Ⅹ.雷光祭‐②

 観戦場所に戻るや否や、オレは信じてもいない神に、ひたすら祈りを捧げた。

 ジェロブが勝ちますように……ジェロブが勝ちますように……

 上位二騎が勝ち残れるのは、予選と同じだ。だから、ここでアルバロスに勝つ必要はないのだが、そのアルバロスが予選二位だったことが事を難しくしている。すべての組に予選一位の騎手が五人いるわけだが、この組ではその五人に加えて、前回の優勝者を相手取らなければならない。準決勝四組の中で最も激しい競争になるのは、間違いない。

 おお神よ! どうかご慈悲を……!

 開始を告げる角笛の音が鳴る。

 隣り合うジェロブとアルバロスは、ほとんど同時に動き出した。

 速い。速すぎる。そんなに速くていいのか!?

 決勝のために余力を残しておこうと考える者は、一人もいなかっただろう。だがそんな中でも、ジェロブとアルバロスは突出していた。準決勝でここまで差が出るか……中間地点を過ぎても、まだ二人は並んでいた。

 そしてついに、ジェロブの狩猟豹が頭一つ突き抜けた。オレは客席の柵に身を乗り出す。

 その、直後だった。

 アルバロスに抜き返されたジェロブが、急に失速していった。差はどんどん広がっていき、終着地点まであと一歩のところで、追い上げてきた狩猟豹に抜き去られてしまった。

 オレは頭を抱えて地面に倒れ込んだ。

 あんなに祈りを捧げたのに、なんと無慈悲な神様だろうか……そんなにジェロブの泣き顔が見たいか!?

 あいにくと、ジェロブは泣かなかった。代わりに、神よりジェロブを信ずる者たちが、そこかしこで泣いていた。オレも泣きたい気分だったが、それはスパルタクスで鍛えられた涙腺が許さなかった。

 さて、一方のエミールはというと、第四組での登場だった。

 ジェロブの敗退で沈んでいたオレは、第二、三組の競争を見逃していたが、エミールの名が呼ばれた時は流石に我に返った。ジェロブ一人を応援しに来たわけじゃない。こんな気持ちじゃダメだ。

 動揺するオレとは違って、エミールは落ち着いていた。

 笛の音に素早く反応し、爆発的な加速で他を引き放すと、途中から歩調を変え、最後まで失速することなく駆け抜けていった。

 この時になって、オレは初めてエミールの乗り方の特異さに気付いた。

 練習で見た時は気にならなかったが、大勢の騎手と並んで走るとかなり目立つ。

 他の騎手はしがみつくような姿勢なのに、エミールはただ座っていた。上体は前傾させていたものの、違いは一目瞭然だ。アルバロスのような躍動感はないが、なんと言うか……一人だけ馬に乗っているかのような、優雅な乗りこなしだった。


 決勝前の小休止の時間。

 オレが待機場所に来た時、ちょうどジェロブがエミールに叱られているところだった。

「どうしたんだよジェロブ!? あんなに飛ばしたらすぐバテるに決まってるだろ」

「隣がアルバロスだったから、ついムキになっちゃった」てへっ、とジェロブ。「無理させてごめんね、アルル」

 友達のためにムキになっちゃうなんて……可愛いじゃないか。

 悲しい結果に終わったが、これはこれでよしとしよう。

「決勝進出おめでとう」

 オレが祝いの言葉を贈ると、エミールは「どうも」と照れくさそうに応じた。

「なんか、エミールの乗り方って結構変わってるよな。馬に乗ってるみたいな」

「ああ、あれね……」

 そう、あれあれ。

「あれは新しい走り方のせいだよ。オレは騎乗したまま両手で剣を使いたかったから、揺れの少ない安定した走り方を、フワワに覚えさせたんだ。それでああなった」

「なるほど…………って、狩猟豹に乗りながら双剣使うって、もう訳分からんな」

 しれっと、とんでもないことをやってのけているエミール。「まあ、今のところはオレにしかできないし」と、誇らしげだ。

「新しい走り方は、元のより遅くなる代わりに、長く走ることができた。それがたまたま、一スタディオン約百八十メートルを三回も走る雷光祭にはピッタリだった」

 偶然の発見には違いない。が、エミールの飽くなき努力あってこその発見だ。

 いつ引退するかも分からないのに、なぜそこまで頑張れるのだろう?

 狩猟豹に乗れなくなる日が来たら、エミールは耐えられるだろうか?

「フワワは、女帝陛下が贈って下さったんだ。オレのために一番大きかったのを選んで」

「ほう」

 結構世話焼いてんだな、あの方も。

「だから、フワワで優勝することが一番の恩返しだと思ってる」エミールは言った。「フワワの実力は、まず間違いなく一番だ。あとはオレ次第なんだ」

 エミールの視線の先では、主人を差し置いてジェロブと戯れるフワワの姿。

 こりゃあ、ジェロブに文字通り乗っ取られるのも時間の問題だな――と、オレは意地悪な想像を巡らせる。下手すればエミールの引退より先かもしれない。その方が喪失感は少ないかもしれないが。

 ジェロブが『英気の光』でフワワを癒していると、あいつがやって来た。

「オレのも回復させてくれよ」

 アルバロスだった。隣には主人に似て小柄な狩猟豹もいる。

 準決勝を争った相手の要求に、ジェロブは曰くありげな笑みを浮かべ――

「いいよ。負けた腹いせに細工しちゃおっかな」

「やめろ」

 世にも珍しいジェロブの冗談に、アルバロスは苦笑する。

 あらかじめ回復役として配置された王宮魔術師がいるのに、あえてジェロブに頼むあたり、よほど信頼しているらしい。一方で、エミールとは目を合わせようともしなかった。またなにか言ってくるんじゃないかと、警戒していたのだが……

『英気の光』に包まれる狩猟豹を見つめたまま押し黙る因縁の二人。

 やがてエミールが口を開いた。

「次で最後だな」

「なにが?」

 アルバロスの返答は短い。視線は狩猟豹に向いたままだ。

 エミールはムッとした表情を浮かべて、

「決まってるだろ。オレとお前の勝負だ」

「…………だから、なに?」

 わずかに目が泳いだようにも見えたが、アルバロスが口にしたのはそれだけだった。

 柔らかそうなほっぺを少し膨らませて、再び押し黙る。

「素直じゃないな、お前も」オレは、ほっぺをムニムニしたい衝動を抑えて、言った。「こんなにいい競争相手は、他にいないだろ。最後くらい、正々堂々と向き合え。あとになって、競争相手がいなくて寂しいとか言って泣くなよ」

「泣かねぇよ!」

 思いがけない方向からの横槍に、アルバロスがやっと素の反応を見せた。

 ハッ、とエミールの方を見遣り、決まり悪そうに言った。

「まあ、確かにお前はいい競争相手だったよ。正直、今年も決勝まで残るとは思ってなかったけどな」そして、力のある眼差しをエミールに向けて、「最後に相応しい勝負にしようぜ。勝っても負けても、恨みっこなしだ」

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