第3話

 学校から帰り、部屋に戻るとベッドに倒れ込んだ。倒れてしまってから先に着替えるべきだと気がつくが、立ち上がるのも億劫だ。ネクタイだけを緩める。

 いろいろと考えたいことがあった。けど少し疲れていて、ベッドに身体を預けながら頭を動かすことにする。

 考えたいことというのは、荻原のことだ。

 あいつは漫画など描く気がないと言ったが、僕としてはそう簡単に諦める気もなかった。

 なぜ、そこまで荻原に漫画を描かせたいのか。

 それは別に、荻原に才能がありそうだとか、あいつが密かな情熱を秘めていそうだとか、そういうことではない。あいつの漫画はさっぱり面白くなかったし、本当は漫画家になりたいが、それを押し隠しているという様子でもなかった。ただ普通に、落書きの延長で絵を描いているだけなのだろう。

 けれど僕はひどく個人的な理由で荻原に漫画を描かせてみたかった。

 いや、別にそれは荻原でなくても良いのだ。他の誰でも良いし、なんなら、目指すものは漫画家でなくても良い。僕が荻原に目をつけたのは、単にスケッチブックを拾うという偶然があったからで、そしてあいつには多少ではあるが絵を描く素養があったからだ。

 もう少し、自己紹介をしよう。

 僕の名前は神崎貴。高校一年生。家族三人暮らし。東京には神崎巡という姉がいる。そして僕は、去年一年間、引きこもりだった。


 引きこもりになったのは、明確なきっかけがあったわけじゃない。ただ、強いて言うなら姉さんのせいだ。

 と言っても僕と姉さんの仲が悪かったとかそういうわけでもないのだ。

 姉さんのことを説明しよう。

 僕の姉さんは変人だ。けれど同時に天才でもある。

 姉さんは小さな頃から頭がよかった。学校で一番、とかいうレベルではなくて、中学生の時には海外の懸賞論文に応募して賞金を貰ってくるような人だ。頭脳明晰、運動神経抜群、見た目は……うん、ファッションのセンスはともかく顔立ちは良いほうだろう。

 そんな姉さんだけど、彼女が一番興味を示したのは、学業でも運動でもなかった。本人曰く、そちらの方面はすぐに飽きたんだそうだ。そして代わりに夢中になったのが、芸術方面。

 姉さんは自分のことをクリエイターと呼んでいた。何のクリエイターかは言わなかった。イラストレーターとか、シナリオライターとか、ミュージシャンとか、そういうことではないのだ。姉さんはクリエイターだった。それは、つまり、あらゆる方面での。強いて言うなら、姉さんが創造するのは世界だった。

 大袈裟じゃない。姉さんはあらゆるジャンルの才能を使って、姉さんがイメージする一つの世界観を作り上げた、というわけだ。

 はじめは音楽だった。姉さんが曲を書き、当時流行りだったボーカロイドに歌わせた。それをネットにアップするとたちまち人気に火が付いた。意味深な歌詞と心に刺さる曲調が十代にヒットした。姉さんは続けていくつもの曲を発表。それらはすべて、一つの世界観に根ざしたものだった。曲と曲とが繋がるストーリーを形成したのだ。

 そして姉さんは次に、小説を書いた。それもその曲をベースにしたものだ。キャラクターのデザインも自分でやって、少年少女たちが奮闘する物語により明確な形を与えたのだ。そうして生まれたのが『シャドウハンターズ』という一連のシリーズだ。街に潜む影の敵と、少年少女が戦う物語だ。

 姉さんの曲はあっという間に某大手動画サイトで一千万再生を突破。小説は重版。漫画も作られた。姉さんの作り上げた世界はある種の社会現象にまでなって、熱狂を巻き起こした。アニメにもなり、そして今もなお、一時期ほどではないけれど、そのブームは続いている。

 それが、僕の姉さんだ。

性格破綻者の変人ではあったが、その才能はとてつもないものだった。

 そのことと僕の引きこもり生活がどう繋がるのかと言うと、繋がると言えば繋がるし、繋がらないと言えば繋がらないといった感じだ。

 僕の引きこもり生活はある日ふとはじまった。特に理由があったわけでもなくて、なんとなく学校に行きたくない日があって、それで僕は病気のふりをして休んだのだ。そういう経験は、誰だって一回くらいはあるだろうし、なくても想像することはできるだろう。

 けどそれが普通と違ったのは、僕はその後ずるずると一年間、学校を休み続けたという点だ。

 何度も言うが僕の引きこもりに明確なきっかけがあったわけじゃない。ただ、ある日突然、ほんの少し疑問に思ったのだ。僕は何をすれば良いのかと。

 思春期にありがちな疑問だと笑うやつもいるだろう。だが、その時の僕は真剣だった。

 当たり前だけど、僕は、小さな頃から姉さんのファンだった。

 姉さんはなんでもできたから、親戚や近所の人から口々に褒められていた。そのことを知って、幼い僕が姉さんを尊敬しないわけがない。

 だから当然、姉さんが作った曲や物語にも夢中になった。

 ネットの人間は時々、自分こそが姉さんの作り上げた世界を熟知していると激論を交わしているわけだけど、僕からすればお笑い草だ。その世界を姉さんについで最も理解して、そして誰よりも早くその存在を知ったのは他ならぬこの僕なのだ。

 そんなふうに、ずっと、姉さんが作り上げるものをただ享受していれば良かった。それだけなら、何も悩まずにすんだ。それなのに、おかしなことになったのは、僕が欲を出したからだ。

 けど誰だって思うものじゃないだろうか。身近にとてつもない才能のクリエイターがいて、自分もその世界にハマっていて、ある程度の年齢になったなら、自分も何かやってみたいと、考えるものじゃないだろうか。

 僕はそう考えたわけだ。そして実際にやった。

 それが確か中学二年生くらいのことだったと思う。

 そしてそれが僕の引きこもり生活のきっかけと言われればたぶんそうなのだろう。

 僕は何もできなかったのだ。音楽も小説もイラストも。他のおよそ、僕が考えられるすべての創造的行為が。

 それはつまり、僕がイメージしていたものと現実に生み出されるもののギャップに打ちのめされた、という意味だ。僕が漠然と想像していたものはすべて、姉さんレベルと言ったものであって、よく考えれば、いやよく考えなくても、およそ姉さんが創造するようなものを、他の人間が同じように努力もなしに生み出せるわけもないのだ。

 だが、僕はそれを知らなかった。それで、嫌になってしまった。

 中学二年生からおよそ一年間、いろいろな創作活動に手を出してはすぐに投げ出した。そのやる気の糸が切れたのが中学三年生の始まりの頃だったわけだ。

 ものを作り出すのに必要なのは、一体なんだろうか。姉さんのような才能か、もしくはそれに追いつこうとする努力か。それとも、まったく別の何かなのか。

 僕には、それさえよくわからない。わからないまま、嫌になって、気がつくと、それ以外の何もかもも嫌になって引きこもり生活を始めていた。

 約一年、好き勝手に部屋の中で過ごした僕だけど、曖昧な理由から始まった引きこもり生活は同じように曖昧な理由で終わりを迎えた。僕は高校に進学するのを機に部屋を出て、今では毎日学校に通っている。

 部屋を出る気になったのは、ずっと閉じこもっているのに飽きたというのがたぶん一番の理由だけど、他の理由は自分でもはっきりとしない。

 ただ、僕はたぶん、見てみたくなったのだ。

 想像力というものの力を。人は、ものを想像して、何かを作り上げる力を持っている。姉さんはその力のとても強い人だ。そして想像力というものの本当の価値は、世界を作り上げることにある。もともとの世界を打ち破り、見たこともないその人の世界を表現する、それが想像力の本当の力だ。実際姉さんはそうやって、独特な世界を作りあげて、世間を沸かせた。

 同じようなことが、他の人にも出来るはずだと、僕は思っている。僕自身は、それを成すことはできなかったけれど、他の誰かならやってみせるかもしれない。想像力によって、新しい世界を作り上げ、閉塞した世界を打ち破る。そのようなことが。

 本当にそれができるのかどうか、僕は知りたい。もしそれができるなら、僕にだって同じことができるはずだ。僕の中に巣食う、姉さんの存在。姉さんの作り上げた世界は、僕の身体の隅から隅にまで行き渡っている。それがある限り、僕は、何にもなれない。姉さんを追いかけ、けれど姉さんにもなれない、姉さんの劣化品だ。それを変えるには、想像し、創造するしかない。姉さんの世界を打ち破り、自分の世界を創造する。

 そのヒントが欲しくて、僕は、部屋を出たのだ。そしてそのために、荻原芳子に漫画を描かせてみたいと考えた。僕が予想するに、荻原芳子の人格は僕が知りたいことを知るのに最も適しているからだ。

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