配する必要などないのだ。荻原芳子、僕を信じろ。僕がお前に必ず漫画を描かせてやる」

 そう言うと、荻原は呆れた調子で呟いた。

「無茶苦茶ですね、それ」

「そうでもない。筋は通ってる。だから今日は遊ぶぞ! 良いな?」

「……はい!」

 そうして、荻原はようやく笑顔で頷いた。


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