Ⅴ.御前試合‐③
短めの休憩のあと、とうとうオレの出番がやって来た。
「次は特別な試合となります。ベテルギウス、前へ!」
聞いたこともないその名に、会場は一瞬静まり返る。
そしてオレが決闘の円の中に入り、『蜃気楼』に映し出されると、低くざわめき始めた。
なぜ男がここに? いや、あれはでっかい幼精だ。しかしそれにしては筋肉が……
「彼は、此度の戦でヴェルダアース将軍が捕虜にした、スパルタクスの将軍です。現在は降伏し、特例によりテシオンに滞在しております」
進行役の幼精が、すぐさま市民に向けて補足する。
むろん、そんなもので市民たちの疑問が消えるはずもないが、誰かが「殺っちまえ」と叫ぶと、再び会場は熱気に包まれた。
そう、これはカルデアの戦いの再現なのだ。
ヴェルダアースが、ローマ軍最強の敵――ベテルギウスを打ち破った名場面の。
「よお、調子よさそうじゃねぇか」
「お前の方こそ、元気そうでなによりだ」
オレは円の中心へと進み、ヴェルダアースと向かい合った。
「まさか、こんなに早く再戦できる日が来るとはな。不意討ちでやられた前回とは違うぜ」
「何度やっても同じだ」オレの世迷い言に、ヴェルダアースが冷淡に切り返す。「敵前で上の空になる阿呆に勝者の資格はない。せいぜい負けた時の言い訳でも考えておくんだな」
そうだな――オレは言われた通りに、言い訳を考えてみた。
こんなヴェルダアースびいきの声援の中で戦うなんて、不公平だ!
試合開始の笛が吹き鳴らされた。
その瞬間、ヴェルダアースの纏う空気が一変した。刃の切っ先のような鋭い眼が、オレを威圧する。それは闘志や殺意といった沸々としたものではなく、神が遥か高みから人を見下ろすような、冷厳たるものだった。
オレは猫につんつんされた鼠のように硬直していたが、ヴェルダアースが一歩踏み出すと、「ぬおおぉう!」と雄叫びを上げて斬りかかった。
攻めの刃と逆襲の刃がぶつかり合う。
激しい金属音が、続いて息が止まるほどの衝撃がオレを襲った。
それから何合か打ち合ったが、やはり一撃の重みが尋常ではない。盾で受けていた前回以上に重く感じる。刃を交える毎に、エミールに脇腹を殴られているかのようだ。
お互い徒歩で剣と剣。正直、かなり分があると思っていたが。甘かった。
盾があればなぁ……
そんなオレの詮無き心のつぶやきは、異様な金属音に掻き消された。
まずった……! 剣が折れてしまった――驚く間もなく、もう一発が来る。
ガッ!
ヴェルダアースの剣が、オレの頭を叩いた。
「おお!」という声が、観客側から漏れる。
だが、オレの『霊験の鎧』は割れなかった。咄嗟に首を倒して、切っ先の直撃を免れたのが幸いしたらしい。
「今のは不意討ちか?」
「ああ。剣が意外と脆かったんでな。今のは剣が悪い」
「なるほど。次はどんな言い訳を聞かせてくれるか、楽しみだ」
風が、吹きつけてきたように感じられた。
次の瞬間には、ヴェルダアースの姿は目の前にあった。
龍が天に昇るような、突き上げるような一撃――名付けて『
これが気功の力なのか――力も速さも、先程までの比ではなかった。
「折れた剣でよく防ぐ。だがこれでどうだ?」
腕の長さを活かした、捻じ込むような突きを、ヴェルダアースは繰り出した。
なめんな! オレの方が腕長ぇんだぞ!
そう心の中でつぶやいて、オレは身を翻して突きをかわす。そのまま剣を振りかぶり、反撃に転じようとするが――
深く突き込まれたヴェルダアースの剣が、躍った。
オレの懐の中で、踊り狂った。
それは突きから派生する乱斬の嵐。名付けて『
スパルタクスの盾と言われたオレの守備力を以ってしても、すべてを防ぎ切ることは不可能だった。肩、肘、頬と、次々にヴェルダアースの剣撃を浴びていく。
そしてついには、胸を守ろうと突き出した剣も払い除けられ、がら空きになった胴に、決定的な一撃が叩き込まれた。
オレはゼノビアさながらに吹っ飛び、仰向けに倒れる。
どっと上がる歓声。熱狂的な観客が美髯将軍の名を叫び、続けて音響魔法が掛かる。
だが、勝者は告げられなかった。
理由は単純明白。『霊験の鎧』が割れていないからだ。
歓喜が動揺に変わるのは、一瞬だった。
「なぜ割れない……!? 今のは完全に入ったでしょ!」
「ゼノビア様みたいに、インチキしてるんじゃないの!?」
次々とかけられる、あらぬ疑い。
しかしヴェルダアースは、オレがなにも不正を働いていないことを知っていた。
「妙に手応えが弱い。お前、一体なにをした?」
「なに、別に特別なことじゃないさ」オレはむっくりと体を起こす。「打たれる瞬間に、体を引いて衝撃を和らげたんだ。スパルタクスの
そう、これは地獄より過酷な訓練の賜物だ。テシオンという名の天国でぬくぬく育った者たちには分かるまい。名付けて『
「まさか、剣闘試合で役立つとは思わなかったがな。『霊験の鎧』とやら、思った以上に丈夫らしい」
「フッ……馬鹿なことを」ヴェルダアースは苦笑した。「そんな芸当ができるのは、お前くらいだろう。『霊験の鎧』は刀傷には強いが、大きな衝撃を受ければすぐに割れる」
確かにな……刃引きした剣でもなければ、どうなっていたか分からない。
本当の戦いだったら、オレはとっくに死んでいる。だがこれは特別な規則を設けた試合なのだ。最後まで『霊験の鎧』が割れなかった方が、勝つ。
「聞いたぜ。あんたの使う気功ってやつは、結構体力使うんだってな。このままじゃまずいんじゃないのか? オレはもうあんたの剣に慣れた。二度もあんな攻撃は喰らわないぜ」
「そのようだな。出し惜しみしている場合ではないようだ。かくなる上は、我が全力を以って、お前の『霊験の鎧』を粉砕するとしよう」
ヴェルダアースの――龍の息遣いが、ここまで伝わってきた。
エミールの言っていた、ここぞという時がやって来たようだ。
消耗の激しい気功は諸刃の剣。ヴェルダアースが一息に押し切るか、オレが耐え切り形勢逆転か。
観客たちの声は、もう聞こえていなかった。
この決闘の円の中は、二人だけの空間。オレの闘志とヴェルダアースの鋭気だけが支配していた。
空気が震え、ヴェルダアースの姿が消える。
オレは反射的に跳び退る。視界の端に、一瞬だけヴェルダアースの姿が映った。
この構えは――いきなりの『牙龍乱嵐』
かわすだけではダメだ――そう頭に刻んでいたオレは、突き込まれる剣を弾こうとした。
が、ヴェルダアースの剣はびくともしない。そこから無慈悲な乱斬が始まる。
やはりすべてを防ぎ切ることはできない。致命的な打撃は避けたつもりだったが、掠った剣撃のいくつかは、試合終了を意識するほどの衝撃があった。
嵐が止んだかと思えば、続けて『
どれも掠っただけで即敗北の大技。特に『龍舌乱舞』は危なかった。
オレはもう、目で追えてはいなかった。すべての感覚を総動員して、ほとんど勘だけで防ぎ切った。
ヴェルダアースの剣捌きは美しい。一つ一つに技の名前を付けてやりたいくらいだ。しかしだからこそ、オレはその剣筋を見切ることができたのかもしれない。ヴェルダアースとはこれで二戦目。しかもどちらも防戦一方だったから、剣と槍の違いはあるにせよ、ヴェルダアースの攻撃の癖はだいたい分かっている。
とは言え、オレの集中力の限界も近付いていた。
どれだけ耐えても、ヴェルダアースの攻勢が弱まる気配はない。気功の呼吸なんて使っていなくても、普通これだけ打ち合っていればへばってくるはずなのに。つくづく、恐ろしい奴だ。
とにかく一秒でも長く耐える、オレの頭はそれで一杯だった。
そんな無我の境地が破れたのは、ヴェルダアースが、見たことのない構えをした時だった。
なにが来る……? 分からない……なら……
オレはとっさの判断で間合いを詰め、出の早い攻撃で牽制しようとした。
瞬間――オレの折れた剣が空の彼方に弾き飛ばされた。
「……!」
オレの手元には、もうなにも残っていない。
無表情だったヴェルダアースの顔が、綻ぶ。
が、オレはまだ諦めてはいなかった。
「どうした! オレの鎧は、まだ割れてないぞ!」
勝利を確信しての油断か、疲労が出たか。ヴェルダアースの動きが一瞬鈍ったように感じたのだ。
それはヴェルダアースが見せた、最初で最後の隙。オレは見逃さなかった。
止めの剣が振り下ろされる寸前に、オレは残されたありったけの力で、ヴェルダアースに突進した。
異様な衝突音が、王宮前広場に轟いた。
ヴェルダアースが吹っ飛び、オレはぶっ倒れる。
オレの『霊験の鎧』が、肩口から消えていく。向こうで体を起こしたヴェルダアースのも、半ば消えかかっていた。
その間、会場は水を打ったように静まり返り、声を出す者もいない。
相討ち――『霊験の鎧』同士がぶつかり、両方割れた。
この場合、どうするのだろうか。
『霊験の鎧』が完全に消えたのは、ヴェルダアースの方が先だった。肩と腹でぶつかり合えば、丸みのある肩の方が強いということだろう。
はっと我に返った審判が、女帝の顔色をうかがうそぶりを見せた。
こういうのは、権力者の御心一つで簡単にひっくり返る。
が、女帝ゼノビアは微笑むだけで、特に合図らしきものは出さなかった。
審判の幼精は、悩んだ末に――
「双方、『霊験の鎧』消失! ただし、消失順があとだったことにより、勝者はベテルギウスとする!」
歓声は上がらなかった。
国民的英雄として崇められる美髭将軍が、得体の知れない変態将軍に敗れる――あってはならないことが、起きてしまったのだ。落胆の程は計り知れない。
「体当たりなんて無効よ! やり直しなさい!」
「その男は剣を失っている! ヴェルダアース様の勝ちだ!」
続々と上がる、抗議の声。
もうやめてくれ。かわいそうに、幼精の審判が怯えているじゃないか。
だんだんと大きくなる抗議の声を遮ったのは、王者の風格に満ちた、堂々たる女の声だった。
「静まれ! それが正々堂々と、死力を尽くして戦った者たちに対する礼儀か!」
ゼノビアが、露台から見下ろしていた。
自らは反則しまくっていただけに、かえって説得力がある。
「御前試合は、先に相手の『霊験の鎧』を破った者が勝ち。いずれが勝者であるかは、誰の目にも明らかじゃ」
『霊験の鎧』に不正がなかったことも、体当たりで両方割れたことで証明済みだ。
打って変わって、オレの勝利を祝福する拍手が、控えめながらも湧き起こった。
「ベテルギウスよ。素晴らしい戦いぶりであったぞ。剣を失っても諦めないその闘志、我が国の戦士にもぜひ見習ってもらいたいものじゃ」
「もったいないお言葉でございます」
オレがしたり顔で応じると、ゼノビアは満足そうに微笑んだ。
そしてさらに、儀式めいた厳かな声を、空から投げかける。
「改めて問う。パルテミラのために、お前のその力、捧げる気はあるか」
オレはうやうやしく跪き、新しい主君に向けて、誓いの言葉を述べた。
「はっ! パルテミラの平和と繁栄を守るためならば、このペテ……ベテルギウス、万死も厭わぬ所存でございます!」
それは、オレが正真正銘の――テシオンの市民となった瞬間であった。
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