Ⅺ.護国の聖歌‐①

 オレがその地下牢を訪れたのは、雷光祭から三日後のことだった。

 牢内は薄暗かったが、ひんやりとした空気が心地よく、清掃も行き届いている。まだ暑さの残る地上に比べれば、むしろ快適なのではないかとすら思える。

「また会ったな。アビソス・ズーマ」

「誰が『時の深淵アビソス・ズーマ』だ」

 オレの呼び掛けに、この地下牢で唯一の囚人は、元気な声で応じた。

 メリハリのある目鼻立ちで、淡い金色の髪は胸元に届くほどに長い。三ヶ月に及ぶ牢内生活で、流石にやつれていたようだが、美女と見紛うほどの美貌は健在だった。

 スレイナを暗殺した、半幼精の暗殺者だ。

「オレの名はティリオン。もう調べはついているはずだ」

「そうだった、そうだった。どうも、あの魔法の印象が強過ぎて……」

 この野郎――と言いたげな顔で睨みつけてくるティリオン。

 だが、あの時のような殺気は、もう感じられなかった。

「それで、どうしたんだ急に? オレなんかを呼び出して」

 そう、オレをここに呼んだのはティリオン自身だった。意外なことではあるが。

「昨日、女帝と話をした」

「!」

「甘いな、あのゼノビアという女は。スレイナを殺したオレを殺さないどころか、一切責めることもしなかった」

 オレの知らないところで、いろいろと事が進んでいるらしい。どこまでも世話焼きな女帝だ――そう思いつつ、オレはティリオンの言葉にうなずいてみせた。

「同感だ。オレもあいつに生かされた。ローマ軍の手先として、この国に剣を向けたにもかかわらずだ。オレがローマではなく、祖国スパルタクスのために戦っていたことを、あの女帝は見てくれていた」

「オレは……お前とは違う。オレはただ、私怨のためにこの国をぶち壊そうとした。それなのに、なぜゼノビアはオレを殺さないんだ?」

「お前の境遇は、エミールと似ている。だから殺す気にはなれなかったんだろう」

「………」

「あいつはエミールのことを、我が子くらいには可愛がっているからな。昨日もエミールの自慢話の一つや二つ、聞かされたんじゃないのか?」

「ああ……雷光祭で優勝したと言っていた」

 苦々しげに、ティリオンは言った。同じ半幼精なのに、なぜこうも違うのか――そんな思いが、声からも顔からも滲み出ていた。

 オレは隅っこにあった丸椅子に、どかっと腰掛けた。それから、ふうっと一息つき――

「ゼノビアは、建国以来続く男女の分断を終わらせたいと言っていた。オレを女の都テシオンに引き入れたのも、そのためだと」

 ティリオンは黙ってこちらを見つめている。オレの言葉の意図を探るかのように。

「この数カ月で、テシオンは少しずつだが、確かに変わってきている。男の――しかも敵であったオレですら、一市民として受け入れられている。やがて国全体も変わっていくだろう。女帝ゼノビアの統治の下で」

 顔を伏せるティリオン。

「お前は前に言ったな。オレたちの屈辱の日々も知らずに、ぬくぬくと生きるお前たちが許せない――と。そうさ。オレたちはぬくぬく幸せに生きているさ。いいじゃないかそれで。この国に生きるすべての人が、幸せに生きる権利を持っているんだ。もちろんお前も」

「………」

 反応がない。壁際で首と髪を垂らしたまま、ティリオンは死人のように沈黙している。

 それでもオレは、話を続けた。

「お前は人の幸せをぶち壊すことで、苦しみを紛らわそうとした。だが、そんなことからはなにも生まれない。どんなことがあろうと、前に進んで、幸せを求めるべきだった。簡単な道のりではなかったのかもしれない……が、今ならゼノビアが手を差し伸べてくれるはずだ」

 うつむいていたティリオンの肩が、震え出した。

 冷たい石張りの床に、ほろりほろりと零れ落ちたのは、涙。

「今さら、もう遅い……! この十年、オレは復讐のためだけに生きてきた。今さらまともな生き方ができるはずもない」

 嗚咽の混じったその声は、怒り、悲しみ、恐怖……長年にわたる苦難の日々の中で溜め込まれた、あらゆる感情を絞り出したかのようだった。

 ティリオンはオレの前で、初めて弱さを見せたのだ。

 彼の生い立ちはそれとなく耳にしていた。

 仲睦まじい男と女精の間に生まれ、幼少期はセルキヤで過ごした。母がアミュンタス王立学校の卒業生で、古代語魔法の天才として知られていた。ティリオンもその才能を受け継いでいたようで、セルキヤの学校では、上級生に混じって古代語魔法を学んでいたという。

 だが、母が病で命を落とすと、ティリオンは卒業の日を迎えることなく、父とともに行方をくらませた。元々、女精と男が交わることを忌む者は多く、ティリオンたちは孤立していたという。母の死でさらに状況が悪くなったのかもしれない。

 その後のことはよく分かっていないが、旧パルミュラ勢力の暗殺者として処刑された者の中に、ティリオンの父の名があった。ティリオンも、父に倣って旧パルミュラ勢力に加わったのだろうか……

 確かなのは、ティリオンが人に恵まれなかったことだ。そこが、生まれた時から女帝という強力な味方を得ていたエミールとの、決定的な違いだった。

 もしティリオンと、もっと早くに出会っていれば――ティリオンがすすり泣く音を聞きながら、オレはもうどうにもならないことを、ぼんやりと考えていた。

 十年分の涙を流し尽くすと、ティリオンはようやく顔を上げた。しゃっくりはまだ止んでいなかったが、目には暗殺者だった時のような、強い光が宿っていた。

「一つ、情報をくれてやる」

「なんだ? 言ってみろ」

「大ローマ帝国が、近いうちに再びパルテミラに侵攻する」

「!」

 背筋を冷たいものが走り抜けた。ローマの来襲をまったく予期していなかったわけではないが、その報せがティリオンの口から出るとは思っていなかったのだ。

「なぜ、お前がそれを知っている?」

「ローマ軍の侵攻には、オレたちパルミュラ派が関与している。カルデアの時がどうだったかは知らないが、今回のことは主から聞いた」

「主……パルミュラ派の指導者か」

「そうだ」ティリオンは小さくうなずいた。「主の名はキュロス。パルミュラ最後の王――ダライアスの末裔にあたる男だ」

 ゼノビアから聞いた通りだ。

「決戦の時が来たと、キュロスは言っていた。彼は今、南の小国ナバタイに潜伏しているはずだが、恐らく、私兵を連れてローマの軍列に加わることになるだろう」

 話を聞くうちに、鼓動が早くなる。

 別に、ローマが怖いわけじゃない。あんな奴らに、パルテミラが負けるはずがない。ローマ軍として戦ったことのあるオレが言うんだから、間違いない。たかが地中海の覇者……されど地中海の覇者ではないか。そう、決して恐れることはないのだ。

「ローマはカルデアで大敗したばかりだ。本当に来るのか?」

「六月中に聞いた話だ。絶対とは言わない。だが、十中八九来ると思った方がいい。ローマ軍はすでに、霊羊騎兵アルセラフスに対抗しうる兵を完成させている」

「霊羊騎兵に対抗しうる兵……?」

 忌まわしげに、声を潜めるようにして、ティリオンは言った。

「魔峰ヴェシモス山の話を、お前も聞いたことくらいはあるはずだ。ローマ軍は今回の遠征で、ヴェシモス山から来た魔物を投入する予定だと聞いている。にわかには信じ難いだろうがな」

「………」

「オレが知っているのはここまでだ」

 どこまで、この話を信じていいのだろうか。

 魔峰ヴェシモス山――七年前の大噴火以降、その周辺地域では魔獣が跋扈するようになったと聞く。幽霊すら見たことがなかったオレは、どうせ御伽話だろうと思って信じてこなかったのだが、それが現実のものになろうというのか。

「これを言うために、わざわざオレを呼んだのか?」

「最初は迷っていた……だが改めてお前と話してみて、お前になら委ねてもいいと思った。国の存亡が懸かったこの情報を」

 穏やかな顔で言ったティリオンは、もはや恐ろしい暗殺者ではなく、明日を憂える憐れな若者だった。

「ゼノビアじゃダメだったのか?」

「……女は嫌いだ」

「女装してたのに?」

「黙れ、殺すぞ!」

 おお、怖い。

 鉄格子があるのをいいことに、もう少しおちょくってみようかと思ったが、本気で嫌われそうだからやめておいた。

「あと十年、早く会っていたら……オレたち、意外といい友になれたかもな」

「誰がお前なんかと」

 吐き捨てるようにティリオンは言ったが、また穏やかな表情で、どこか遠くを見つめ――

「だが、今とは違う生き方ができたかもしれぬな。もう遅い……遅過ぎるがな。時を操る我が魔法を以ってしても、過ぎてしまったことはどうにもならぬ」

 彼がこの先どうなるか――それはパルテミラの民と、スレイナの霊の心次第だろう。

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