第8話
教室に戻ると、荻原はまだ机にかじりついてプリントをやっていた。外は夕焼けで真っ赤になっている。この調子では、終わる頃には空はすっかり暗くなっているだろう。
扉が開いた音で、荻原は顔を上げてこちらを見る。
「あ、か、神崎さん」
「阿呆め。まだ居残りは終わらんのか」
「うう……英語、よくわかんないです……」
「ふん。泣き言を言う暇があったらさっさと片付けろ」
「はい……。あれ、その格好……」
荻原は僕の制服があちこち汚れていることに気がついたようだった。僕は軽く手を振り、
「気にするな。転んだだけだ」
「え、でも」
「気にするな」
少し力を込めて言うと、荻原は戸惑った様子のまま頷いた。けれどすぐに顔を上げ、
「あの、やっぱり……」
「気にするなと言っているだろ。転んでゴミの山に突っ込んだだけだ」
「はあ。道理で臭うわけで……」
「ほっとけ!」
まったくデリカシーのないやつだ!
「あのー、それで」
おずおずと切り出す荻原に僕は頷き、手にしたそれを掲げてみせた。
「見つかったぞ」
「ほ、本当ですか──!」
「ああ」
荻原のもとへ寄って、見つけ出したスケッチブックを返してやる。荻原は中を確認して、確かに自分のものだと認めたようだ。
「よかったあ。あ、あの、どこにありました」
「物理準備室。移動教室の時に忘れたんだろ。教師が忘れ物として回収していた。ああそうだ、安心しろ。中は見ていないそうだ」
「そうですかあ」
荻原はほっと息を吐いて、スケッチブックを胸に抱く。それから慌てて顔を上げて、
「す、すみませんでした。迷惑かけて。あ、ありがとうございました」
「ふん。気にするな。僕にかかれば、たいした手間じゃない」
「でも、ゴミの山に突っ込んだって」
「それは、そのスケッチブックとは関係ない。単なるドジだ」
「神崎さん……もしかして」
「なんだ」
「ツンデレですか?」
「違う!」
「えー……でも……」
「文句があるならそのスケッチブックをもう一度ゴミの山に入れてくるぞ!」
「あ、ひ、ひどい。でも、やっぱりゴミ捨て場にあったんですね。大変だったでしょう。本当にありがとうございました」
「知らん。僕は、何も知らないからな」
腕を組んで視線を逸らす。まったく僕の気遣いを無にして……。これだから察しの悪い女は嫌いだ。
荻原はまだ何か言いたそうだったが、僕は強引に話題を変える。
「それより、早くプリントを片付けるんだな。いつまで学校に居座る気だ」
「は、はい」
僕は近くの机に腰掛け、荻原の手からスケッチブックを奪う。
「ああ……!」
抗議する荻原をシッシッと手で追い払う。
「一度見てるんだ。二回も三回も同じだろう」
「そうでもないですよう……」
「文句はプリントを終わらせてからだ」
「はーい……」
渋々と荻原は机の上に視線を戻す。
沈みかけの夕日が教室の中を照らす。スケッチブックの表面を揺らめくオレンジがそっと撫でる。
一ページ、一ページ、イラストを眺めていく。
荻原はプリントをやってはいたが、こちらが気になっているのはわかった。顔は向けないが、僕がページを捲る音がするたび、ピクリと手が震える。
最後まで捲り終えて、僕は気になっていたことを訊くことにした。
「……荻原」
「はい?」
顔を上げないまま、荻原は返事をする。
「新しいの、描いていないんだな」
「あー」
ペンを一瞬止めて、荻原は頷いた。
「はい」
僕がこの間このスケッチブックを拾って見た日から、ページはまったく増えていなかった。荻原は一枚も新しいイラストを描いていない。
「なぜだ?」
「なんでって……別に。なんとなくやる気が出なくて」
「スランプというやつか」
「いえ……。そんなかっこいいもんじゃないですよ。描く義務があるわけじゃありませんし。気がのったら描くし、のらなかったらやらない。それだけです」
「そういうものなのか」
「そういうものです。……ま、今回のはちょっと長めですけどね」
「理由があるのか?」
「そりゃああれですよ」
荻原はペンを投げ出して僕の方を見た。
「神崎さんのせいです」
「何か言ったか。僕は」
「いろいろ。神崎さんに下手くそって言われたから、わたしやる気なくなっちゃって。それに神崎さん、わたしのことつきまとうから、絵どころじゃなくなったんです」
わざとらしく頬を膨らませ、荻原は非難がましく言う。
「ふん。下手くそなのは自分でもわかっていただろう。僕のせいじゃない。後、別に、つきまとっていたわけじゃない。人聞きの悪いことを言うな。積極的に話しかけていただけだ」
「そういうのを、つきまとうって言うんですよ。後、正論でも人を傷つけることはあるんです。覚えといてください」
べー、と舌を出して荻原は言う。それから椅子の背もたれに背中を預け、だらしなく天井の方を見上げた。プリントはすっかりやる気が失せてしまったようだ。
「まあ、やる気がなくなったのはそれだけじゃないんですけど」
「……なんだ。言ってみろ」
「……漫画家になれって言ったじゃないですか」
「ああ」
確かに、言った。それは、荻原に言葉通り漫画家になってくれ、という意味よりは、本気で漫画を描いてみないかという誘いの意味だったが、まあ、どちらにせよ同じことか。
「そしたら、色々考えちゃって」
「なぜだ? イエスかノーか、二択で答えることだろう」
「そうじゃなくて……。まあ、そうなんですけど。ただ、ノーって言うにしても、そうすると考えちゃうじゃないですか。じゃあ、なんで絵を描くのって」
僕は机に座ったまま足を組み直す。荻原は続けた。
「暇つぶしって言うか、まあ、それなりに好きだから絵を描いてたんですよ。落書きするのは、楽しいし。たまに良いのが描けると、嬉しいし。でも、別にプロとか、そういうの考えてたわけじゃないです。なれるとも思ってませんし、なりたいとも……うーん、ちょっとは思ったかもしれないけど、でも、本気でなりたいなんて考えてなかったんです。それは、今も、変わりません。でも、だったら、どうして? ってなっちゃいますよね。プロになる気もないのに、お金にもならないのに、こんなこと続けて何の意味があるんだろうって」
「楽しいから、だけじゃだめなのか?」
「楽しいです。……うん。たぶん、楽しい。ですけど、こんな趣味、お金にならないですよ。楽しいだけじゃ、生きてけないでしょ? でも、わたし、他に何にもない……」
雲が揺れて、夕日を隠す。光がずれて、荻原の目もとに影がさす。
「わたし……ちびだし、頭も良くないし、運動も全然で。それに、すごく要領が悪いんです」
「知ってる。そうでなかったらプリントにこんなに時間をかけていない」
「あうっ。わかってるなら手伝ってくださいよ」
「いやだ面倒くさい」
「神崎さんのけちっ! ……ま、それで、役にも立たない絵なんて描くくらいなら、もう少し真面目に勉強したほうが良いのかなーって考えちゃって。それで、しばらく絵を描いてないんです。こんなこと考える羽目になったのは、神崎さんが余計なこと言ったからですから、神崎さんのせいですよ」
「知らん。僕はそんなつもりで言ったんじゃない」
「そうですけど。思いもよらないことって、あるじゃないですか」
「僕の言葉でお前がどんなことを考えるかまで、責任を持てるか。僕はただ、お前が描く漫画を見たいとそう思ったんだ。わかるか? お前が本気で描くものだ」
机から降りて、立つ。荻原は首を動かしてこっちを見た。
「本気って言われても……別に、わたし、上手くないですよ。そのスケッチブックに載ってる漫画だって、結構描くの苦労したんですから。……不評でしたけど」
「なら、もう一度描いてみろ。僕が面白いと感じるまで、描いてみろ」
「なんでそんなことしなくちゃいけないんですか。神崎さんなんかのために。面倒くさい」
「僕が見てみたいからだ。それじゃ不満か?」
「神崎さんのためじゃ、やる気が出ません」
「なら、自分のために描け。絵も漫画も、創作も全部本当はそのためにあるだろう」
「知りませんよ。アマチュアですし」
「それでも、だ」
僕は荻原の机の前に立つと、席に座る荻原の頭に、ポンッとスケッチブックを叩いて置いた。
「あいたっ。な、何するんですか」
「世界を変えたいって思ったことはあるか?」
スケッチブックを荻原の頭に置いたまま、尋ねる。
「はい?」
「自分を取り巻くこの世界を、窮屈でどうしようもないと感じて、どうにかしたいと考えたことはあるか?」
「な、なんですか。急に」
「僕は、お前の想像力が……お前の創造するものが、世界を変えられると思ってる」
「どうしたんですか? そんなの、あるわけないじゃないですか」
「いや、ある!」
力強く断言する。荻原は目を丸くして、スケッチブックを頭から追いやった。
「ほ、本当にどうしたんですか?」
「僕は平常だ」
「ああ……。平常運転でおかしい人でしたね、あなたは」
「褒め言葉として受け取っておこう。……僕は、あると思う。いや、あるって信じたいんだ。人が本気で作り上げるものが、いつか、世界を変えることができる。そうだと夢見てる」
「……」
「絵を描いたって、何の役にも立たないかもしれない。金にもならない。それはある意味正解だろう。そんなことに時間をかけるなら、勉強をした方がいいさ。だが、本当にそうか?」
荻原は黙って僕を見上げている。
「荻原芳子。お前はちびで鈍くさくて、頭が悪くて、運動もできないし、おまけにちびだ!」
「二回も言わないでくださいよ……。これからおっきくなるんです」
「いや、ならん!」
「断言された! ど、どうして?」
「知らん。僕の勘だ。よくあたる。お前はきっと、一生ちびのままだ!」
「ひ、ひどい……」
荻原は泣き崩れる。僕はそれを無視して話を続ける。
「役に立つってなんだ? 役立つから絵を描くのか。それとも、もっと別の、何か理由があって絵を描くのか? そんなのはわからない。わかっているのはただ、お前を取り巻く世界はとても窮屈で狭くて、意地悪だってことだ。違うか」
……それはきっと、僕の世界も同じだ。いや、この世界に生きるすべての人にとって、己を取り巻く世界は生きづらいものなのかもしれない。
「だけど、変えられるって、僕は信じてる。いや、信じてみたい。そしてそれは、お前にとっては、絵を描くことで、為されるんだ」
「……どうして」
荻原の声は微かに震えていた。
「どうして、そんなふうに言えるんですか?」
「絵を描くというのは……ものを作るっていうのは、一つの世界を創ることだからだ。それはきっと、お前にしかできない、お前だけの世界だ。それで、戦え」
「戦う……?」
「お前を取り巻く、すべての世界と」
荻原芳子。僕にはわかる。あのスケッチブックを拾った日から何となく感じていた。そしてここしばらく一緒に過ごして確信した。お前はきっと、自分のことが嫌だと思っている。自分のことが嫌いなんだ。ちびで頭も悪くて、人より要領の悪いお前は、きっとたくさんそのことで傷ついてきたのだろう。挙げ句のはてに唯一の取り柄はたいして上手くもない絵と来ている。これでは、自分は何にも持っていないのと同じに思えただろう。人と比べて、欠陥だらけの人間……。
でもだからこそ、絵を描くのだ。描いて、世界を創り、それを武器に、戦う。お前を惨めに思わせるすべての要因と。
描けばきっと、お前は証明できる。自分が、惨めではないと。自分が、ダメな人間ではないと。自分に、証明することができる。
確証はない。だけど僕は、それを信じてみたいし、何よりそれを実際に成し遂げた人間を見てみたい。そのことはきっと、僕が立ち上がる勇気になるはずだ。
「やってみないか」
改めて、僕は問う。
「僕と一緒に、本気で漫画を描かないか」
「……」
荻原は黙って俯いていた。けれどやがて、か細い声で、呟く。
「一回だけ」
「……」
「一回だけなら、良いですよ。あなたと一緒に、真剣に漫画を描いてみます」
「……いいだろう」
顔を上げた荻原は、力なく笑っている。手つきも同じく頼りないものだったが、それでも荻原は、僕の差し出したスケッチブックを手に取った。
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