2章

第9話

 四月の終わり間際。僕は放課後、荻原と教室で二人、自主的な居残りをしていた。荻原は席に座り、僕は教卓の前に立っていた。帰宅したか部活に行ったかで、他に生徒はいない。もちろん目的は勉強をするためなどではない。

「というわけで、会議を始めるぞ」

「わー」

 ぱちぱちと荻原がやる気なさそうに手を叩いた。

「まず、わかっているとは思うが、僕らの目的は一つ。荻原、お前が漫画を描きあげることだ」

「はい」

 こっくりと荻原は頷く。流石に穴だらけの脳でもこれくらいは覚えていたようだ。

 僕は黒板に『漫画を描く!』とデカデカと書いた。

「だが、これだけでは目標がはっきりしているとは言えない。具体的にどの程度、どのレベル、どんな内容のものを描くのか、何を持って漫画を描いたと言えるのか、不明だ。極端な話、漫画と言うならお前のスケッチブックに描いてあったアレでも一応は漫画だ。しかし、今度はあのレベルで終わるわけにはいかない。そうだろ?」

「はあ。まあ、そうですねえ」

 自分のことだと言うのに、荻原はわかっているのかわかっていないのか、曖昧に頷く。不安になるが、今は続けることにする。

「そこでだ。もっと具体的な目標を決めようと思う」

「どんなのですか?」

「うむ。ずばり……投稿だ!」

「と、とうこう……?」

「そうだ。雑誌に、漫画を描いて投稿する。上手く行けばすぐにでも漫画家だ」

 荻原はぶんぶん首を横に振る。

「む、むりむりむりむりですよ」

「無理なことはない。描いて投稿する。小学生にだってできる」

「そんな、だって、受かるわけないじゃないですか」

「そんなのは知らん。別に、賞を取ることだけが目的ではない。もちろん、作るからには最善を尽くす。だが、漫画を描く、その目標を具体的にするために、投稿を利用する、ということだ」

「はあ……なるほど……」

「それに考えてもみろ。お前の作品を見たからって誰かがお前を笑いに来るわけじゃない。評価するのは顔も知らない会ったこともない誰かだ。不安になるようなことはないだろう」

 そう言うと荻原の眉はピクリと動いた。揺れているようだ。けれどまだ不安なのか、

「……でも、そんな簡単に出来るものなんですか? わたし、本格的に応募するための漫画なんて描いたことないし。まだ高校生ですよ。それにえっと、何か決まりとか形式とかいろいろややこしいの、あるんじゃないですか?」

「そんなものは、後で考えろ。形式も何も調べながらやっていけば良い。とにかくまずは、やる、という意思だ。それがあれば後は何とかなる!」

「そんなものですか?」

「そんなものだ。……というわけで早速、投稿できる雑誌を調べてきたんだ」

 僕は鞄からクリアファイルを取り出すと、荻原に手渡した。そこには、昨日調べてきた投稿を受け付けている漫画雑誌のウェブページをプリントしたものが入っていた。軽く調べてきただけで、十枚以上ある。参考にするためにコピーしただけだが、雑誌というのは山ほどあった。最近はウェブコミックサイトなんかもあって、簡単には把握できないくらいの数がある。

「わ。こんなにあるんですね」

 荻原はその紙を手にとって目を丸くした。

「ああ。僕も調べてうんざりしたほどだ。世の中随分雑誌があるんだな」

「雑誌ってことは、当たり前ですけど、中にいくつも漫画があるんですよね? それだけ漫画に種類があるってことで……なんだか凄いですねえ」

「そんなに読むのか? って、勝手に不安になるくらいにはあったぞ。ま、こうしてみると、この中のどれかに滑り込めれば漫画家になれるわけだから、何だか余裕に思えてくるな」

「えー……それはどうでしょう……」

 話が逸れたな。戻そう。

「別にどの雑誌に応募するかは決める必要はない。ただ、基本的にどの雑誌も紙の大きさやページ数が決まってる」

 ほとんどの雑誌で、ストーリー性のある漫画なら十六から三十前後を目安にしていた。僕は漫画を描いたことがないからわからないが、そのあたりが一話分として使いやすい量なのだろう。

「というわけでお前も、そのあたりのページを目標に描くぞ。最低でもこの間の三ページ漫画の五倍以上の量だ。無論、内容は五倍じゃ足りないくらいマシにしなくてはならんがな」

「あうー。無理そう」

「諦めるのが早すぎるだろう……。それともう一つ、期日だ」

「締め切りですね? 今年中に一つくらい描けたら良いですねえ」

 荻原は呑気なことを言っていた。僕はチョークを投げつけた。

「あいたっ。なにするんですか!」

「甘いぞ! そんなふうに曖昧な目標を立てるからいつまで立ってもお前はチビなんだ!」

「か、関係ないでしょそれは!」

「いや、ある! 今年中だと? 馬鹿なことを言うな。一ヶ月だ」

「い、一ヶ月……?」

「そうだ。一ヶ月以内に一つ、何が何でも仕上げるぞ。別におかしな期間じゃないだろ。それにお前みたいなだらしのないやつは、きちんと期日を決めないといつまで経ってもずるずるずるずるやるべきことを先延ばしにするからな。夏休みの宿題も最後の日までやらなかったし、むしろ、結局終わらなかったタイプだろ!」

「あうう……。ひ、否定できない……!」

「というわけで今日から一ヵ月。五月の末日までに必ず一つ仕上げるぞ。そして見ろ」

 雑誌のリストをプリントした紙。その一部分を指差す。

「そうだな。とりあえずこの雑誌」

 確か大手出版社の女性向け漫画雑誌だ。

「ここがちょうど五月の終わりが締め切りなんだ。描き上がったら、ここに応募するぞ」

「そ、そんないきなり……」

「こういうのは勢いだ。やると決めたら、やる! それだけだ。それにお前のやることは何も変わってない。お前はとにかく、漫画を描く! それだけが目標だ。いいな?」

「う……は、はい」

 勢いに気圧されるように、荻原は頷いた。今はまだ、納得しなくても良い。とにかくまずは、目標に向けて動き出すことだ。問題が発生したら、走りながら解決策を考えていけば良い。

 荻原はぷるぷると震える手でプリントを掴んだ。目標が明確になって、早くも緊張が押し寄せてきたようだ。

 僕は黒板にさらに字を書き連ねた。目標『漫画を描く!』その隣に追加で『一ヵ月以内に一つ仕上げる!』と記入する。

「五月の末までだいたい後一ヵ月だ。必ずやり遂げるぞ」

「は、はい」

 荻原はこくりと頷く。僕が天井に向けて「おー!」と拳を突き上げると、荻原も「お、おー」とへにゃへにゃした声で続けた。


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