終章:そして英雄へ――‐③

「ゼノビア……!」

 キュロスは飢えた胡狼ジャッカルのような目を、女帝に向けた。

「私は諦めぬぞ! 今日は無理でも、必ずまた軍を起こして、国を取り戻しに行く!」

 敗北が決定的となり、すでにナバタイ騎兵の多くが逃げ出している。

 それでもキュロスは、未練がましく女帝を睨みつけたまま、その場に留まり続けた。

「キュロス。もう終わりにしよう」静かに、なだめるようにゼノビアは言った。「我々が争う理由などもうなにもないはずじゃ」

「なにもないだと……? 貴様らのために、私の一族がどれだけの屈辱を受けてきたか知らぬから、そんなことが言えるのだ!」キュロスは牙を剥いた。「最後の王ダライアスが殺されてから百二十年余り。私の一族は祖国の土を踏むことすら許されなかった。時には奴隷に身をやつし、時には野盗に化け、我々は異国の地で、およそ王族とはかけ離れた惨めな時を過ごしてきた。それを、なかったことにしようとでも言うのか!?」

「そうではない。パルテミラ建国の陰で起きた数々の惨劇は、私も決して忘れはしない。同じ過ちを繰り返さぬために」

「………」

「我々は同じ過去を共有する身。ならば未来も共有できるはずじゃ。そうは思わぬか?」

 キュロスは答えない。戦場から遠ざかるローマ軍の、怒号と絶鳴ばかりが聞こえてくる。

 オレとエミールは、ナバタイ騎兵が動かないうちに包囲を抜け出していた。そして無事敵の陣中から抜け出した時、ようやくキュロスが口を開いた。

「ゼノビア……この者たちが見えているか?」キュロスは黒い同志たちを指差した。「彼らはこの国に絶望し、私を頼ってきた者たちだ。どんな言葉で取り繕おうが、貴様が彼らを不幸にした事実は消えぬ! 彼らの存在こそ貴様の悪政の証! 貴様にこの国を治める資格はない! この国の王になるべきは、この私だ!」

 思わず本音を漏らしてしまったキュロスは、指を女帝に向け、さらに叫んだ。

「者ども、あの女を殺せ! もはや勝敗は問わぬ。奴を殺した者には、千人分の報酬をくれてやるぞ!」

 ナバタイ騎兵が色めき立った。元より、盗賊稼業で身を立てていた者も多い。目の前にちらつかされた極上の餌に、彼らはかぶりついたのだった。

 野犬のような喊声を上げてゼノビアに殺到するナバタイ騎兵。キュロスもあとに続く。

 だが、その勢いは一瞬にして潰えた。

 歩兵の列に並べられていた大盾がどけられた、次の瞬間――隠れていた弓兵が一斉に矢を放ったのだ。

 ゼノビア一点に集中していたナバタイ騎兵は、全面から横殴りの矢の雨を受けてバタバタと倒れていった。後続の者も、仲間がなすすべなく死にゆくのを見ると、ワッと叫んで逃げ散ってしまった。

 矢の雨が止むと、今度はまた別のものが、恐ろしい速さでパルテミラの軍列から飛び出した。

 雷光騎兵――だが、その先頭に立つ者の姿が、オレには信じられなかった。

「!?」

 ゼノビアだった。

 女帝が騎乗しているのは馬――なのに、全力疾走に近い雷光騎兵を、置き去りにするくらいの勢いで突き進んでいる。両隣には霊羊に乗った幼精も従えている。ナバタイ騎兵を追い散らしながら、一筋の雷光となって、キュロスに迫る。

 女帝の姿を認めたキュロスが、弓を引く。

 神速の馬の上で、ゼノビアもまた弓を引く。瑞々しい唇を淀みなく動かしながら。

風雲神イル・エンリル!』

 矢が放たれたのは、ほぼ同時だった。

 対局する二本の矢は、同じ一筋の糸を辿るように進み、衝突するかに見えた。

 が――その寸前で、キュロスの矢が弾けた。見えない力に押しのけられるように。

 ゼノビアの矢は、口笛のような高い風切り音をともなって直進する。

 うめき声が上がった。

 キュロスが、仰け反るようにして馬の背から転落する。矢は貫通してどこへ行ったのかも分からない。だが、キュロスの肩口から血が噴き出しているのは見えた。

 主人が射落とされたのを見て、残っていたナバタイ騎兵が、故郷のある南へと落ちていく。

「キュロス!」

 痛みにのたうち回るキュロスに、ゼノビアが声を投げ落とす。

「自分がなぜこの国の民に歓迎されないか、よく考えるのじゃ。その上でまだ私を許せぬというのなら、何度でも挑むがよい。だが、パルテミラの民を傷つけるようなことを、二度とは許さぬ! 今日犯した罪を、忘れるな!」

 それまで穏やかに見えたゼノビアが、激しい怒りを露わにしている。

 恐らく、キュロスを説得するために、今の今まで抑え込んでいたのだろう。キュロスの暗躍によって、ゼノビアは大切な人を何人も失った。そしてこの日も、罪なき者の血が多く流れた。ゼノビアはパルテミラの守護者として、最後に毅然とした態度を示したのだった。

「ぐうう……くうっ……!」

 キュロスは悔しそうに女帝を見上げていたが、やがて言葉にならぬ声を発して馬に飛び乗り、逃げ出した。部下の何人かも後を追ったが、キュロスは振り返ることなく、たった一人、南へと馬を走らせた。

「なぜ、キュロスを殺さなかったのです?」霊羊に乗った幼精の一人が、女帝に問いかけた。「奴を生かしておけば、また後の禍いとなるでしょうに」

 勝者となった女帝は穏やかさを取り戻していたが、その表情は重い。

「キュロスを殺したところで、この戦いは終わらぬ。人々の心が変わらなければ、また同じことが繰り返されるだろう。私はキュロスにこの手を取ってもらう形で決着をつけたい。キュロス一人を変えることができずして、どうしてこの国を変えられようか」

 ふと女帝は、戦場に留まっている漆黒の外套をまとった集団に目を向けた。

 彼らは国に絶望し、一度はキュロスの元へと奔った者たちだ。それが今、馬を降りて帰順の意思を示している。

「ほう……私の手を取ってくれる者が、こんなにいたか」

 女帝の顔が、真夏の太陽のように輝いた。


 ゼノビアが馬を寄せてきた時、エミールは跪いた姿勢でひたすらに震えていた。

 唇は固く引き結ばれ、大きく見開かれた目は地面を向いている。

 結果的に、雷光騎兵の活躍がパルテミラの勝利を手繰り寄せたのは間違いない。だがゼノビアがエミールの作戦を知れば、決して許可しなかっただろう。形式上はエミールにも指揮権があったとはいえ、女帝の意に反した行動に出てしまったことに、後ろめたさがあるようだった。

 馬を降り、つかつかと歩み寄るゼノビア。目を閉じ、覚悟を決めるエミール。

 だが――

「!?」

 次の瞬間には、エミールは女帝の豊かな胸に抱かれていた。

 驚きと恥ずかしさで面を上げるエミール。そのすぐ横には、死の恐怖から解放されたような

 安堵を浮かべる、ゼノビアの顔があった。

「エミール、よくぞやった。此度の勝利の立役者はそなたじゃ」

 絶対に離すまいとするかのように、ゼノビアは強く、深くエミールを抱き締める。

「だがもう二度と、こんな無茶はしないでおくれ。私がそなたらをそばに置いたのは、己を奮い立たせたかったからじゃ。守りたいものをそばに置くことで、この国を守る覚悟を固めたかった。だから、命を投げ出すようなことはしないでおくれ」

「陛下……」

 赤面しながらも、エミールは子供のくせに生意気な、かしこまった口調で言った。

「お言葉ながら、これでも私は親衛隊です。陛下の身に危険が及んだ時は、命を懸けて守るつもりです。今はまだ頼りないかもしれませんが……いつか必ず、陛下に認めていただけるほどには、強くなってみせます!」

 ゼノビアはゆっくりと体を離し、頼もしい半幼精に微笑みかけた。

「そうか……楽しみに待っておるぞ」

 いい男になれよ、エミール……

 顔に若干の下心をにじませながら、オレはうんうんとうなずいた。

 ふと首振りの動きが止まったのは、大事なことを思い出したからだった。

 ジェロブはどうした?

 そういえば、先に行ったっきり姿が見えない。

 キュロスには釘を刺しておいたが、矢で狙われていたところを見ると、命令が徹底されているとは言い難い。回復役のジェロブは狙われやすいということもある。

 不安が募り、オレは必死に視線を巡らせる。

 あいつは違う。あいつも違う。あんな奴いたっけ? でも可愛い……じゃなくて!

『……ベテさん…………』

「!」

 耳元で、ジェロブの声がした。間違いない。これは『精霊の囁きウェスパーシ』!

『……う…………し……ろ…………』

「えっ?」

 反射的に振り向けばそこには、こちらへ駆け寄るジェロブの姿。

 視界いっぱい――――大きく両手を広げ――――

 ちょっ、待っ……心の準備が……!

 ムギュウウウ!


 オレの意識はそこで途絶えた――


     *  *  *


 意識が朦朧とする中で、優しく囁きかけるような、どこか懐かしくも感じられる歌声が、かすかに聴こえてきた。


 安息の地へ、精霊の光があなたを導くでしょう

 そして天使たちの合唱があなたを迎えるでしょう

 おかえりなさい、安息の地へ、テシオンへ

 モーリヤに眠る精霊の魂とともに、あなたが永遠の安らぎを得られますように


 何重にも重なり合った、透き通るような綺麗な高音。

 オレはその歌声に身を委ね、しばらくの間、自分がどこでなにをしていたのかすら忘れていた。

 ああ、そういや……オレは死んだんだっけな。

 じゃあこれは、天国から迎えに来た天使たちの歌声だ。

 魂が、あるべき場所に還ろうとしている。聴いているうちに、そんな安らかな気分にさせられる。

 さあ天使たちよ、オレを天国へ連れて行ってくれ。

 我が人生に悔いなし。

 これからは天上の星となって、パルテミラの行く末を見守ることとしよう。


  ――ベテルギウスの手記 終――

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