Ⅻ.セルキヤの戦い‐④

 スパルタクス時代の、一つの思い出がある。

 その頃は、いろいろと限界が来ていたのかもしれない。そもそも、心が折れない方がおかしかったんだ。戦で死ぬために生まれ、物心ついた頃には訓練所にぶち込まれ、まずい飯を食わされる日々……よく今まで耐えてきたものだ。

 いくつかのきっかけが重なり、とうとうオレは訓練に行かなくなった。

 そんなオレを、しつこく訓練所に引っ張り込もうとしたのが、ソグナトゥス先生だった。

 その日、オレは親が留守なのをいいことに、サボり仲間を家に招いて遊んでいた。そして壁穴から覗く胸筋先生に気付いて、みんなで絶叫したものだった。

 オレは日が暮れるまで町中を逃げ回ったが、胸筋はどこまでも追ってきた。

 最後は林檎を踏みつけて転倒し、そのまま捕まってしまった。

「もう放っといてくださいよ。なんでそこまでしてオレのこと……好きなんですか?」

「お前には才能がある。ゆくゆくは、スパルタクス随一の戦士になるべき男だ。一人の教官として、才能ある若者が腐っていくのを黙って見ているわけにはいかぬ」

「………」

 それからオレたちは、近くにあった神殿の階段に腰かけ、露店のおばさんからもらった林檎をかじりながら語り合った。

「あれから、母とは会っているのか?」

「いや、全然」

 だいぶ前に、母は父の暴力に耐えかねて家を出ていて、オレは険悪な仲の父と血湧き肉躍る日々を送っていた。先生はそんなオレのことを、いつも気にかけていた。

「会ってやれ。きっと喜ぶ。ずっと会いたがっていたからな」

 どの面下げて――そう言い返してやりたかったが、そこから言いくるめられそうな気がしたから、やめておいた。

 母さんはいつだってオレの味方だったから、こんな落ちぶれたオレでも温かく迎えてくれるかもしれない。だが果たしてそれは、心からのものだろうか? オレはあの男の血を引いていて、大人になるにつれて身も心もそいつに近づいていくだろう。今の自分はもう、母が愛してくれた自分とは違うのだ。

「しかし……あれだけ小さかったお前も、もう十五か。時が経つのは早いものだな」

「そうですね」オレは適当に相槌を打った。「そしてオレもいつかは、先生みたいなムキムキしたむさ苦しいおっさんになっていくんすね」

 ゴンッ!

 オレの頭に愛の鉄槌を打ちつけてから、先生は言った。

「悪かったな、むさ苦しいおっさんで。まったく……言うようになったわ。あの素直で可愛いかったベテルギウスはどこへ行ったのやら」

「オレはもう子供じゃないんでね」

「そうだな。だが、大人でもない」

「………」

「大人になるのを恐れているように、儂には見えるのだがな」

 やはり、先生はオレのことをよく見ていた。そして誰よりも的確に、オレの心を見抜いていた。オレは観念して、胸の内を明かしたのだった。

「オレは、みんなから愛される少年のままでいたかったんです。甘ったれたことを言ってるのは分かってる……けど、今までの自分じゃなくなるのかと思うと、嫌で嫌で……」

「!」

「みんな、前のようにはオレを見てくれないんです。ヌルポウス教官はやたらと鞭打ちしてくるし、先輩たちもやけによそよそしくなるし……」

 それは、普通の人には理解しがたい感情だったのかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。

 でも、ソグナトゥス先生は真剣に受け止めてくれた。

「そうか……お前がそこまで思い詰めていたとはな。だが、ヌルポウスのことは気にするな。あやつは加虐趣味だからな。鞭打ちされるのは、気に入られている証拠だ」

「………」

「それとな、子供の頃から面倒を見た教え子は、いくつになっても可愛いものだ。儂は今でも、これからもお前を愛しているぞ」

「全然嬉しくないです」

「それは悲しいな」

 そう言いながらも、まんざらでもなさそうなソグナトゥス先生だった。

 短い、色っぽいため息をついてから、先生はまた口を開いた。

「確かに、大人になるにつれて、少年のような愛らしさは失われる。誰よりも愛されていたお前だ。戸惑うのも無理はない。しかしな、ベテルギウスよ。大人になって失われるものもあれば、得られるものもある。お前は大人になって、もっと素晴らしいものを手に入れるだろう」

「もっと素晴らしいもの……?」

「そう、愛だ」

「!」

「お前を愛してきた儂だから分かる。誰かを愛することは、愛されることよりも幸せだ。誰か一人でも愛する者がいれば、それだけで生きてきてよかったと思える。愛情に包まれて育ったお前ならば、誰よりも愛情深い男になれるだろうと、儂は期待しておる」

 ソグナトゥス先生の低く重々しい声が、この時は魅力的に感じられた。

 愛――腐るほど聞いてきた言葉だが、その本当の価値に気付いたのはこの時だったのかもしれない。そして男として生まれたことに誇りを持てるようになったのも、この時からだったのかもしれない。続けて先生が口にした言葉は、オレの胸に深く刻まれている。

「愛は、戦士が持つべき最も大切な資質でもある。愛する者のために戦う時、人は真に強い戦士になれる。守るべきものがあるからこそ、人は身命を賭して戦うことができる。儂は、そのこともお前に期待しているのだよ」

 次の日から、オレは訓練に復帰した。

 オレはもう完全に開き直っていた。今まで自分が愛されてきたように、可愛い後輩たちに愛情を注いで注いで注ぎまくった。そうすることで、オレの心は満たされていった。

 かつての美しかった自分はもういない。だがそれは、もう大した問題じゃなかった。もっと美しいものが、この世には溢れているではないか。オレはそれを愛でればいい。

 おお、神よ! お前、いい奴だな! 酷い奴だとか言ってごめんな!

 誰かを愛することで、こんなにも幸せな気持ちになれるなんて……

 神よ……愛を授けてくれて、ありがとう。


「守りたいものが、できたんです……なんのために戦っていたのか分からなかったオレも、やっと……見つけたんです。戦う理由を」

 ソグナトゥスの締め付けに必死に抗いながら、オレは言った。

「オレはスパルタクスを愛しています! でも、パルテミラもそれに負けないくらい、好きになってしまったんです! オレはローマの下で戦うよりは、パルテミラを守るために戦いたい! 愚かな教え子のわがままを、お許しください……!」

 このような形になるとは、夢にも思わなかった。どう取り繕ってもオレは、ソグナトゥスが期待していた通りの戦士になったとは言えないだろう。

 だが、ソグナトゥスは怒りはしなかった。

「ベテルギウス……立派な……戦士になったな」

 敵として見えたオレを、一人前の戦士として、認めてくれた。

 愛しそうにオレを見つめるその目から、涙が零れ落ちる。

 チンッ

「ぬおおおおお!?」

 その瞬間、オレはソグナトゥスの股間を蹴りつけたのだった。

 最低だ……オレ。

 そう思うのもそこそこに、締め付けから解放されたオレは馬に飛び乗り、味方に呼びかけた。

「今だ! 突破しろ!」

 ソグナトゥスが痛みに悶えている隙に、オレたち重装騎兵はスパルタ戦士の壁を迂回して、先へ進もうとした。だが――

「待てい! そこまでだ!」

 あっという間に復活したソグナトゥスが、再び重騎兵の前に立ち塞がった。

「スパルタクスのために、儂は戦わねばならぬ。ここは通さん!」

 おかげでオレは、ヴェルダアースの本隊から切り離されてしまった。付き従う味方は五十騎もいない。

「ベテルギウス! 先に行け!」ヴェルダアースは言った。「霊羊騎兵と合流すれば、協力して戦うこともできるだろう」

「御意!」

 こんな半端な兵力でスパルタ戦士の相手をすれば、すぐに叩き潰されてしまう。ヴェルダアースとの合流は諦めるしかなさそうだった。

「そこの若いの! 儂の相手をせい!」

 ソグナトゥスの挑戦に、ヴェルダアースが応じる。

「私もここで止まっているわけには行かないのでな。手加減はできないが、それでもいいか?」

「スパルタクスをなめてもらっては困る。戦場で死ぬことこそ我らが本懐だ。来い!」

 スパルタクスの胸筋大魔王対パルテミラの胸筋大魔神。究極の対決を見届けることなく、オレは霊羊騎兵との合流へ急いだ。ソグナトゥスへの思いを胸につづりながら。

 先生、最後まで迷惑かけてばかりですみません。

 そして、今まで愛してくれてありがとう……

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